第108話
ゲート侵入から既に長い時間が経過していた。
時藤茜の体はほぼ上半身だけだったものの、失われた部分の魔力回路だけが光の筋となって立体的、
それは今にも消えてしまいそうなほどか細く、絶妙なバランスで原型を留めていた。
「――治癒術、発動」
呟くような詠唱には、最後の一句まで全神経の集中が注がれる。
途端、か細い光の筋に魔力が流れ始め線の隅々にまで行き渡ると円滑な循環が行われる。それはまるで、魔力回路という事実に追っつけるみたく体は再生をはじめた。
黒井はその様子に異変がないかを油断なく見届ける。
『たいしたものだな。その業はもはや、人体を創るのと相違ない』
感嘆の声に黒井は反応しなかった。
ただ、無事に体が再生したことに安堵の息を吐いただけ。
『あとは意識が戻るかどうかだが、それは神のみぞ知るといったところであろう』
「……神のみぞって、あんたがそういう存在じゃないのか?」
やがて、ようやく声の方へと顔を向けた黒井。
そこには高濃度の魔力に包まれた円形の結界のようなものがあった。声は、その結界のひび割れた中から響いている。
『そんなことは我にもわからぬ。その者の意識は散り散りになっているからな。何かの拍子にそれらが結合すれば目覚めることもあるだろう』
「体は治した。なら、次期に目覚めるんじゃないのか?」
『目覚めはするだろうが、それが明日なのか百年先なのかは知らぬ』
黒井は茜を見たが、体は完全に元通りになっている。呼吸も見る限りは正常。
今にも目を開けそうだが、そうではないらしい。
『キサマにはその者を目覚めさせる
「目覚めさせる術だと……?」
『鬼にすれば良いではないか。無理やり角を生やし、物理的な意識の結合を促せばよい』
黒井は目を見張った。そんな彼の反応に返ってきたのは含み笑い。
『我の目は真理を見通す。その術をキサマは持っているであろう?』
そんな問いの直後、円形のひび割れから突起のようなものが顔をだした。それは卵の殻を自ら破るみたく、円形の外殻を内部から壊していく。
その突起は角だった。
やがて、壊れた穴から洞窟の地に降り立ったのは四足の
――
目にしたのは初めてではあるものの、その姿はあまりにも有名。その存在は、神と名のつく獣の一つ。
『その術で鬼にすれば良いではないか。変異した者よ』
そんな神獣の視線が黒井を射抜いていた。
「鬼に、だと」
『そうすれば、その者を強制的に目覚めさせることができよう』
確かに、黒井には人を鬼に変えるスキルがあった。それを看破する能力が麒麟にあるのなら、茜の意識が散り散りになっているという言葉も間違いではないのかもしれない。
鬼にすれば目覚める、という提案も。
しかし、黒井はそれをしようとは思わなかった。
『クックッ……死ぬ命運を躊躇いもなく捻じ曲げるような者が、鬼にするかを躊躇うとは実に滑稽だな。その者が目覚めなければ、キサマが労力を割いて体を治した事実など無に帰すというのに』
嘲笑う声に、黒井は鋭い視線を向ける。
「それで目覚めたとしても、鬼になったことを受け入れられなきゃ意味なんてないだろ。彼女がそれを望まないのに鬼にするつもりはないな」
そう返した黒井の言葉を麒麟は『くだらぬ』と切って捨てた。
『偽善じみた詭弁よ。その者が望まなくとも、キサマがそれを望めば良いではないか』
「俺は生きられる選択肢を用意しただけだ。俺がそれを望むわけじゃ――」
『ならば、今ここで殺してくれよう』
瞬間、麒麟のツノから茜に向かって電撃が放たれた。
それを黒井の手がなぎ払うように掻き消す。
一瞬の出来事だった。油断していれば、直撃は免れなかっただろう。
「……何してんだ」
殺意ある低い声。しかし、麒麟はそれを意にも返さない。
『我は邪悪な存在を望まぬ。その者が目覚めぬ方が都合がよい』
「なら……なんで、ここまで邪魔しなかった」
『キサマが望んでいると考えたからに決まっている。変異した者よ』
「俺の望み一つで生死を変えるなんて、ずいぶんと高く評価されたもんだな?」
軽口ながらも黒井の煽るような指摘に、麒麟は呆れるように鼻を鳴らした。
『キサマは一体何を恐れている? その為に変異したのではないのか?』
今度は、黒井が鼻で笑う番。
麒麟の言い方はまるで、黒井が望んで変異したかのような言い方だったからだ。
「俺は、誰かを勝手に鬼にするために変異したわけじゃない。変異を望んだのは超越者なんて呼ばれてるお前らの都合だろ」
『キサマが変異し手に入れた力は、その、
その返しに、黒井の目は細くなる。
「……何言ってんだ。お前らのせいで、俺は人から鬼に変異したんだろ」
麒麟はジッと黒井を見据えていた。
やがて、
『クックッ……クハハハハハ!!』
咳をきったように笑いだしたのだ。
「……なにがおかしい」
『キサマこそ、何故おかしいと思わぬ? 鬼がキサマのように体を治す
――何を。
その説明を噛み砕く時間を与えず、麒麟は続ける。
『盲目なる善性者よ。キサマはそれを叶える目を与えられたにも関わらず、まだ寝言を言っておるようだな。いい加減に目覚めるがいい』
その言葉の直後、バチバチッと何かが弾けるような音がした。
その発端は麒麟の角。青白い閃光が空気中を裂くように駆け、黒井の額の角へと繋がる。
脳天を焼け尽くすような衝撃が走った
――深層心理に何者かがアクセスしました。
――隠された記憶『ミコト』が解放されました。
――称号【救済者】を得ました。
――回復による経験値の獲得が可能となりました。
その電撃は、黒井が忘れていた記憶を強制的に思いださせた。
そして、その記憶は黒井ではない誰かの記憶でもあった。
見える景色が混在し、その時の思考と感情すらもが並列する。
まるで――右眼と左眼で違う視点を視ているかのように。
「回復による経験値……」
やがて、我に返った黒井は天の声の情報に眉毛を寄せる。
『何もおかしなことではない。生と死は同等の価値を持つのだから』
その答えを麒麟は当たり前みたく語ったが、黒井の眉は寄せられたまま。
『キサマたちの言うレベル上げとは、殺生によって
「……待て。まるで理解が追いついていない」
その説明は黒井の耳をなんの取っ掛かりもなく素通りしそうになった。それを必死で引き止めると、麒麟は困ったように息を吐く。
『殺すとはつまり、その者が生きる世界線ごと消滅させるということだ。ならば救うとはつまり、その者が死ぬ世界線を殺したということでもある』
「世界線を……殺す?」
『キサマはたったいま殺したではないか。その者が死ぬはずだった世界線をな』
麒麟の視線は、黒井から未だ横たわる茜へと移動した。
「世界線を殺すなんて意味が分からない」
『その者が未来で多くの人間を救えば、それはキサマの功績であろう。逆にその者が多くの人間を殺せば、それもキサマの功績といえる。そして、そもそもそんな未来とは、その者が生きなければ存在すらしなかったのだ。殺すことと救うことは同等でなければならぬ』
それは、黒井が理解しやすいよう優しく修正された説明だったに違いない。
しかし、真に理解するにはあまりにも情報量が複雑だった。
『まぁ、よい。重要なのはキサマの意志なのだから。それに、我がすべき事はもう終わる』
麒麟がそう言った途端、再び眩い電撃が黒井を襲った。
――神器【
――霊格があがります。
――称号【救済者】が反応しています。
――称号【殺戮者】が反応しています。
――神器【光背】による最適な形状変化が保留されました。
――適合させる称号を選んでください。
――【救済者】/【殺戮者】
「今度は……何をした」
『我ができる事をしたまでのこと。今回の戦いに我は初めから関与しているわけではない。故に、変異体を選別する猶予があるわけでもない。その権利をキサマに託す』
「……俺に託すだと」
『その神器は変異した形によって帯びる使命を変える。すぐに変異せぬということは、キサマには他の道があるということだろう』
「説明が全然足りてないな。勝手に妙な力を与えて放置するのはお前らの趣味なのか?」
『この空間の言語で説明するのは難しいのだ。キサマが我の言葉を理解できぬように、我もこの『アビス』と呼ばれた空間を理解することが難しい。おそらく他の者もそうだったに違いない。説明が足りてないと感じるのはそのためであろう』
「ゲームをしたこともない奴らが、ゲームを乗っ取るからそうなるんだろ」
『苦肉の策だったのであろうな。なにせ、今いる人間たちの多くは邪気や瘴気に対抗する力を持っていない。戦場をこうした形で分けるしかなかったのであろう』
麒麟は遠い目で虚空をみながら、そんな考察を口にした。
「……神器が帯びる使命とはなんだ」
『キサマに直結するような力ではない。それは他者に道を指し示す杖に過ぎぬ。
「……加護」
『用心するがいい。資質を持っていても器がなければ制御はできぬ。力を持っていても使い方を
麒麟はやはり、難解な言葉でしか説明しない。
そして、
『我にできることは終えた。この選定が正しいかどうかはわからぬ。しかし、我の前にたどり着いたということは、キサマがその可能性を持っているということであろう』
その存在は蹄から光の粒子となって消えはじめたのだ。
「ほんとにお前らは一方的だな。生と死が同等だと言うのなら、お前のせいで死んだ人たちを生き返らせてからいなくなれよ」
『それはできぬ。仮に生き返らせることができるのならば、それこそ生と死は同等ではなくなる。人は死を
「生きることに価値を見出すために死があるわけじゃないだろ。そんなものがなくたって、人は生きることに価値を見出すはずだ」
黒井が言い返したとき、既に麒麟の姿は首から上までしかなくなっていた。
『生きるだけでは満足できなくなった者たちよ。キサマたちはただその強欲のためだけに新たな世界を創り、新たな価値をつくった。一方的であったのは我ではない』
最後、麒麟はそう言い残して完全に消滅する。
洞窟内に漂っていた魔力も消え去り、それはまるで夢だったかのようにダンジョン内は通常の状態を取り戻した。
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