第107話

 翼の化け物が落ちたのを、真田は食い入るように覗いていた。


「終わった……のか?」


 疑問なのは、その戦いが人類にとって終わりなのか? という点。

 彼の声には、もしかしたらこれからが始まりなのかもしれないという不安が滲んでいる。

 知らぬ間に、頬を流れる汗が顎を伝いポタリと落ちた。


「――怖いのですか?」


 そんな彼の背後から、心を見透かすような声がした。


「あの方は、あなたたちに危害を加えるような存在ではありませんよ? むしろ、その逆。私たちに人間を殺すなと命令をされたのですから」


 その声は穏やかに語りかけてきた。どこか微笑みをたたえたような、とても落ち着いた声。


 この地獄のような地のど真ん中で聞いたその清らかさに、真田は振り返ってはいけないような気がして固まってしまう。


 振り返ってしまったら……その静謐さが、手のひらからすり抜けるかのように消えてなくなってしまうような気がしたのだ。


「……ですが、無理もないでしょう。人というものは、理解が及ばず、得体のしれない未知の存在に怯えるものですから」


 クスリと笑った温かな声が、真田の心をくすぐる。


 ここまで凄惨な光景を見てきたからだろうか。すさんだ心が洗われるようだった。


――もしかしたら、背後にいるのは神にも近しい存在なのかもしれない。


「人類の敵……ではないのでしょうか」


 恐れ多くも問いかけずにはいられない真田。


「どうでしょう。それはきっと、あの方のお心次第でしょう」


 それに、その声は優しく答えてくれた。


「無礼を承知でお願い致します。どうか……我々人類の助けになってくれるよう……お力添えいただけませんか」


 それに希望を見出し、真田は出過ぎた真似だと分かっていながら祈るような願いを口にする。


「そうですね。あの方を撮った写真をくれるなら考えましょう」

「写真……ですか?」

「そうです。あなたがここまで撮ったあの方の写真です」


 その代償に真田は何か違和感を覚えたものの、それで良いなら好都合だと歓喜。


「わかりました。写真は必ずやお渡しします」

「ふふふ――」


 それは清楚な笑い声だった。


「――むふふ」

「……むふふ?」

「ゴホンッ……なんでもありません」


 その清楚さが一瞬濁った気がしたものの、声はすぐに戻る。どうやら気の所為だったらしい。


「写真はどうやってお渡しすれば……?」

「私の手元にくるよう言っておきますから、あのお方に直接渡してください」

「ちょ、直接ですか……?」


 真田は、戦いに勝利した者を見ながら生唾を飲み込んだ。直接渡しに行けば、殺されてしまうのではないかとすら考えてしまう。


 しかし、こんなにも神聖な声の主がそんな非道な事を提案してくるはずはないと言い聞かせる。


「えっと、あのお方が誰なのか私は知らないのですが……」

「ああ、それもそうですね」


 声の主は、その事に気づいたのか照れたように笑った。


「あのお方の名は――黒井賽様。私たちの王です」


「え」


 その名前を聞いた瞬間、真田は驚いて思わず振り向いてしまった。


「……あぇ?」


 そして、彼の脳内は思考停止してしまう。


 そこに居たのは神のような存在ではなく、頭に烏帽子だけを乗せる全裸の男だったからだ。


「王は私が愛すべきお方……。はぁ……はやく写真をその手にしたい。それがあれば、いつでもあのお方を眺めていられる……」


 その者が頷くように首を縦に振るたびに、鳥帽子が空に向かってビンビンとそそり立つ。


「私はただの臣子しんし。この想いは、決して報われてはならぬ運命さだめ。ですが、あのお方のお写真を、肌見離さず秘める罪だけは犯しましょう」


 せつなげな表情が、儚い笑みをこぼした。


 そして、その者が流した一粒の涙に、真田の身体はぶるぶると震えた。


――人というものは、理解が及ばず、得体のしれない未知の存在に怯えるものですから。


 きっと、理解ができないものは理解しなくていい……いや、むしろ理解してはいけないのだろうと彼は悟る。


 そして、それは触れてはいけないものなのだとも肝に銘じた。


「わかりました。必ず、黒井賽に渡します」


 だから、無心でそのことのみに集中。


「呼び捨て……?」

「黒井賽様に……必ずや……!!」


 不意に低くなった声音に一瞬冷や汗をかいた真田。


「では、頼みましたよ? 私はそろそろ任務に戻りますので」


 その者は穏やかな声でそう言うと、次の瞬間、真田を飛び越えるように跳躍をした。


 彼の眼前に全裸が迫り、そして顔面すれすれを撫でるように烏帽子全裸は街なかへ飛び降りていく。


 そのまま茫然自失していた真田だったが、ハッと意識を取り戻すと戦いがあった場所へと視線を戻す。


 そこにはもう、黒井の姿はなかった。


 やがて、ふと思い出し辺りを見回すも、一緒に戦いを観ていた鬼すらもいなくなっていた。


 まるで狐につままれたような状況に、それは夢だったのではないかと疑うほど。


 しかし、カメラの中の画像を確認すれば、戦いは記録されていた。


「黒井賽……」


 その名前から浮かぶ情報と、この目で見た情報には大きな乖離かいりがあったものの、心には腑に落ちたような納得感がある。


 黒井賽はやはり、ただのヒーラーではなかったのだ。


 そして、その結論にはどこか、寂しいようなガッカリしたような……噛み砕くことのできない感情があった。


 その理由を真田は知っている。実際には、〝思い知らされてきた〟というほうが正しい。


 内ポケットを探って煙草を取り出し、その先端に火をつける。


「……やっぱ、ヒーラーじゃ世界は救えねぇか」


 吐いた煙は風によって塵のように消えた。



 ◆



 レベルアップの天の声を聞いた黒井は、鷹城の亡骸が落ちていくのを見届けたあとで街のほうを見渡した。


 配下の鬼たちは順調に進軍している。しかも、【霊験投影】の影響で彼らは強くなっているようだった。彼らが魔物を駆逐するのも時間の問題だろう。


 しかし。


「……あそこか」


 視線が捉えたのは一つのゲート。


 おそらく、そこだけは鬼たちでは制圧できないだろうと見定めて一直線に向かった。

 そこは、付近にあるどのゲートよりも禍々しい魔素を放っている。


 中に居る存在が何なのかは予想がついていた。


 鷹城を変異させた超越者だろう、と。


 そのゲート内へ、黒井は躊躇いなく踏み込む。

 何かしらの対策があるわけじゃなかったが、これ以上時間をかけるわけにもいかず、ゲート内へ侵入した直後も速度を緩めることはない。


 道は簡単に示されていた。なぜなら、ダンジョンと思われる洞窟には誰かが破壊した大穴が開いていたから。


 きっと、〝お相手〟もすぐに黒井の存在に気付いたに違いない。


『――意外な者が現れたものだな』


 その予想もまた、簡単にあたった。


「あんたが奴を変異させ……た……」


 ただ予想できなかったのは――その洞窟に、まだ生存者がいたということ。


 消え入りそうな呼吸。生き物が焼けたあとの独特の臭い。魔眼ルーペがなければ、おそらく見つけることは難しかっただろう。


 そこには、超越者と呼ばれる強大な存在が一つ

 しかし、それよりも黒井の目をひいたのは、もはや虫の息の時藤茜だった。


「まだ……生きていたのか」


 即座に駆け寄り状態を確認。体の半分は消し飛んでいたものの、その傷口が焼かれたせいなのか奇跡的に生きてはいる。


 すぐに治癒に取り掛かろうとする黒井。


『……何をするつもりだ? それはもう、死にゆくだけの肉に過ぎぬぞ』


 そんな彼の行動を超越者は呼び止めた。


「あんたは助けてくれるのか」

『助ける? それはもう死んでいる』

「助ける気がないなら黙っててくれ」


 それを黒井は一蹴する。


『不可能だ。もし命を救えたとしても、その者には死と同義の生しか残らぬ』


 返す言葉はなかった。そんな時間さえも黒井には惜しかったからだ。


 彼は魔眼ルーペを起動し、覚醒魔法を自身にかける。

 脳内が澄み渡り、集中しやすくなったことで今度は回復魔法を時藤茜にかけた。

 それは茜のなかの魔力量を増やしはしたものの、ただの延命処置に過ぎない。


 そして、治癒術を発動。


 黒井は、体内でぐちゃぐちゃになっている魔力回路をゆっくりと解きはじめた。既に消失している部分は慎重に仮の線を引き直す。


 人間の体内を流れる魔力回路は、まるで血管のごとく複雑に絡み合って形成されていたが、その一本一本を黒井は魔術式を作り上げるかのようにゆっくりと引いていく。

 その作業に迷いはなかった。それほどに、黒井は魔眼によって魔力回路というものを見てきていた。

 回復魔法を適宜かけながら、治癒術を発動しつづける。

 気を抜けば、引いたはずの仮の魔力線は一瞬で消失することになる。

 それはまだ、魔力のかよっていない架空の線に過ぎず完成されてはいなかったからだ。


 あまりにも……あまりにも、気が遠くなる作業だった。


 それでも、黒井は無言で集中しつづける。


 その様子を、超越者はただジッと見ていた。

 


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