第95話 

 生ぬるい夜の空気は、立ち並ぶコンクリートやアスファルトによって熱が閉じ込められてできたものだった。


 それは過ごしやすい温度のはずなのに、まるで換気が上手くいっていない部屋のように空気は淀んでいて、逃げ場を失って都市の中だけを周回する風は様々な臭いをつけ息苦しさだけを運んでいる。


「――時藤茜さん、ですよね」


 そんな街中。人通りを避けた路上の一角。


 もはやウンザリするほど掛けられたことのある柔らかな声かけに、茜は嫌悪感を隠しもせず声がした方向を睨みつける。


 ……やっぱりね。


 そこにいたのは細身のスーツの男。肩からかけるショルダーバッグは年季が入っていて、取り敢えず切り揃えたような髪は外見をさほど重要視するような印象はなく、営業をするような人間でないことだけ理解した。


 こちらを窺う表情からは、国の権威を笠に着る職業でもないだろう。


 おそらく一般人とも違う。最近の彼らの表情には、憧れや敬意といった感情が滲み出ていたから。


 となれば、残るは一つ。


 取材のために接触してきた人間。


「……どこの誰か知りませんが、こういった声掛けはお断りしていますし、訴えられる覚悟があってやってるんですよね?」


 威圧的な態度で退くことを奨める。しかし、男は軽く両手をあげて、無抵抗を示しただけ。


「怖いことを言わないでください。私は悪意があってあなたに近づいたわけじゃありません」

「勝手に人のことを嗅ぎ回って、こうしてプライベートにまで踏み込んでくる行為には悪意以外の何があるというんです?」

「……好奇心、ですかね?」


 微かに浮かべた男の笑みに、茜の気は遠くなりそうになった。


 しかも、それを格好いいと思って口にしたような態度が不快感を増長させる。


 そんな感情を寸でで抑え、茜は呆れにも似た幻滅を吐きだした。


「これまでたくさんの魔物と戦ってきましたが、人間ほど邪悪な存在もいません」

「……いや、冗談ですよ。私も組織に属する人間ですから、下手なことはしません」

「でしたら、このままお帰りください」


 そう返して、タンッと男に背を向ける茜。歩幅はおおきく、歩みは自然と速まった。


「私が調べてるのは、黒井賽という探索者についてです」


 そして、その加速はピタリと止まり、反射的にも振り返ってしまった。


「彼のことを調べてたらあなたにたどり着きました。私の好奇心は今、黒井賽という人間にだけ向いています」


 てっきりその男は、自分のことを取材しにきたのだろうと茜は思っていた。


 なぜなら、これまでがそうだったからだ。


 しかし、そうではなく男の意中は黒井賽。


 接触してきたということは、既に彼との関わりも調べがついているに違いない。


「ランクAのヒーラー。これは日本の探索者史上初の快挙ですが、私はそれだけじゃないと考えています。黒井賽はきっと、それ以上の何かを持っている」


 茜の目がすうっと細くなる。その眼光には、男の思考を見透かそうとする意思が感じられた。


「そんなこと、調べてどうするつもりですか?」

「言ったでしょう。これは好奇心だって。私は知りたいだけです。そして、それが人類の行く末に関わることなら……記者として報道しなければとも思っています」

「口ではどうとでも言えますよね」


 茜は、マスコミという部類の人たちを信用してはいなかった。


 彼女にとってマスコミとは、真実を伝えるよりも身勝手な正義感を報道することに注視し、まるで自分たちが唯一悪を断罪できる正義者かのように振る舞う者たち…という認識しかない。


「申し訳ありませんが、私はあなたを信用していません。おそらくは、これからも」

「それは……私個人を信用しないというよりは、私の職業を信用していないという認識であってますか?」

「そうです。あなたたちはただ起きた真実だけを報道すればいいのに、そこに私的な思考を、さも真実であるかのように挟むじゃないですか」

「私たちは情報操作をしようとしているわけでも印象操作をしようとしているわけでもありませんよ。ただ、その情報によって起こり得る最悪・・は避けたいとは思っています」

「最悪……?」

「真実は時に混乱を招きますからね。それを伝える側の人間は、パニックを抑制する義務もあるのだと考えているだけです」

「ずいぶんと上からの物言いですね。まるで、自分たちが支配してる側であるかのようにも聞こえますが?」

「間違いじゃないでしょう? 情報を握る者が上になってしまうのは、コミニティ内において自然のことです。それに……マスコミなんてやってる人間は偏屈な信念を持ってるものですよ。それがなきゃこんな仕事やってられるわけがない。探索者だって同じじゃないんですか?」


 返された言葉に茜は口をつぐんだものの、敵意の視線を覆すことはなかった。


「まぁ、同意する必要はありませんよ。ですが、『名家であらせられる時藤家のお嬢様』にも、他人には理解できない信念があっておかしくないと考えただけです」

「なるほど……当然、私のことも調べますよね」

「調べなくたって、時藤さんの事なら誰もが知ってると思いますよ。一時期は世間から白い目で見られたでしょうが、探索者としてデビューした日から活躍の話は何度も聞いてました。なにより、あなたは当時から清廉潔白な善人として有名でしたから」

「私が、「人間を邪悪だ」と喩えたなかには私自身も含まれています」

「周りがそう思ってるだけですよ。別にあなたがそれを否定する必要はない。そして、清廉潔白な善人が関わっているからこそ、黒井賽という人間もそうであると私は考えているわけです。なら、彼が何をしようとしているのか知りたいと思うこともまた、〝善〟から来るものだと考えてもらいたい」

「黒井さんを調べているのは、金儲けのためじゃない、と?」

「少なくとも利益を考えて嗅ぎ回ってるわけじゃありません。言ったじゃないですか。「好奇心だ」って。その、邪悪な感情・・・・・が世のため人の為になればと思うからこそ、私のような人間はそれを善と結びつけようとする。その在り方が、使命だと信じて大衆に報道するわけです」


 男はそう言ったあとで、わざとらしく肩を竦めてみせた。


「まぁ、あなたが信用できなくなるくらいには間違ってしまうこともありますがね」


 男の飄々とした語りに、茜はなおも鋭い視線を緩めることはなかった。


 しかし、数前と比べて警戒心が解けていた。


「もし仮に私が協力したとしても、あなたは世間を変えるような記事にはできないでしょう。それができるほど力を持つような人にも見えません」


 茜はセレナ・フォン・アリシアとの件を思い出す。


 どんな大事件が起ころうと、それが正しい情報として発信されるには、より大きな権限がなければならない。


 目の前の男からは、それを感じなかった。


「……確かに、私は一介の記者に過ぎません。私が書いた記事が多くの目に止まり、何かを変える力があるなんて幻想も抱いてはいない。ですから、今後なにか起きた時には真っ先に教えてほしいんですよ」

「今後、ですか?」

「ええ。黒井賽に関して何か起きたとき、それが世のためになるのなら教えて欲しいんです。世間はあまり興味を示していないみたいですが、彼に起きた『横浜ダンジョンでの悲劇』や『ランクAに昇格した事』なんかは、もっと大衆に知られるべきポテンシャルを持っていましたよ」


 男は確信を持った顔で、ピッと紙の名刺を取りだした。


 それを茜は受け取る。


「そこには記されていませんが、もう一つ付け加えておくのなら私は元探索者です」

「探索者……」

「黒井賽と同じヒーラーですよ。まぁ、私の場合は最弱のEランクでしたがね」


 彼は自虐的な笑みを浮かべると、茜がそうするまでもなく自分から「では」と立ち去った。


 その後ろ姿を見つめる視線には、悔しくも、鋭さがすっかり失われている。


「……真田、慎也」


 名刺に記された名前を口にする。もちろん、その名前に聞き覚えなどない。


 当然だろう。ヒーラーという職業は、たとえ魔眼持ちのランクAだとしても有名になることは難しいのだから。


「ランクA……」


 呟いた言葉に力はなかった。その単語が世間でどれほど希少で力ある言葉だったとしても、彼女にとってはもはや納得できるほどの意味を持っていない。


 時藤茜は――黒井のランクAに疑問を抱いていた。


 そして、その疑問を解消できる力が自分にはないと思い知らされてもいる。


――黒井さんはもっと評価されるべき人なのに。


 考えていたことは奇しくも、立ち去った記者と同じ。


 もし、その可能性が見出されようとしているのなら……。


 名刺を握る手に力が入った。


 その可能性に希望を見出してしまう自分に、呆れと驚きを感じてしまう。


 そして、その感情を茜は邪悪だとも戒める。


 きっとそれは、幼い頃からの癖なのかもしれない。


 時藤茜は、記者が言った通り由緒ある家柄の娘として厳しく育てられた。


 幼い頃から、煩悩や欲とは人を堕落させる原因であると教えられ、正しく生きることを強いられてきた。


 それは探索者となった後も健在であり、むしろ、「人類のため」という大義名分がその考えを加速させた要因でもあったのだろう。


 その考え方はこれまでの経験により揺らぎつつあったものの、それでも、幼い頃よりしつけられた考え方を変えることはなかなかに難しい。


 そんな葛藤に立ち尽くしていると。


「――さっきのは……見たところ記者かな? 私生活にまで押しかけられるなんて有名になったね。あかね」


 再び掛けられた柔らかな声。


 しかし、今度はその正体を視認する前に茜の思考は停止し目は見開かれた。


 その声を彼女は知っている。


 それが事実であることを認めたくなくて顔を上げた茜だったが、残念ながらその声と予測は一致してしまった。


「鷹城……累……」


 そこに立っていたのはアストラ所属の探索者であり、かつて横浜ダンジョン攻略を共にした鷹城塁。


 もちろん、彼を見つめる瞳には〝仲間〟へ向けられるような温かな感情など微塵もない。


 むしろ――。



――【明鏡止水】が反応しています。

――殺意を抑え、力の解放を阻止します。殺意を抑えるため、他者への関心ごと破壊します。



 茜の脳内に天の声が響く。



――他者への関心を破壊しました。殺意を抑えることに成功しました。

――力の解放を阻止しました。精神が正常値に戻りました。



 無意識のうちに握られていた拳がだらりと開く。表情は固く、いまや瞳には何の熱もこもっていない。


「久しぶりだね。元気そうでなによりだよ」

「あれだけのことがありながら、よく私の前に立てますね」

「あれだけのことがあったからさ。僕にも色んなことがあったんだ」

「そうですか」


 興味なさげな返答に鷹城はくくくと含み笑った。


「相変わらず冷静だね。その冷静さを失ったのはアストラの痛手だよ」

「お喋りは結構です。用件だけお願いできますか」

「ああ、実はすこし厄介なダンジョンが出現してね。ランクAの探索者を募っているんだ」


 鷹城の「ダンジョン」という言葉に茜は身構えた。


「また同じことを繰り返す気ですか?」

「その気なら君にわざわざ会いに来ないさ。今回は純粋な攻略をしたくてね? 僕は今、堅実にダンジョン攻略をして信頼を取り戻そうとしているんだよ」


 鷹城の口から出てくる言葉にはなんの重みも感じられなかった。


 しかし、茜は鷹城が語った「厄介なダンジョン」について気になってしまう。


「そのダンジョンとは?」

「ここで話すことじゃないから、興味があるならアストラを訪ねてほしい。ただ一つ言っておくと、そのダンジョンは横浜ダンジョンくらい危険になりかねないんだ」


 彼の「危険になりかねない」という言い方に茜は違和感を覚えた。


「調査が終わってないんですか?」

「調査は終わってる。でも、解明できていないモノがダンジョン内にあってね」

「モノ……?」

「これ以上はここで話せないんだ。でも、もしもそのダンジョンを攻略できたなら、世間からの注目を集めるかもしれない」


 そう説明したあとで、鷹城はジッと茜を見つめた。


 やがて。


「セレナ・フォン・アリシアは茜のことを評価したけど、それはあくまでも彼女の評価だよね。君はまだ、それを証明するような結果を残してはいないと思うんだ」


 そんなことを述べた。


「何が言いたいんですか」

「チャンスだってことさ。僕にとっても、茜にとってもね」


 反吐が出そうになった。それでも「世間からの注目」というセリフを、茜は〝とある可能性〟へと結びつけてしまう。


 それを彼女はどうしても無視できず、拒絶を示すことができなかった。


 そんな茜の様子に、鷹城は口角を吊り上げる。


「じゃあ、待ってるから。危険なダンジョンは人類のため・・・・・にも攻略しないとね」


 まるで念押しするようなセリフ。嫌味たらしくはあったものの、それは時藤茜をよく知る者のセリフでもある。


 茜から見た鷹城塁という男はあまり変わっていないように思えた。


 きっとそれが彼の本質でもあるのだろう。


 それと同時に、茜も自身の本質が変わっていないことを思い知らされた。


 人が変わるのは、やはり、そう簡単なことではないのかもしれない。


 吹き抜ける夜風はやはり生ぬるく、肺に取り込まれる酸素はどこが淀んでいる気がした。




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【参照】

 鷹城塁についてのシーンが話数をまたいで飛び飛びのため明記。

・68話後半

・92話後半

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