第86話
日本探索者協会会長である大貫は探索者ではない。故に、その身体に魔力が巡ることはなく、ゲート内のダンジョン攻略の経験すらない。日本にいる全探索者を統括する彼の立場を考えれば、探索者が就くべき地位なのだろうが、前線で活躍した探索者が権威を持つのに――20年という月日はまだ短すぎた。
だからこそ、探索者たちを管理する立場にある者たちは、戦いよりも社会において地位を築いてきた者たちが大半。
しかし、だからといって大貫に探索者を見る目が無いのか? と問われればそうではない。
戦いに身を投じる者の気概には、魔力の有無は関係ないと大貫自身思っている。
「ほぉ……」
ランク昇格試験会場として使われる特殊専用施設の二階。魔力の影響を遮断する透明な特殊ガラス越しに、大貫は黒井賽の佇まいを見て声を漏らした。
まだ模擬戦闘開始の合図もなければ、両者が対峙したわけでもない。にも関わらず、黒井賽はぴんと張り詰めた緊張感を漂わせており、悠然とした動きの中に隙のない鋭さを併せ持っている。
会話をしている時はさほど感じなかったが、大貫の勘が「彼は強い」と告げていた。
その瞬間、こちらをふと見てきた黒井賽と視線があい、妙な悪寒に襲われる。
……なんだ? この圧迫感は。
彼の勘は黒井賽に対し「強い」と告げていたが、そこに本能的な勘が入り混じった。その本能は黒井賽を「恐ろしい」と告げてくる。何が恐ろしいのかは大貫自身分からない。ただ、なんの根拠もなく命が脅かされるような……抽象的な恐怖が彼の背筋を駆けたのだ。
それは、今回相手をする時藤茜からは感じない。彼女もまた、遠目だけで強いと分かる雰囲気を纏っていたものの、黒井賽が放つ雰囲気は異質であるような気がした。
「その答えも、これでわかるだろう……」
大貫は纏わりつく恐怖を振り払うと、そう呟いて目を細めた。
◆
会場内には協会所属の探索者たちが多く配置され、彼らが監視する中で模擬戦闘試験が行われるようだった。
その待遇は、茜がランク昇格試験を受けた時とはまるで違う。
しかし、茜がそのことに劣等感を抱くことはない。むしろ……
なぜなら、施設に入った途端に黒井の雰囲気が一変したから。
「茜さんは弓矢で戦いますよね?」
「あ、はい」
「じゃあ、俺に近づかせたら負けでいいですか?」
黒井は貸出している模擬戦闘用の武器を選びながら、穏やかな口調で茜へと質問をしてくる。
「……私が「参った」と言うか、戦闘不能と判断されるまで戦いに中断はありませんよ?」
黒井も既に知ってるであろうルールを説明しながら、茜も武器である弓矢を手に取る。
「いや、そういうことじゃなくて、俺が近づいたら負けを認めて「参った」を言ってほしいんです。戦闘不能になるまでやりたくないので」
その返しに、茜は少しムッとした。
「まるで……私には簡単に近づけて、簡単に戦闘不能にできるとでも言いたげな物言いですね?」
そう言うと、黒井は「あぁ」と納得したような表情。彼が手に取ったのは、近接武器である剣。
「確かに失礼な言い方でした。言い方を改めます――」
そして、茜は感情任せな返しをしてしまった事を後悔する。
「――お互いに退く判断は誤らないようにしましょう。俺も、こんなところで死ぬつもりはないので」
一変したと思い込んでいた黒井の雰囲気が、さらに変貌したからだ。その瞬間、施設内の空気が鉛のように重く張り詰める。それは監視役の探索者たちにも伝わったのか、彼らの表情には動揺が見て取れた。
その息苦しい感覚を、茜は知っている。
横浜ダンジョンでドラゴンがいた空間、あるいは、セレナ・フォン・アリシアに為すすべもなく首を絞められたとき。
共にレベリングをしていた背中からは感じなかった圧力が、施設内の空気を重くしている。
協会所属の探索者たちが互いに顔を見合わせた。おそらく、同じ魔力を通わせる者として茜と同じ感覚を抱いているに違いない。
そこに、死ぬかもしれなかった経験までもがプラスされ、茜の身体が無意識に震えだす。
しかし、そのトラウマを〝単なる経験〟として掬い取るならば、茜はここにいるどの探索者よりも、その圧力に〝慣れている〟とも言い換えられる。
「――明鏡止水」
茜の頭上にアイスピックが顕れ、それが彼女の脳髄に突き刺さる。その瞬間、身体を支配していた恐怖が切断されて震えが止まった。
「変な能力ですね」
そのアイスピックは、黒井には
「黒井さんの魔眼と同じですよ。これは【スキル】じゃなく、私が魔力を覚醒した瞬間から持っていた【称号】です」
視えていたのは、同じく自身に影響する称号持ちだったから。
その称号のおかげで、身体の自由を奪っていた恐怖は消えたものの、未だ息苦しさは残っている。
「準備ができたなら始めませんか? 私は黒井さんを近づかせるつもりはありませんし、たとえそうなったとしても負けるつもりもありません。これは黒井さんの実力を測る試験に過ぎません」
「そうですね」
ギギギと茜は弓に矢をつがえ、黒井は剣をだらりと構える。
「戦闘開始の宣言をしてください」
やがて、茜の催促により、合図をする者は自身の役割を思い出したようにハッとし、慌てたように片手を上げたのだ。
「も、模擬戦闘試験開始ィィィ!」
重苦しい空気を必死で跳ね除けるかのように響いた合図。その直後、茜は狙いすました矢を黒井に向けて放つ。指が羽根を離れた瞬間、矢は弾かれたように加速して施設内を翔けた。
しかし、その先端が黒井に届くことはなく、その寸前で呆気なく矢は掴まり折られてしまう。黒井が何か言うことはない。ただ、「矢は効かない」と言う無言の主張を茜は感じた。その後に続く「だから、早めに降参したほうが良い」という言葉までもを。
それでも茜は再び矢をつがえる。幾度となく動作したその流れは速く、手元を見ずとも正確に行える。その洗練された秒間に近づかれることはないだろうと彼女は考えていた。事実、彼女はそうやって大量の魔物を倒してきたのだ。
油断はなく、慢心すらない。むしろ、戦闘前の黒井を前にして、そんなことを思えるはずがない。
しかし、気づいた時には、狙いを定める暇すら与えられず、剣先が目の前に迫っていた。
「ッッ……!?」
矢をつがえることを中断して半身になって退く茜。剣は彼女の身体スレスレに振り抜かれ、その軌跡の先で黒井が満足げに笑っている。
そのままタンッと後方に向かって地を蹴った茜は、宙へと身を翻しながら中断していた動作を続行させる。
着地と共に、矢を放てるように。
しかし、距離を空けながら準備された射出は、着地直後に狙いを失ってしまう。黒井の姿がなかったからだ。
「こっちです」
聞こえた声は茜の真横から。それに反応する暇はなく、茜の脇腹にメリメリッという音が響いた。
「がッッ――」
視界端に捉えたのは、脇腹に向かって差し込まれた黒井の蹴り。当然防御などできるはずはなく、骨が軋んで悲鳴をあげた。しかも、差し込まれた蹴りの勢いは衰えず、そのまま振り抜かれて茜の身体は衝撃に吹き飛ぶ。
受け身すら取れず、身体は施設の壁に背中から打ち込まれた。一般人であったなら、即死レベルの衝突。
茜の意識が飛ばなかったのは幸運だったかもしれない。彼女の身体が衝突したのは、偶然にも衝撃を吸収する素材が貼られた壁だったから。
それでも身体に入ったダメージは大きく、矢をつがえるどころか立ち上がることすらままならない。そして、背中が壁で塞がれているぶん、逃げ道すらない。
予感はしていた。それは、確信にも近いものだった。
しかし、現実となるまで茜は信じようとはしなかった。
「――終わりでいいですよね」
首元に突きつけられた剣。手放さなかった弓は、いつの間にか足で踏まれてビクともしない。なにより、
「まいり……ました」
はやくそれを口にしなければ、呆気なく殺されるであろう未来が何度も脳裏を駆けた。
茜が見上げた先にいたのは、彼女が推定されたレベルを遥かに凌駕する存在。戦闘に対する戦法や作戦など、もはや意味をなさない圧倒的な強者。
こんなにも……差があったなんて。
仮にも、ランクAを与えられた茜ですら太刀打ち不可能なその者は、安堵したように息を吐いて剣先を茜の首から離した。
「――治癒術」
そして、動くことすらままならなかった身体は、あり得ない秒間フレームで完治する。
それは、茜の降参によって模擬戦闘試験終了が宣言されるよりもずっと前に起きた。故に、茜の身を案じて駆け寄って来た探索者たちは、無傷で立ち上がった彼女に驚いたほど。
やがて、騒然とする場に、二階から降りてきた大貫が現れた。
「見事な戦闘だった……いや、もはや戦いと呼べるのか怪しいほどに君は強い……」
大貫は黒井の強さをそう称賛する。それを間近で見ていた茜は、次に大貫が言うであろうことを予想していた。
ランクAの茜ですらまったく太刀打ちできず、魔力測定すら計測不能。そんな探索者が世の中に多くいるはずがない。
きっと、彼には――。
「黒井賽さん、あなたは間違いなくランクAだ」
ランクSが告げられるだろうと、思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます