第74話

――自我への侵食10%を達成しました。


 脳内に響いた天の声。告げられたパーセンテージはおそらく不吉なカウントダウンなのだろうと黒井は理解していた。


 それは以前、回廊にて鬼になったときの経験によるもの。その数字が100%になったとき、黒井は別の何者かになるに違いない。


 しかし、黒井に焦りはなかった。経験値を得るために体験させられた記憶メモリーが、あまりにも悲しいものだったからだ。


 誰にも認められず、親にさえ認められなかった化物の記憶。その記憶に侵食されることを黒井までもが忌み嫌い拒絶してしまえば……化物はもう、誰にも認めてもらえない気がした。


 だから、たとえ100%になってしまっても善いのかもしれない、などと黒井は考えてしまう。


 ハヌマーンは人間を「強欲だ」と言った。それが正しいかどうかは別として、黒井もまた、人間は自分勝手だとは思ってしまう。自分たち種族の都合のよい世界をつくり、自分たち種族にとって都合のよいルールをつくり、たくさんの生物を死に追いやったくせに、自分たちが脅かされれば被害者面をして目の敵にする――。仲間に入れてもらえた者は正義の名の元に守られ、仲間に入れてもらえなかった者は正義の名の元に死ぬしかない。


 無論、その構造は人間が他の生物よりも非力だったからこそ生まれたものだと理解はできる。人間は他を排除しようと思っていたわけじゃなく、仲間と協力し助け合うことで結果的に他を排除してしまっただけだと。


 だから、人間は自分勝手だとは思いつつも、そこに嫌悪や不快感はなかった。人間たちはたぶん、自分たちが大切に思う人間を守りたかっただけなのだ。


 そしてそれは、黒井も同じ。


 ならば、やはりまだ自我を奪われるわけにはいかないと黒井は結論づける。


 彼は、眼前にそびえるハヌマーンを見上げた。


「悪いな。過程は変わったが、経験値が欲しいのには変わりないんだ」


 申し訳程度に呟かれた謝罪の直後、黒井は水に覆われた地面を蹴った。その反動は水面に小さな波紋をつくり、その大きさとは矛盾した跳躍を可能にする。それはまるで、水面を魚が跳ねたかのよう。


 青みがかる夕焼けに外套がはためいた。その内側で拳が振りかぶられた。その接近はあまりにも悠長で危機感を感じさせなかったため、ハヌマーンは攻撃されることを予期していながらも動かずに見入ったまま。


 やがて、緩慢な拳がハヌマーンの頬に触れた直後、その巨体は首から上を先頭にして地面へと叩きつけられる。


 その衝撃は今度、ちゃんと物理演算に基づいた巨大な水飛沫をあげた。


 ハヌマーンは与えられたダメージに悶えるよりも、驚愕によって目を見開いていた。強引に巨体を地へと押し付けられ、半身を水で濡らしながら見上げた目先には、まるでこの空間の支配者であるかのような変異体が君臨している。


 そんな無様な姿にハヌマーンは歯ぎしり。そして、わなわなと湧き起こる怒りのままに咆哮をあげる。


「このッッ……変異体ごときが――ぼぼッッ!?」


 しかし、その叫びは上から押し付けられた手によって掻き消される。覆われた水に顔を沈められ、地面にめり込んだ顔は地割れをつくり、クレーターのような円の縁で再び巨大な水飛沫があがる。


 身体の大きさはあまりにも違い過ぎるのに、彼らの間には圧倒的な力の差が生まれていた。


 その理由を、ハヌマーンは遠のきそうになる意識の中で理解するしかない。


 彼が帯びる雰囲気は、この空間に入ってきたときのような変異体のものではなくなっていた。それは良くも悪くも、今やハヌマーンと同じ領域の物へと変異していた。


 そのことを認めた瞬間、ハヌマーンのなかにようやく危機感という感情が押し寄せる。


「死ね」


 かろうじて水面からはみ出る耳から聞こえた宣告にハヌマーンは戦慄した。しかし、足掻いても逃れることができない力に、ハヌマーンは機転を効かせて巨大化を咄嗟に解除する。その変化は、奇跡的に押さえつけられていた手から逃れることに成功。そのまま跳ね起きた反動のまま、彼は距離を取った。


 肩で息をしながらハヌマーンは眼前の変異体をにらみつける。


「認識を……改めなければならぬ……」


 吐いた言葉は辛酸をなめていたものの、ハヌマーンもまた、ここで終わるわけにはいかなかったのだろう。


「全力でオマエを殺そう――鎌鼬サイクロン


 ハヌマーンが高濃度の風を纏った。彼の足が水面から浮き上がり、風圧で水までもが吹き上げられていく。周囲の魔素濃度はさらに高くなり、侵食する空の夕闇は吹き払われるようにその領域を押し止められていく。その境目が裂けて、空間は崩壊を始める。


 その異変を、黒井もハヌマーンも歯牙にもかけずに互いを見つめたまま。


 やがて、彼らは純然たる戦いを始める。


 いや、それはもはや世界を崩壊へと誘う破壊と呼んで差し支えないものになっていた。



 ◆



 ノウミ、ジュウホ、ヒイラギの烏帽子三人衆は、自身に起きた変化にあ然としていた。


 彼らは、三人とも醜い鬼の姿から人の姿・・・になっていたからだ。


 それはかつて、回廊にて鬼を封印していたときの姿そのまま。違う点は、角が生えたままであることと衣服が頭に乗せる烏帽子のみということだけ。


 それだけでなく、


「霊力が戻っているでござりまする――」


 ノウミは自身の内側から溢れてくる霊力を感じていた。


「某もでござる……」

「私もです……」


 三人は烏帽子全裸で向かい合い、自分に起きた変化が確かなことを確認する。そして、今もなお激化する戦いのほうへと視線を向けた。


「これならば、主君に助太刀できるのではごさらぬか?」


 ジュウホは体の感覚を確かめるようにスクワット。


「そうですね。霊力が戻ったなら封印術もできるようになりましたし……心なしか体も若返った気がします」


 ヒイラギは肌の艶や筋肉を触ってチェックしたあと、力持ちのポージング。


「確かに。今の我らならば、主君が戦っている相手を封印術によって捕らえることもできまする……それは主君からの命にも従うことにもなるため、きっとお喜びになるはず……!」


 ノウミはそんな二人の意見に賛同し、黒井が喜ぶ姿を想像し満足げに何度も頷いた。


「よし。それでは、いざ――」

「待つでござりまする!!」


 やがて、すぐにでも黒井の元へ向かおうとしたジュウホとヒイラギをノウミは止めた。


「……まさか、お前たちこの格好のまま行く気でござりまするか?」


 その言葉に、ジュウホとヒイラギは自身の姿を見下ろしてから「ダメだろうか?」とばかりに首を傾げてみせた。そんな反応にノウミはため息。


「……まったく、今の我らが主君に会えば、確実に殺されるでござりまするぞ?」


 そう言って、ノウミは二人にお面を渡す。


「これで隠すでござりまするよ」

「隠すって……何をでござるか?」


 聞いたジュウホの横で、ヒイラギもまた渡されたお面を不思議そうに見つめた。


「お面で隠すなど決まってるでござりまする。……顔でござりまするよ」


 ノウミは見せつけるように、自分の顔へとお面を装着。そこには、烏帽子にお面をした全裸男が爆誕する。


「なぜ顔を?」

「主君は用心深いお方。いきなり人の姿で会えば敵とみなされ、殺されかねないでござりまする」

「たしかに……それもそうですね」


 納得したヒイラギもお面を装着。それを見たジュウホもお面をつけた。


「あと、隠すところはあるでござろうか?」


 念のためとジュウホが質問をする。それにノウミは、首を振ってから自信満々に親指を立てた。


「これで問題ないでござりまする!」


 そして、彼らは互いに無言で頷きあうと、再び戦いのほうへと顔を向けた。


「元いた人数からは少なくなったでござりまするが、我らとて陰陽師の傍系。目標は、主君が戦う猿の魔物!」


 その力強いノウミの声に、ジュウホとヒイラギに緊張感が走る。


「これより……我ら、封印術を以て主君に加勢するでござりまする!」


 そして、彼らは真剣な表情をお面の下に隠し、戦いの渦中へと駆けだした。

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