第72話

『流石に……助太刀をしたほうが良いでござろうか?』


 ジュウホの不安そうな呟きにノウミは首を振った。


『そんなことをすれば、邪魔をしたと怒られるだけでござりまするよ。我らは命じられたことを遂行するのみ』


『しかし……! 周辺の魔物共も濃すぎる魔素濃度に逃げ惑っているでござるよ! もはや、主君の命令に意味はないでござらぬか!?』


 それでも食い下がるジュウホに、ノウミは唇を噛み締めたまましばらく答えられずにいた。


『たとえ命じられたことに意味はなくとも、まだ命じられてないことにも意味はあるはずです。主君が何も言ってこない以上、私たちにできることはありません』


 そんな沈黙にヒイラギが冷静に口を挟む。しかし、そんなヒイラギですら瞳の奥はゆらぎ、不安を隠し通せてはいない。


 烏帽子三人衆は、それぞれが高い木の上に上り、まるで吸い寄せられるように目の前の戦いを見ていた。


 そこに在るのは、まるで巨人と人との戦い――。


 空は、世界中の雲をかき集めたかのように分厚い曇天が渦を巻き、湿度はあるものの空気は乾いている。辺り一面に広がっていた森林は戦いを中心にして無惨に薙ぎ倒されており、その被害は今もなお拡大し続けていた。戦いは激しさを極め、それは災害と呼べるほど周囲の地形を一変させる。


 ランクでいえば、Aに匹敵するはずの烏帽子三人衆ですらそれ以上の領域へと踏み込むことを躊躇わせた。


 間違いなく、彼らにとっては未知の戦い。その渦中にいる主君と呼ばれる小さな人間は、災害に耐える無力な存在にしか見えない。


 戦況は、火を見るよりも明らかだった。


 もちろん、今のところは……という話ではあるが。



 ◆



 まるでゲームのようだ、と黒井は今さらながらに思う。


 目の前に君臨する巨大なハヌマーンは、それほどまでに現実味を欠けさせた。


 しかし、身体を蝕むほどの異常な環境が、「これは現実なのだ」と告げてくる。


 大気中の魔素は息苦しさを感じさせるほどに濃くなっており、呼吸をするたびに肺がもがくように鈍い収縮を繰り返した。それに伴い身体の動きまでもが遅くなっていき、そのくせ、高濃度の魔素からか運動を起こす脳からの電気指令が神経を焼き尽くすほどの過電流を流してはパチパチっと放電が行われた。


 生ぬるい水のなかに沈んでいるような感覚。それでいて、足掻こうとすれば鋭い針で身体を突き刺されるような痛みが全身をかける。


 生きていくだけなら問題ない。だが、戦うとなれば話は別。ハヌマーンにはデバフ効果のある魔法がないにも関わらず、周囲の環境を変えて同じ結果を黒井にもたらしていた。それは魔法じゃないが故に対策がとれず、黒井に備わっているはずのスキルたちも沈黙したまま。


 そんな黒井は、やはり戦うほどの機敏さや力を発揮できず、拳を振り上げるハヌマーンを見上げることしかできない。


 やがて、その拳が振り下ろされる直前に何とかその場を逃れるのみ。そして、たったそれだけの行動は彼の全身に痛みを走らせた。


「くッッ……!」


 もはや何度目になるか分からない土飛沫の柱があがる。避けた黒井の身体は未だ直接的な攻撃を受けていないにも関わらず、ダメージだけが蓄積されていた。漏れた声は痛みによるものではなく、不自由な身体への苛立ちからくるもの。


 息を吐いて冷静に次の攻撃へと備えるも、その備えすらもままならなかった。



――深刻なダメージを受けています。身体能力が低下しました。

――【制限解除】が発動しました。一時的に身体能力を回復します。



 ようやく響いた天の声がスキルの発動を報告。しかし、それはその場しのぎの策に過ぎず、現状を打破するほどの効果はない。むしろ、その場しのぎであるが故に、黒井はさらなる窮地に陥ろうとしている。


 想定外だったと歯噛み。純粋な戦いならまだ勝機があると思っていた黒井だったが、今やこのフィールドは彼にとって不利過ぎる環境へと変貌していた。


「愚かな変異体よ、己の強欲さを死んで悔いるがいい」


 そんな黒井を見透かすようなハヌマーンの声が上から轟く。


 挑発とも取れる、まるで勝利を確信するかのような傲慢な物言いに黒井は怒りを覚えたものの、息を吐いて呼吸を整えることに集中する。


 そして、黒井はふと思う。


 ……窮地というのなら、これまでにも似たようなことは何度かあった。


 しかし、それらを掻い潜ってこれたのは黒井の悪運もあったのだろうが、明らかに彼を手助け・・・するような現象が起こっていたのは間違いない。


 それは果たして、黒井が変異体だからだろうか? 敵と戦うことを宿命付けられていたからこそ、そういったことが起きていたのだろうか?


 もし、そうだとするのならば、今回も例外ではないはず。


 楽観的な思考かもしれない。もしくは、目の前のから逃れようとする現実逃避かもしれない。


 それでも何故か、黒井には確信があった。


「そろそろ大人しく死ぬがいい……」


 ハヌマーンが拳を振り上げる。高く掲げられた拳は黒井へと狙いを定めると、位置エネルギーと筋力をもって地面へと加速する。


 その先に立つ黒井の目には、やはり根拠もない自信に溢れていた。


「俺を死なせたくないのなら、何とかしてみろ」


 その瞬間、脳内にバチバチッと火花が弾けたような音が響き渡った。



――何者かのアクセスにより、メモリーが共有されました。

――メモリーを自動再生します。



 ◆



「お前なんか生まなけりゃ良かった」


 狭い和室の部屋の中で、着物を着た女が黒井に向かって言い放った。


 その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、黒井は否応もない殺意に支配された。……いや、殺意に支配されたのは黒井ではない。なぜなら、目の前にいる着物の女性を彼は知らなかったし、彼女から生まれた覚えもなかったから。


 それでも、現状を把握することもなく黒井は腹の底から湧き上がる憤怒によって冷静さを失うしかない。その感情は首筋からこめかみへと焼き尽くすような熱を以て頭の天辺へと駆け上がり、身体全体へと折り返すときには冷水のように冷えたものに変わる。


 それこそが殺意と呼ばれる感情なのだと、本能が理解していた。


 あ、と思った時にはもう、黒井の手は女の首を締めていた。栄養のない骨の浮き上がった細白い腕。その腕のどこにそんな力があるのか、指は確実に気管を捉えて押し潰す。


「がっ……あぁ……」


 絞め殺すまでもなかった。押し潰す指が喉に食い込み、空いた穴から吐血させたからだ。


 女はあっという間に息絶え、抗おうと力んだ筋肉を弛緩させる。



――種族【人】を倒しました。ポイントが加算されます。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。



「はぁ…はぁ…」


 息が乱れていたのは、殺すのに疲れたからではない。自身がたった今行った行為にパニックになっていたからだ。


 蝋燭の火が、畳に血を染み込んでいく血を照らしている。両手を見れば、同じ色の粘ついた液が手のひらを汚していた。


「あ、あああ……」


 黒井はパニックのまま声を漏らす。それは、若い少女の声音をしていた。


 やがて黒井は慣れた手つきで隅の方にある戸棚から手ぬぐいを取ると、両手の血を拭き取ってその場に投げる。そして、今度は大きめの手ぬぐいを取り出すと頭巾のように頭に巻いた。


 その時、額から突き出る二本の角を隠すように巻いて、近くの棚にある鏡に自身を写す。


 鏡は金属製であったことと、周囲が暗いこともあってか顔までは写らなかったものの、角を隠したシルエットだけは確認できた。


 黒井はその後に部屋の戸を開けると、居間を通ってわらじを履き、外へと飛びだした。


 夜中なのか、外は暗く灯りもほぼない。


 それでも、どこへ行く宛もなかったくせに足は勝手に駆けだした。


 全速力で走っても呼吸は全く苦しくはなかった。なのに、殺意が冷めたあとの胸中には居たたまれない悲しさがじわりじわりと喉を締め付けて呼吸を苦しくさせる。


 その苦しさが足取りを重くさせ、結局、黒井はその場に座り込んでしまった。


「おい、お嬢ちゃん? そんなとこで何してるんだ」


 そんな声にハッとして顔をあげると、提灯を持った男が目の前にいた。


 男は心配そうな表情でこちらを覗き込んでいたものの、その表情はすぐに驚きへと変わる。


 手が勝手に頭巾を深く下げた。しかし、時すでに遅し。


「あ、あぁあああ!」


 その叫びを止めさせるため、男の口を塞ごうと咄嗟に手を伸ばした黒井。その手は男の顎へと当たり、ガクンッという不自然な衝撃を起こして男は膝から崩れおちた。


 

――種族【人】を倒しました。ポイントが加算されます。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。



「なんだ、どうした!」


 男は一人じゃなかった。倒れた男の後ろでまた別の声があがり、黒井はまたもや角を見られてしまう。


「鬼だあああ!」


 被った頭巾は意味をなさなかった。そして、角を隠すには自らが隠れるほかないと黒井は観念する。


 黒井は、その男を殺すよりも先に再び駆けだした。


 今度は闇雲に走るのではなく、明確な目的地に向かって。


 それは山。


 木々の間に分け入って獣道をたどる。人間が通るはずもない雑木林に踏み込むと、緩やかな地面を宛もなく登った。


 やがて、それなりの高さまできた黒井は、木々の合間から見えた地上を見下ろす。


 そこにはたくさんの提灯が見えた。そして、甲高い笛の音が周囲に鳴り響いている。


 黒井は恐ろしさからその場にしゃがむ。夢中で走ってきたからか、足には枝で引っ掻いた傷がいくつもできていた。


 そして、その傷はあっという間に治癒していく。


 引いていく痛みと同時に、まざまざと自身が人間ではないことを黒井は自覚する。


 これまで人間のフリをして懸命に生きていたことを虚無にすら思った。


 このまま、隠れて逃げながら生きていくのだろうか。そんな人生に意味なんてあるのだろうか。


 黒井はそんなことを考え、あまりの馬鹿らしさに吹きだした。


 もう生きることに何の意味もない。


 なら、いっそのこと……。


 黒井は山を登ることを止め、来た道を下りだす。


 その行く先は、提灯のほうへと向かっていた。


 そして、


「いたぞおお!」


 黒井は人間の前に姿を見せた。そのまま、発見を大声で叫んだ男の顔面へと拳を振り抜く。



――種族【人】を倒しました。ポイントが加算されます。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。



「鬼だ! 殺せえ!」


 別の大声。その方に顔を向けると、黒井は何も考えずに走り出す。



――種族【人】を倒しました。ポイントが加算されます。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。



 そこから先は、現れる人間の身体を殴りつける作業のような光景が続いた。殺意はなかったものの、そうする他ないという諦めにも似た感情に支配されていた。


 彼らはみな、提灯を持つ手とは反対の手に長い棒のような武器を持っていたが、それを黒井に向けたところで人間離れした身体能力に適うはずもなく、闇夜の山中でただ死体だけが数を多くしていく。



――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。

――レベルが上がりました。能力値が上昇します。



――共有されたメモリーはここまでです。

――多くの経験値を借入れました。

――レベルが大幅に上がりました。


――警告。何者かの記憶が混在しています。

――借入れた経験値に整合性を持たせてください。

――メモリーが自我への侵食をはじめました。

――自我への侵食5%を達成しました。



 やがて、黒井の意識は現実へと引き戻された。

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