第71話

――ナーガの洞窟。


 ユジュンは、たった今殺し終えたナーガの死体を眺めながら武器であるナイフの血を素早く払った。彼の周囲には、ナーガの手下でもあった大蛇の死体も多く横たわっており、死屍累々の中央に立つ姿は息すら乱しておらず冷静そのもの。洞窟内の湿度は高くジメジメとした水気で満たされているものの、彼から発せられる雰囲気だけはカラッと渇いていた。


 不意に、ユジュンはどこか遠くで巨大な魔力の塊が出現したことに勘づいて、その方へと視線を向ける。無論、視界には洞窟の闇しか映っていない。


 そして、その方向を見つめる存在がもう一人。


「ナーガを倒してくれて感謝する。これで奥に監禁されている妻を救い出すことができる」


 ナーガに妻を攫われた鳥人族ガルダ。彼は、ハヌマーンと同じく魔王がいる島に連れて行ってくれるストーリー上の協力者。


「これで島に連れて行ってくれるんだよね?」


 ユジュンの問いにガルダは頷き、


「……だが、その前に、もう一つ頼まなければならないことがある」


 彼が予想もしていなかった頼みを持ちかけてきた。


「頼み?」


 追加でミッションなんてあっただろうか? そんな疑問をいだきながらも問い直すユジュン。ガルダは、何かを考え込むようにしばらくジッとユジュンを見ていた。


「人間よ、お前は神を信じるか?」


 やがて、鋭いくちばしから放たれた言葉は、意図が読めない不思議な質問。


「存在くらいは信じてるかな? 僕は、そういう職業だからね」


 そう言って、ユジュンは一枚のコインを5本指の上で器用に転がして遊ぶ。彼の職業は【司祭】。神という存在ありきの職業だった。


「神とは……数でいうところの0のようなものだと私は考えている」


 そんな彼を見ながらガルダは呟く。ユジュンは視線をコインに注ぎながらも、耳だけはガルダに向けていた。


「悲しみに暮れる者、絶望の淵に立たされる者、あるいは……生きることすら諦めてしまった者。そんな負の者たちは神と出会うことで救いを得る。つまり、0に戻るのだ」


「数学? 乗法の話?」


「人間は決して0にはなれない。故に、負の者には負の人間が出会うことで救いとし、正の領域へと引き戻す神の真似事をする」


 ガルダはユジュンの問いには答えずに語り続ける。NPCなのだから話が通じなくても当然かもしれない。だから、ユジュンは気にもしなかった。


「故に、既に正の領域にいる者にとって0である神の存在は必要ない。人間たちがこの世界につくった新たな世界は、正の領域しか必要としないからだ」


 そんな話にユジュンは首を傾げながら、ふぅんと鼻を鳴らす。


「……まぁ、言ってることは分からなくもないかな。僕の両親には莫大な借金があったんだ。そんな両親の子供だった僕も周囲からの扱いは酷いものだったし」


 ガルダはNPCに過ぎない。そう思っているからこそ、彼はあまり他人にしない身の上話をサラリと語ってみせる。その矛先は、彼にしか分からない過去へと向けられていた。


「……なんの価値も生まない、それどころか利益すら生めない人間なんて、結局、社会においては死ぬよりほかに生きる術がない」


 なおもコインを見つめ続けながら淡々と語るユジュン。そのコインは、今の韓国ではほぼ使われることのない硬貨。キャッシュレス化が進んだ韓国では、硬貨の価値などあってないようなものだった。


「死か……。神がいなくなった世界において、人間が0に戻るには、そういった方法しかないのだろうな」


 やがて、その視線はゆっくりガルダへと向けられる。


 ただのNPCだと思っていた相手と会話が通じたことに驚いたからだ。


「僕と会話ができるのか?」


「……」


 しかし、ガルダはそれに答えない。いや、既に会話ができている時点で、答える必要などなかったのかもしれない。


「……突然、どうしてそんな話を僕に?」


 ガルダの沈黙にユジュンは質問を変えてみる。大蛇の死体が転がる凄惨な洞窟内で、ガルダの瞳だけは鈍い光を放っていた。


「前置きが長くなったな……。神は0へと引き戻す存在だが、それはなにも負の者だけに限った話ではない。正の者たちをも0に引き戻す力がある」


「たしか……だからこそ人間は神を必要としなくなったんだったね? どんな数字でも0をかけると0になるから」


「そうだ。人間は0に戻されぬよう、神の存在を捨てた。だが、正の領域というのは何も良いことだけではない。調子にのった者や傲慢になった者、怒りで我を失ってしまった者たちをも正の領域と考えれば、0に戻す価値が生まれる」


 ユジュンは探り探りガルダの話を聞いていたものの、やはり意図が掴めずに目を細める。


「結局、何が言いたい?」


 そのイラだちが彼の声音を低くさせた。その変化にガルダは気づいたのだろうか、静かに目を瞑ると、やがて意を決したように開き、


「我が友を……救う手伝いをしてはくれないだろうか?」


 そんな頼み事をしてきたのだ。


「友?」


 ユジュンのオウム返しにガルダは頷き、「ハヌマーン」と発音。


「彼が怒り狂っている……このままでは、この空間を保つ事ができなくなるだろう」


 ユジュンは眉根を寄せた。ハヌマーンとガルダのストーリーが交差するなんて聞いたことがなかったからだ。


 そして、ガルダが口にした「この空間」という言葉。それはあまりにもメタ的な発言だった。


「この空間って……アビスゲートのこと?」


「お前たちはそう呼んでいるのだな。……そうだ。今、私とお前がいるこの空間のことだ」


 その瞬間、ユジュンは目の前にいるガルダがただのNPCではないことを確信した。


「あなたは……何者だ……」


 そして、警戒をガルダへと向けた。


「そう構えるな。私はお前と戦うつもりはないし、お前もここで私と戦う暇はない。なぜなら、このままではお前は元の世界に戻ることができず、次元の狭間に取り残されたままになってしまうからだ」


「なんだと……?」


「お前たちがこの空間から出る術は、魔王を倒すしかない。だがその前に、この空間自体が崩壊してしまうかもしれない」


「それは……ハヌマーンが原因だから?」


「そうだ。だから、こうしてお願いをしている。お前は私が求める人間ではないが、今私が望む力を持った強い人間ではある」


 ガルダはそう言ってナーガの死体へと視線を向ける。そこに映るのは、たった一撃でナーガを引き裂いた大きな傷痕。


「それは……一刻を争うのかい?」


「ああ。ハヌマーンがこの空間内にある魔素全てを集めてしまえば、次元を保つことができなくなるからな」


 ユジュンは、指で遊んでいたコインを宙に投げようとして――寸でで止めた。


「……選んでる場合じゃなさそうだ」


 その理由を、ため息にも似た愚痴と共に吐きだし、


「いや、既にこの選択は終わっている」


 アビスゲートに入ったとき、ガルダとハヌマーンのどちらかを選ぶ際にコイントスしたことを思いだし、諦めの独り言を呟く。


「外に出たら、ハヌマーンのところへは私が連れて行こう」


 ガルダはそう言い、踵を返すと鳥人族の翼を羽ばたかせた。そして、ここまで来た道を物凄い速度で引き返し始めたのだ。


「一体……なにがどうなってるんだ」


 ユジュンはそんな疑問を口にしたあとで、ガルダを追うように駆けだす。


 遠くで感じる魔力の大きさは、さらに濃くなっていた。

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