第70話

 渾身の拳は虚空を殴った。標的としていたハヌマーンが一足先に跳び上がって回避したからだ。そして、跳躍力と呼ぶにはあまりにも長い滞空時間をかけ、ハヌマーンは手の届かぬ木の太い枝に着地をする。


「さすがに当たらないか」


 攻撃が当たらなかったことに黒井は舌打ち。しかし、内心では避けられた事実に勝機を見出していた。回避行動をしたということは即ち、当たればダメージを与えられるということだったから。


「オマエたち人間はなぜそうも強欲なのだ? 与えられた使命を全うするだけでも大きな偉業だというのに」


 左眼の魔眼は、見下ろしてくるハヌマーンを解析し続ける。その体内に流れる魔力は確かに膨大ではあったものの、黒井には膨大な経験値にしか見えていなかった。


「使命? 了承もなしに勝手に訳の分からないモノ押しつけて、使命なんて言葉で正当化したあげく誘導なんかするなよ。やるなら提案までにしておけ。選択権は最後まで俺にあるはずだ」


 見上げる黒井の態度にハヌマーンはため息。


「オマエは分かっていない。変異体が戦うべき相手は私ではないのだ」

「なら、それを使命だと思い込ませられるくらい上手く誘導することだな。アンタは人間を強欲だと言ったが、それを否定するんじゃなく、人間が強欲であることを前提にして俺と話をすればよかった」


 そう考えれば、角を隠せる月の力を提示してきたセレナ・フォン・アリシアは交渉がうまかったんだなと改めて思わされる黒井。彼女は、黒井が自分の玩具になる要求を呑ませるため、彼が最も危惧している部分を突いてきたのだから。


「……強欲はいつか必ず身を滅ぼす」

「それは、身のほどを弁えろって意味か?」


 黒井は吐き捨てるように問いかけた。


「そんなのはもう間に合ってる……。自分の無力を自覚した気になって逃げるのも、自分が人には溶け込めないことを理解した気になって隠れ続けるのも。変異体に世界を守る使命があるというのなら、なんの不安もなく人類のために戦える手段をくれよ。俺がアンタの言う使命とやらを全うするには、誰から見ても俺が人間側であると信じ込ませる手段が必要だ」


 ハヌマーンは猿というよりも人間の形をしていたものの、やはり、人間のことはあまり分かっていないようだった。黒井はレベル上げのためにアビスゲートへと入ったが、それは強欲によるものでは決してない。足りないものを補うために来ただけ。


「そのために、私を殺すというのか?」

「殺せば俺は強くなれるだろう? 強ければ誰からも文句は言われない」

「オマエはもっと長期的な目で物事を見るべきだ。私を殺そうとすることは、遠くない未来で自分たちの首を締めることになるのだとなぜわからない?」


 黒井は思う。ハヌマーンの言葉は正しいのかもしれない、と。少なくとも、黒井にはそれを理解する余地はあった。


 しかし、それでも彼が殺気を収めることはない。


「ここの世界はアンタがつくったと言ったな? ……悪いが、俺にはこの世界を守りたくなるような要素をまだ見つけられていない。守りたい人がいるわけでも、魔王を倒したいと思わせるような要素もない。だから、まるでゲームをしているような感覚にしかならない」


 ハヌマーンは眉を潜ませて黒井を見下ろす。その表情には、「何を言っているのか分からない」とでも言いたげな疑問符が貼りついていた。


「それと同じことだ。たぶん人間が何かと戦うのは、守りたい人間や倒したい敵がいるからだろ。そこには、世界のことなんて考えられちゃいない。むしろ、世界に守りたい人も倒したい人すらいなければ、戦うことすらせず滅んでも良いと考えたはずだ」


「オマエは、何が言いたい……?」


「俺にとって今のところのアンタは、倒して経験値稼ぎにするような価値しかないってことだ。それに、長期的な目で物事を見ろと言うのなら、アンタを倒してこのゲートを閉じたほうが多くの探索者を救えるんじゃないか?」


「そんなことをすれば、変異体を一人失くすことになるぞ?」


 そう答えたハヌマーンに黒井はため息を吐いた。彼は、その答えが脅しになると本気で思って言ったのだろうか。「自分を殺せば世界が危うい。世界が滅べば人間であるオマエも危ういのだ」と。だが、黒井はたった今、「自分にとって価値のない世界は守る必要がない」と答えたばかり。これでは堂々巡りだった。


「変異体、変異体ってうるせぇな……。結局アンタは、自分が選んだ人間を通して、自分の力しか信じていないんだろ? その他の人間なんてどうだっていいと思ってる。だから、これまでここに踏み込んできた探索者たちを放任して見殺しにしてきたんだ」


「なるほど……オマエが私を殺そうとするのは、これまで死んだ人間のためか」


 その、的外れな返しに黒井は諦めてしまう。おそらく、彼とわかり合うことは難しいのかもしれない。彼は、自分の頭からひねり出される考えだけが正しいと思っているのだから。


「死んだ人間のためじゃない。最初に言ったはずだ。俺自身のためだと。彼らを引き合いに出したのは、アンタの意見に対するカウンターでしかない」


「そうでないのならなぜ言葉になどした? 不誠実な言葉ほど罪深いものはない」


「誠実な言葉だけが正義とは限らないだろ。たとえ偽善だとしても、それが誰かにとって価値のある事なら善にだってなり得る」

 

 やがて、理解を諦めたのは黒井だけじゃなかった。


 ハヌマーンは、やれやれと首を振って彼を見下ろす。


「なんにせよ……私がオマエに与えてやれる力はないのだ。オマエが勝手に強くなるしかない」


 その強引な終わらせ方に黒井も同意する。最初から話が通じるような相手ではなかったのだから。


「ああ、だから――」


 そして、地面を蹴って跳躍すると、ハヌマーンへと攻撃をしかけた。


「――勝手に強くなってやるよ」


 しかし、ハヌマーンはそれを別の枝に飛び移って再び回避。標的を失った拳は、ハヌマーンがいた太枝を粉砕した。


 やはり、防御に徹するつもりはないらしい。


 その後も黒井はハヌマーンを追いかけるが、彼は器用に黒井から逃げ続ける。周囲に生える木々が大きな音をたてて木っ端へと変わり、倒木の衝撃で土煙があがった。


「逃げ続けるだけか?」


 黒井は攻撃を躱し続けるだけのハヌマーンを挑発してみるが、彼はそれに反応すらしない。


「――相似シミラリティー


 さらには、突然ハヌマーンの身体が小さくなり、より攻撃を当てづらい大きさに変わったのだ。


 黒井は、予備知識としてそれがハヌマーンの能力であることを知っている。彼は、自身の大きさを変幻自在に変えられる特殊な能力を持っていた。いわば、某猫型ロボットがポケットからだすひみつ道具「ビッグライト」や「スモールライト」と同じ力。


 小さくなったハヌマーンは黒井の視界から簡単に消えたものの、魔眼だけはその居場所を捉え続けた。


「小さくなっても無駄だ」


 なぜハヌマーンが戦ってこないのかに得体のしれない怪しさを感じつつも、周囲を破壊しながら攻撃をしつづける黒井。そして、それを回避しつづけるハヌマーン。


 やがて黒井は、とある異変に気づく。


 外した拳が木を直撃するも、先程のような粉砕が起こらなかったからだ。黒井の拳には、威力がなくなってきていた。


 デバフ魔法をかけられた記憶はない。そもそも、ハヌマーンにはそういった能力はなかったはず。


 そんな黒井の様子にハヌマーンは動きを止める。


「どうやら私の能力は知っているようだが、戦い方までは知らぬようだな」

「何をした?」


 質問しても教えてもらえるとは思ってなかったものの、ハヌマーンは笑みを浮かべて口を開く。


「見たところ、オマエの攻撃は雷の魔法によるものだろう? その魔法の根源を無くしたのだ」


 そのヒントに黒井はすぐにピンときた。一度動きを止めて感覚を研ぎ澄ませば、ハヌマーンが何をしたのかも理解する。


「魔素を薄くしたのか……」

「ふん、それを理解する頭はあるようだ」


 周囲は、一切の風が止んでいた。いや、もしかしたら風を起こして魔素だけを移動させたのかもしれない。例えるのなら、それは空気を吸引して真空状態をつくるようなもの。


 ハヌマーンには自身の身体の大きさを変幻自在に変える能力の他に、風を操る能力があった。


「私が身体を小さくしたのはオマエの攻撃を避けやすくするためではない。この薄い魔素量だけでも十分な魔法を扱うためだ」


 魔法を扱う探索者は、ゲート内と外とでは魔法の威力が異なる。それは、魔素があるかないかの違いによるもの。それと同じことが黒井にも起こっていた。


「魔法によって身体能力を上げる戦法を使えるのはオマエだけではないのだ」


 ハヌマーンの両手首にある輪っかのブレスレットが浮き上がり、くるくると回りだす。やがて、彼の両拳には高濃度の魔力が渦を巻いてつむじの先端を尖らせた。


「――鎌鼬サイクロン


 やがてその渦は、周囲に生える草木を撫でるように傷をつける。切られた草木の残骸が巻き上げられて空気中に舞った。


 直後、ハヌマーンは初めて黒井へとつま先を向けて地面を蹴った。阻むものすべてを撫で斬る高濃度の風圧が黒井に押し寄せる。


 しかし、


「俺は別に魔法なんか使ってねぇよ」


 その風圧は黒井にぶつかって霧散。彼の身体めがけて伸ばされた拳は、しっかりと手のひらによって止められていた。


「なにッッ……!?」


 風が止み、ハヌマーンは自分で縮小した小柄な身体を無防備に晒す。その手は黒井によって掴まれたまま。


「アンタが見た雷ってのはこれのことだろ?」


 言いながら、黒井は雷付与を発動。発せられた電気が手を伝って流れ、ハヌマーンは声も出せぬ悲鳴を上げて体中の筋肉を硬直させる。しかし、それは威力が弱まっているせいか、その程度のダメージしか与えられない。


 黒井最大の攻撃は魔法ではなかった。純粋なステータスによる物理攻撃こそが彼の真価。


「身体を小さくしたのは悪手だったな。物理に従うのなら、大きいほうが勝つ」


 黒井は、拳を握って小柄なハヌマーンへとそれを打ち込んだ。電流を流されて開いた口からは声とは思えぬ鈍い音が出る。やがて、ハヌマーンは後方へと吹っ飛んだ。


 黒井の拳の先にある木が、まるで発射でもされたかのようなハヌマーンとぶつかって幹をへし折った。それでも威力は衰えず、黒井の拳の威力は視界に見えるかなり先の木々までをもなぎ倒していく。


「ようやく一発か」


 そんな光景を見ながら黒井は一息。彼は、たった一撃でハヌマーンを倒せたとは思っていない。それは、拳を撃ち込んだ瞬間に感じたこと。身体を縮小していたとはいえ、撃ち込んだハヌマーンの身体は鉄のように硬かったからだ。


 そして、それを裏付けるように周囲の魔素が変化を始めた。


 今度は逆に、周辺一体に魔素が集まりだしたのである。それがハヌマーンの能力であることは、考えずとも明らかだった。


「――魔法ではなかったか……これは失敗だったな」


 やがて、倒れた木々の奥から、そんな反省の声。


「たしかに物理ならば、大きいほうが有利なのは違いない」


 そして、独り言のように呟きと共に、声はだんだんと近くなっていく。


「かつて世界は、身体を肥大化させた存在が支配していた。彼らは自在に身体を肥大化させたのではなく、身体が肥大化できる環境下にいたのだ」


 周囲の魔素濃度がより強くなっていく。それはまるで、この空間内にある全ての魔素を集めているかのような速度。その濃度は既に、ランクAダンジョンの魔素濃度を遥かに凌駕していた。


「それと同じ環境下を作り出せれば、肥大化など容易い」


 ふと黒井は気づいた。声が近くなっているのではなく、声が大きくなっているのだと。


 直後、ドシンと地を揺るがす振動がして、それが再びした時には、さらに大きな振動になっていた。


「おいおい……大きくなるにしても限度があるだろ」


 思わず、そんな感想を漏らした黒井は無意識に苦笑い。


 バキバキッと木が強引に倒れる音が聞こえ、目の前に現れたのは巨大な足。その足を伝って見上げれば、木々の葉を掻き分けた巨人が真上から覗いていた。


 無論、ハヌマーン。


「殺さぬよう痛めつけるだけにするつもりだった。オマエが戦うべき相手は私ではないからだ。故に、オマエに死を与えるのも私の役目ではない」


 真上から降ってくる大声は、冷徹に轟く。


「しかし、気が変わった。超越者に歯向かう変異体など要らぬ。ここで殺してくれよう」


 巨人となったハヌマーンは拳を天高く振り上げ、単純に振り下ろす。


 その拳が地に触れた瞬間、巨大な土飛沫の柱が上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る