第61話

 首元を噛まれた瞬間、黒井は得体のしれない何かを血管内に注入される感覚を味わった。痛みはほぼなかったものの、未知の経験に恐怖が迫り上がってくる。にも関わらず、身体は指先一つ動かせずにいた。


 それでも、なんとか首元に感じる生ぬるい熱を引き剥がしてセレナを見れば、彼女は口元を拭って笑っている。


「なにをした……?」

「あなたを支配するための細菌を混入させたわ」

「細菌だと?」


 黒井は噛まれた箇所に触れるが出血はしておらず外傷すらない。その変化のなさが逆に恐怖を助長させる。


「怖がらなくても平気よ? 死ぬわけじゃないし、痛みもない。生活に支障をきたすわけでもないわ。ただ、わたしに従順になるだけ」

「……スキルか?」

「スキルとは少し違うかも。これは、わたしが生まれたときから持っていた能力だもの」


 セレナは平然とそう言い、その言葉に黒井は驚くしかない。そんな反応を楽しむかのように彼女は続ける。


「あなたが鬼になったのは魔力を覚醒させた後でしょう? 人から人ならざる者へ変化した者――それを変異体って呼ぶわ。でも、わたしの場合は違う」


 そして、セレナは八重歯を剥きだして笑ってみせたのだ。


吸血鬼ヴァンパイア。わたしは古くから人に紛れて生き残っている人外の一人なの。あなたに施したのは、わたしが元々持っていた能力よ」


 そんな真実を告げられた瞬間、黒井の脳内に痛みが走った。無意識に手を充てて痛みを宥めようとする黒井だったが、それは頭蓋の内部で起こっており、手を充てたところでなんの気休めにもならない。


「脳の血管にまで辿り着いたみたいね。さっきも言ったけど、死ぬわけじゃないから安心して? ただ、細菌が血管を通ると、血管近くにある痛覚神経を刺激するから痛みが生じるだけよ。脳の中枢に到達したら、そのまま寄生するから痛みも収まるはず」

「寄生、だと……?」


 まるで、顔面半分を殴られたような激痛に耐えながら黒井は怒気を絞りだした。 

 

「トキソプラズマって知ってる? 最終的にネコを宿主とする寄生虫なんだけど、彼らはネコを目指すまでに様々な動物へ寄生することができるの。寄生された動物は、自分からネコに近づくよう脳をコントロールされる。それと似たようなものね」


 セレナは淡々と説明したあと、頭を押さえる黒井を優しげな眼差しで見下ろす。


「痛みが収まれば、あなたはわたしを見るだけで幸福感を得られるようになるわ。そして、ずっとわたしの傍に居たいと思うようにもなる。それが能力によってつくられた擬似的な幸福だったとしても、抗うことはできない。なぜなら幸せだから」


 そして、その眼差しは残忍なものへと変貌した。



――血の支配を受けています。

――血の眷族に加えられようとしています。



 やがて、黒井の脳内にそんな天の声が響き、


「さぁ、その身を捧げたいと思うほど、わたしのことを好きになっちゃいなさい!」



――既に、雷の眷族の称号を得ています。別の眷族になることはできません。

――血の支配を拒絶します。



 バチバチッという乾いた音が黒井の角から脳の中枢にかけて走り、激痛はまるで嘘であったかのように消え失せたのだ。


「……は?」


 そんなセレナの声が上から落ちてくる。顔を上げれば、やはり唖然とした表情が黒井を見下ろしていた。


「どういうこと? なんで支配を受けないの? もしかして……もう誰かの支配を受けている??」


 彼女は、訳がわからないというように疑問を発し続ける。先程までの得意げな表情はそこにない。


「どうやら、これも失敗に終わったみたいだな」


 黒井は呼吸を整えると、ゆっくり立ち上がった。


「なんで? わたしが支配できないなんて……そんなの、同じ上位種くらいしか――」


 その時、ハッと何かに気づいたようにセレナは目を見開く。


「あなたも……最初から鬼だったのね? だから、人の姿を保っているんだわ」


 セレナはそんな憶測を呟き、ひとりでに頷いた。


「何を言ってるんだ? 俺は元々人だった」


 黒井は否定してみせたが、彼女はそれを鼻で笑う。


「隠しても無駄よ。わたしの支配が効かないなんて、それ以外考えられないもの。そういうこと……ヴァンパイア以外の種族は人間に滅ぼされたと聞いたけど、まだ残っていたのね」


 そして、勝手に納得していた。


「さっき、自分のことをヴァンパイアだって言ったな?」


 対して、黒井は『彼女がヴァンパイアである』という事実のほうが気になっていた。


「ええ、そうよ」

「ヴァンパイアっていうのは魔物だろ?」


 そう訊いてから、黒井は拳でセレナを攻撃。しかし、それは紙一重で躱され、さらにはカウンターを腹に打ち込まれた。打ち込まれる瞬間、彼女の拳表面に魔法陣が出現する。眩い光と激痛、それに黒井は喉元まで込み上がってきた胃液を抑えきれずに吐きだしてしまった。


 遠くなりかけた意識を強引にひっ掴んでセレナを見れば、彼女は手首を払いながら呆れたような表情。


「舐められたものね。パワーはあなたのほうが上かもしれないけど、戦いにおいてはわたしのほうがずっと慣れてるわ。いつか自分のことが人間にバレて殺されてしまうかもしれない恐怖に震えているのは、あなただけじゃないのよ」


 久しく感じていなかった痛み。今にも体を折り曲げ、腹を抱えてしまいたい欲求を黒井は我慢して、なんとかポーカーフェイスを気取る。


「まぁ、あなたが上位種だったのは思わぬ収穫だったわ」


 そう言ったセレナは無用心に黒井へ近づくと、彼の頬を撫でた。その手はいやらしく表面を滑り、やがて突きだした角へと到達する。その無警戒を見るに、黒井が痛みで一歩も動けないことは看過されてしまっているらしい。


 やがて、セレナは再び黒井の首に口元を寄せると、ゆっくりと八重歯をつきたてた。


 黒井は、彼女が再び自分を支配しようとしているのかと思ったが、



――月の力を感知しました。本来の姿を覆い隠します。



 噛まれた直後、黒井のこめかみから突きでる角が消滅するかのように消え失せたのである。


「眷族でもないあなたにこの力は一ヶ月しか持たないわ。それまでに、わたしのモノになるかよく考えてみてね」


 セレナは首元から口を離したあと、笑って一枚の紙切れを黒井の胸ポケットに入れた。


「今日はこのくらいにしておいてあげる。ラルフも治療しないといけないし」


 そして彼女はふっと黒井から離れると、横たわる人狼のもとへと歩み寄り何かを呟いた。すると、人狼は人の姿に戻り、それに自身が羽織っていたローブをかけるセレナ。


「痛みが引いたら、すぐに立ち去ったほうがいいわよ? すぐに人が集まってくるはずだから」


 セレナの言葉に黒井は諦めて頷いた。やがて痛みがおさまった彼は、倒れている茜の元へ駆け寄ると、生きていることを確認してその体を持ち上げる。


 セレナが言った通り、すぐに離れた場所から騒がしい声が聞こえてきた。


 その喧騒から逃げるように、黒井はそっとその場を去った。

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