第59話
変異体という言葉は、横浜ダンジョンにいたドラゴンが黒井に向けて放ったものだった。そこには分かりやすい軽視の感情が入り混じっていて、意味は分からずとも、決して良い意味でないことを察することができる。
黒井は、その意味など知らなくても良いと考えていた。
「変異体っていうのは俺のことだ。だから、その人は放してやってくれ」
月夜に照らされる閑静なビル街、人のいない路地道。そこで唐突に行われた襲撃。
襲われた目的が黒井であるのなら、今まさに首を締められている茜は巻き込まれた被害者に過ぎない。彼は、燕尾服を着た男に圧倒的な力で抑えられながらも、セレナへ向かってそう要求をする。
「あなた、変異体が何か知っているの?」
「知らないな。だが、良いものじゃないことくらいはわかる」
「それを分かってて言っちゃうんだ?」
「いつか誰かが、俺を殺しにくる夢は何度もみた」
鬼だとバレてしまい、顔も知らない者たちに武器を向けられる状況を黒井は夢のなかで何度も経験していた。立ち向かおうにも何故か手足が拘束されており、どんなに弁明をしても聞く耳は持ってもらえず、害はないという主張は信用されずに無視される……。やがて、その度に黒井は殺された。そして、気持ち悪いほど汗をかいた状態で飛び起きるのだ。
黒井が比較的冷静だったのは、覚悟が決まっているからではなく、心的ストレスから解放されたいという半ば諦めの気持ちがあったから。その瞬間がとうとう来たのだろうと黒井は悟っただけ。
「ずいぶん素直に自白するのね? 彼女が変異体だと偽ることもできるのに。それとも……これがあなたたち日本人が大好きな自己犠牲ってやつ?」
セレナは、愉快そうに笑う。茜の首を締める腕が黒井の要求通りに緩まることはまだない。
「自己犠牲じゃなくただの事実だろ。無関係な被害をだして困るのはあんたたちのほうだと思うが?」
黒井は静かにそう返す。煽ってるわけではなかった。出す必要のない被害を述べただけ。
その返しに、セレナは満足そうに微笑んだ。
「そうよね。あなたたちは自己犠牲なんて言葉で美化しているけれど、本質はただの結果主義者なのよ。目的を達成するために出すべき被害の天秤に、自分の命すらも乗せられる哀れで冷徹な民族……。自分が犠牲になることを良しとしてるわけじゃなく、自分が犠牲になることが最も効率的な最適解だと考えられてしまう狂気的な効率厨に過ぎないんだわ」
そして、楽しそうにそんな解説をしてみせたのだ。
「でも、残念。わたしが望む答えはそういうことじゃないの。わたしは変異体を殺しに来たわけじゃない。わたしは、変異体であるあなたが強いのかどうかを見にきただけだから」
セレナは、それまでの笑みが嘘であったかのように無表情で黒井へとそう告げる。そんな彼女は腕の力を強めたのか、茜の喉からはカエルの鳴き声のような音が漏れて、口からは泡の混じったヨダレが吹きだした。地面から数センチ浮いた足が力なくバタついて、ヒールのあるサンダルが地面に転がる。
「彼女が邪魔であなたが実力を出せないのなら、ここで殺してしまったほうが良いかもしれないわね」
そのバタつきはやがて、律動性のない微かな痙攣へと変わった。このままでは茜が死んでしまうことは誰が見ても明白。
「俺を拘束するために、人質をとったわけじゃないのか?」
そんな黒井の疑問に、セレナはあどけない表情で首を傾げた。
「人質……? ああ、そういうこと? 違うわ。あなたが攻撃してきそうだったから、時間を稼ぐために捕まえてみただけよ。でも、もう用済み」
彼女は冷淡に言い放ち、躊躇いもなく茜を殺そうとする。セレナは、黒井を日本人に含めて「狂気的な効率厨」と表現したが、手段を選ばない非道なところは彼女も同じであるように見えた。
そういうことか……。
黒井は、セレナの目的が何なのかをまだ理解しきれていない。しかし、おとなしく投降することが茜を救うことに繋がらないのなら、このまま指をくわえて見ている必要はないことだけ理解する。
「なら、あんたたちの望み通りにしてやるよ」
黒井は抑えつけられているのとは反対の手で、躊躇いもなくマスクを外す。
そして、動きを封じられていた男の手を振り払った。
「なッッ!?」
直後、振り払われた男はそのまま強引に飛ばされ、ビルの壁へと背中から追突。
黒井は、自由になった手首を動かして凝り固まった筋肉をほぐした。
――【人の能面】を外しました。全能力値が上昇しました。
「へぇ……やっぱり、鬼だったのね」
「なんだ。もうそこまで見破られてたのか」
仲間が倒されたというのに、なおも冷静なセレナの言葉。それに黒井もまた、冷静で返した。
「これでいいだろ? 彼女を放してやってくれ」
黒井のこめかみから二本の角が突きだし、セレナの前に鬼を晒す。
それに彼女は口の端を吊り上げて、腕の力を緩めた。
その場に茜が崩れ落ちる。既に気を失っていたものの、まだ息はあった。
「でも……思っていたのとすこし違うわね? なんで人の形を保っているの? それとも……まだ、力を隠してる?」
不思議そうに呟いたセレナ。その瞬間、黒井の目の前に飛ばしたはずの男が拳を振りかざして現れた。
しかし、その拳を黒井は片手だけで掴むと、拳ごと握り潰す。
男が痛みに苦悶の声を漏らした。それに黒井は目もくれず、セレナに呆れたような顔を向ける。
「なんで、仲間がやられてるのに平然としてるんだ」
「言ったじゃない。わたしは変異体が強いのかどうかを見にきただけだって」
「じゃあ、こいつは殺してもいいのか……?」
潰れた拳をなおも放さず、黒井は燕尾服の男を見下ろした。
「お嬢様……彼には
男は苦痛に顔を歪めながら、ドイツ語で何とか言葉を吐きだす。
「たぶん、精神系の免疫スキルを持ってるんじゃないかしら? それか、自分をこの世から排せてしまうほどに狂っているか」
それにセレナもドイツ語で返した。無論、黒井には伝わっていない。
「解放の許可を……」
「いいわ。このままだと力の差は歴然みたいだし」
「ありがとうございます」
目の前で行われる理解できないやりとりに黒井が片眉を上げていると、突然、握り潰したはずの拳が手の中で膨れ上がり、硬い何かが黒井の手の甲を貫通した。
それは、鋭い鉤爪。
それだけではなかった。男の皮膚からは毛深い体毛が生えだし、苦痛に歪む顔が変形し始めたのだ。
「なんだ……」
一旦手を放して様子を窺う黒井。血が吹き出した手は、治癒術によって再生をはじめる。
そして、その傷が完治すると同時に、男もまた、あり得ない人体能力を彼の前に晒したのだ。
尖った鼻先に鋭い牙。それを知っている言葉で表すのなら――狼。いや、狼なんかよりもずっと巨大で、膨れ上がった体躯は簡単に燕尾服を破いた。
その変貌に、黒井は既視感を覚えた。種類は違ったものの、人が鬼に変わるときの様子そのままだったからだ。
「言い忘れていたけど、ラルフも変異体なの。あなたは鬼で、彼は人狼ね」
その答えを、セレナが親切に教えてくれた。黒井の前には、月を覆い隠すほど毛深い巨体が二本足で立ち塞がった。
「わたしたちはあなたを殺しにきたわけじゃない。むしろ、その逆。わたしたちも人じゃないのよ」
ようやく腑に落ちた説明に黒井は納得。しかし、そうだとするのなら一つだけ疑問が残る。
「じゃあ、なんでこいつは俺に殺気を向けてくる?」
「強いかどうかを見るためよ。弱い変異体なんて要らないから」
その理屈は彼女の言葉通り、人とは呼べない。高度なコミュニケーション能力を得ることで社会という新世界を構築した人は、弱いという理由だけで誰かを排除したりしない。
「そういうことか」
それでも、その理屈は探索者における価値観に近かった。たとえ仲間であったとしても、弱ければ死んでも仕方ないという思想。改めて驚くようなことじゃなく、それはこれまでにも散々見てきた理屈。
黒井は、そのことに安堵してしまう。もはや配慮する必要も、躊躇う必要すらないことを完全に理解したからだ。
不意に、黒井を切り裂こうとする横殴りの鉤爪――しかし、それは胸をなでおろした黒井によって呆気なく止められてしまう。
「意外と速いんだな?」
振りかぶられた衝撃だけが風圧として吹き抜けるが、そこに立つ黒井はビクともしていない。むしろ、その風は彼の髪を撫で、夜風の涼しさを楽しむような表情すら黒井は浮かべていた。
「――雷付与」
止めた鉤爪に走る電流。人の姿を捨てた人狼は、くぐもったうめき声をあげて距離をとる――しかし、退いた場所には既に、拳を打ち降ろさんとする黒井がいた。態勢をたてなおすために取った回避行動、その先で見計らったかのように打ち出されていた拳。避けることなどできるはずもなく、人狼の殴りとは比べ物にならないほどの衝撃がアスファルトの地面へと押し付けられる。
ラルフは人狼の変異体であり、本来の姿になることで100%の力を発揮できるようになったものの、その力はおろか、速度すらも黒井が凌駕していた。
……いや、実を言えば、黒井よりもラルフのほうが速かった。純粋な速度勝負ならば、ラルフは圧倒できたはずだった。
その差を埋めたのは黒井の魔眼。そこに映る魔力回路の流れが、ラルフの行動を予測しただけ。
筋肉には予備動作があった。ジャンプをするにはバネのように筋肉を収縮させなければならず、移動するには先に重心移動をしなければならない。その綿密な体感の流れが、魔力回路とともに黒井には視えており、速さで勝てなくとも予測によって先に動きだすことを可能としていた。
結果、ラルフは本来の姿になってもなお、黒井の前に横たわるしかなかったのだ。
「……あんたはさっき、自分の命すらも天秤に乗せられる哀れで冷徹な結果主義者だと言ったな」
黒井は、横たわる人狼からセレナへと視線を移動させる。彼女は仲間がやられたにも関わらず、やはり平然として立っていた。
「確かにそうかもしれない。俺は、俺が生きてて良い存在だとは思っていないからな。だが、あんたたちも人でないのなら話は違う。天秤に乗ってるのはあんたたちも同じだ。同じく人でないのなら、ここにいる誰が死んでも結果は大して変わらない。化け物が排除された、ただそれだけのこと」
その主張を、セレナは鼻で嘲笑う。
「あなたにとっては、自分自身も排除されるべき対象なのね。でも、自由に生きてみたいとは思わないの? 人に紛れて生きるには、社会はあまりにも人だけに都合よく作られているもの。人を殺して罰せられるのなんて、この世界において人だけよ? 変異体が生きられるようには作られていない」
しかし、今度は黒井がそれを嘲笑い返した。
「自由にあまり興味はないな。社会が人だけに都合よく作られたものなら、そこに準ずることで人を守ることもできる。みんながお行儀よくルールを守ってるのは自分のためじゃない。自分が守りたい人を守るためだろ」
黒井の反論にセレナは、時藤茜という
「あなたは変異体のくせに、あくまでも人で在ろうとするのね」
そう言った彼女は、
「人ですら、自分のために誰かを犠牲にしてしまえるのに」
誰にも聞こえぬよう呟いて、黒井へと視線を戻した。
「――パペット」
そしてセレナは、素早く指を動かす。その瞬間、横たわる人狼の体がむくりと起き上がり、再び黒井の目の前に立ちはだかった。
しかし、その目に光はなく、空いた口からはだらしなく舌が垂れている。それはまるで……意識がないかのよう。
「ラルフを倒したのは褒めてあげる。あなた、わたしが思っていたよりずっと強かったのね?」
「なら、目的は達成したはずだ。あんたが見たかったのは、俺が強いかどうかだっただろ?」
「ええ、そうね。でも……、わたしは強欲だから、あなたにもっと興味が湧いてきちゃった」
堪えきれない弾んだ声のあと、セレナは再び素早く指を動かした。それと同時に、人狼の姿が消える。
直後、殺気を感じた黒井は、本能のままに回避。避けた場所には、恐ろしい威力と速度を伴って人狼の鉤爪が振り抜かれた。
その攻撃は、黒井の目には見えなかった……というより、予備動作がほぼなかったのだ。
「わたしの職業は【
人狼が振りかぶった上からの攻撃に、黒井はやはり、感覚的な能力によって回避をする。外れた攻撃はそのまま地面をえぐり、勢いあまって鉤爪を一本砕いた。
「まぁ、本人の自制心がなくなるから、わたしが操るとみんなボロボロになっちゃうんだけどね? だから、壊れない
セレナはそう言って、照れたように笑う。
「さぁ、第二ラウンドを始めましょう? 今度は――あなたがわたしの玩具に相応しいかどうか見たいわ」
黒井の了承なく勝手に話を進めるセレナは、強欲だと自称した性格を隠すことなく、口の端を吊り上げてみせたのだ。
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