第50話
黒井は――今いる場所が、まるでダンジョンではないかのような心持ちで歩いた。
次々と姿を表す大猿たちには目もくれず、ただ夜の山道を散歩する登山者であるかのように、次の瞬間に自分の命が潰えてしまうことすら想像もせず、ゆっくりと呑気で悠長な愚か者を演じる。
タンクは、前に立って敵の攻撃を防ぐ役割があった。しかし、それ以上に敵の視線を集めるヘイト管理も重要な仕事のひとつ。そういった役割をこなすためのスキルを持つ探索者もいるが、黒井はそれに該当しない。
故に、分かりやすく魔物を挑発する必要があったのだ。
「キィエエエエエ!!」
一体の大猿が黒井へと迫った。歯ぐきをむき出しにして体を大きく見せ、突進と長い腕によって振るわれた一撃を、彼は前に突き出した盾だけで防ぐ。
しかし、その視線は大猿には向けられず、傾斜を登る歩みが止まることもない。
ヒュッと風切り音がして、飛んできた矢が大猿の耳から頭部にかけてを貫いた。その意表に、体をくねらせて倒れる大猿の最期すら、黒井は視界にも入れなかった。
〝モノともしない〟というよりは〝歯牙にもかけない〟という態度の現れ。大猿の存在など、自分にとっては相手にする価値もないという緩慢な歩調。
それは、ある程度知能がある魔物にこそ効く挑発。
誰もが、この世界に命を与えられた以上は、誰かに認められたいと願うものだ。自分だけが認識していて相手には認識されないという状態は、存在しない幽霊とおなじ。
だからこそ幽霊は、自分が存在していることに気づいて貰えるよう、ポルターガイストを起こす。
大猿の場合、
「キィエエエエエ!!!」
それが憤怒にまみれた総攻撃だったというだけのこと。
そんな行為ですら、黒井にとっては取るに足らない
盾に跳ね返された大猿の腕が勢い余って逆方向に曲がり、苦悶の叫びが至近距離で響く。加速した突撃も盾の前では強制的に止められ、反動によって潰れる骨の音を聞いた。群がる大猿たちの暴行ですら黒井の歩みを止めるには至らず、転倒した大猿を踏み越える足が身悶えに叫ぶ顎を踏み潰す。
それは、大猿たちにとって回避不可能な天災にも思えた。
どれだけ手を尽くしどんなに努力をしようとも、それら全てを無に帰す理不尽な進行。ただ、己の無力さだけをひたすら味あわせる絶望の存在。
そして、そんな光景を生みだした張本人は、なおも平然と小首を傾げたのだ。
「なんか今……虫でも当たったか?」
――称号【戦車】を獲得しました。
――スキル【無限軌道】を獲得しました。
そんな黒井の状態を、奇しくも天の声が分かりやすく説明する。
やがて、そんな黒井に向けて、傾斜の上から大岩が飛んできた。
それは彼の前にいた大猿にあたり、黒井の構える盾に押し付け声もなく圧死させる。それでもなお勢いの止まらない岩は盾に衝突したものの、次の瞬間には砕けて周囲の大猿を蹴散らした。
そこで初めて黒井は止まり、傾斜上を見上げる。
大岩を飛ばしてきたのは、他の大猿よりも大きな体躯を持つ個体だった。
一目で群れのボスだと分かる魔力を纏うその個体は、やはり、他の大猿よりも凶悪に映る歯ぐきをむき出しにして黒井に向かって吠えたのである。
「ギィエエエエエ!!」
◆
「アイツ一体何者なんだよ……」
催馬楽は呆然としたまま呟いた。その視線は、大猿たちを的確に射止め続ける茜ではなく、たった一人で進み続ける黒井へと注がれている。
いや、催馬楽だけではなく、その場にいる探索者たちは誰もが彼から目を離せずにいた。
なぜなら、ここはランクBのダンジョンであり、目の前にいるのは夜という時間帯に出現した大猿たちの群れ。それをたった一人で請け負い進みつづける黒井の姿は、あまりに異様だったからだ。
「彼は、ランクCのヒーラーです」
催馬楽の呟きに答えたのは、止まることなく矢を放ち続ける茜だった。その動きには一切の乱れはなく、狙いすらも精密なまま。
「はっ! ヒーラー? しかもランクCだと?」
催馬楽が笑いそうになったのは、茜が冗談を言ったと思ったからだ。もちろん、そんな事が言える状況ではないことも、彼女が冗談を言うような性格ではないことも分かっていたため、すぐにその表情は真顔へと変わったが。
「嘘だろ……?」
それでも信じられない感情が、催馬楽に半信半疑を吐かせた。
「本当です。ただ、今起こっている光景が信じがたいのは確かですね」
「じゃあ……たかがランクCのヒーラーが、あの魔物の群れに突っ込んで……全くの無傷でいられてるっていうのかよ!?」
「だから言ってるじゃないですか。信じがたい、と」
催馬楽の怒鳴り声に対し、茜は少しだけピリついた声音で答える。そのイラだちの原因は、催馬楽にあるわけではなかった。目の前で起きている光景に、彼女もまた理解できないことによるもの。
「そんな奴がいるなんて聞いたことねぇぞ? どこの所属だ?」
「攻略組ではありません。今は治安維持をしている探索者です」
催馬楽の質問は愚問だった。彼が企業所属の探索者であったのなら、参加枠としてここにいるはずがなかったからだ。
だから、茜の説明に彼女は何も言い返せない。
催馬楽にとって、彼は企業所属の高ランク探索者であって欲しかった。そうでなければ……企業所属である自分のプライドに傷がついてしまうから。
「安心してください。今は治安維持組ですが、かつては企業所属のトップにいた探索者ではありました」
そんな催馬楽の気持ちを察するように、茜は告げる。
「なるほど……アンタと同じ
悪意ある皮肉。しかし、茜は動揺することなく矢を放ち続けた。
「わたしなんかとは比べものになりません。彼は――攻略できずに全滅した探索者たちの中で、唯一生き残った人ですから」
茜の説明に、催馬楽は眉をひそめる。
彼女の知識において、トップにいた攻略班が全滅した事実はそう多くなかったからだ。いや……むしろ思い当たることなんて、一つしかない。
――二年前の、横浜ダンジョン攻略での悲劇。
催馬楽が、その記憶に思いあたったときだった。
「それと、わたしはこの場において、もう一つ信じがたいことがあります。それは、あなたたちです。……なぜ、そんなにも棒立ちをしていられるのですか?」
茜は矢を射ち続けながら、催馬楽に顔を向けることなく問いかけた。
「目の前で、一人の探索者が攻撃をすべて請け負っているというのに、なぜそんなにも悠長にしていられるのですか?」
淡々と語られる声は低く、疑問というよりは冷めた感情が滲んでいる。
「わたしたちよりもずっと先を進んでいたはずのあなたたちは……なぜ、まだこんなところにいるのですか?」
そして、最後のほうは怒りを孕んでいるようにも思えた。
「参加枠のくせに指図なんかしてんじゃねーよ……」
それに催馬楽も冷たい怒りで返す。その直後、バキリと音がしてその方向に視線を向けると、つがえた矢が握りつぶされて折れているのが見えた。
茜は再び別の矢をつがえなおす。
「わかりました。なら、もう何もいいません……わたしも、探索者がどんな人間なのか理解できるようになっているので」
「あ? なんだよ、その言い方――」
催馬楽は声を荒らげて茜に言い返そうとした。
しかし、
「これ以上、わたしの邪魔をしないでください」
喉元に矢を突きつけられたことで言葉が止まる。ギギギ……と、弓の弦が脅すような音をたてた。
「知っていますか? ゲート内で何が起ころうと、所詮外の人たちにとっては他人事なんですよ?」
茜の目はひどく冷めていた。なのに、その顔つきや雰囲気からは鬼気迫る何かを感じて催馬楽は押し黙ることしかできない。
それは、他のグリードメンバーも同じ。
探索者同士での争いは禁止されている。しかし、少しでも彼女を刺激してしまえば、本当に矢を射ちかねない危うさがそこにはあった。
なにより……催馬楽がまったく抵抗できなかったのは、目の前にいる茜から強者の気配を感じたからだ。それは、催馬楽がこれまで『時藤茜』という人間に抱いていた印象とはかけ離れたもの。
そして、茜の矢を握る指の力が緩もうとした時――。
――【明鏡止水】が反応しています。
――殺意を抑え、力の解放を阻止します。殺意を抑えるため、他者への関心ごと破壊します。
茜の脳内でそんな天の声が響く。
直後、茜の頭上の空間にアイスピックが出現し、それが彼女の額に向かって真っ直ぐに飛んできた。それは額に深く突き刺さると、血が流れることなくアイスピックのほうが消える。
――他者への関心を破壊しました。殺意を抑えることに成功しました。
――力の解放を阻止しました。精神が正常値に戻りました。
ふと、茜は矢の矛先を催馬楽から外し、再び大猿へと向けて矢を射ち放ちはじめた。
緊張感から解き放たれた催馬楽は安堵の息を吐き、自身が冷や汗をかいていたことに気づいた。
それから茜に見れば、彼女からは先ほどような危うい雰囲気はなく、これまでの印象通り、綺麗に整った顔を嫌味たらしく浮かべる冷静な横顔がそこにはある。
その、あまりの豹変ぶりに催馬楽はすこしだけ怖くなった。
彼女に矢が放たれなかったのは、倫理的な歯止めが効いたからではなく、茜が彼女に対する興味を失ったからのように思えたからだ。
――やっぱ、気に入らねぇ……。
それに催馬楽は意気を取り戻し、舌打ちをする。
催馬楽は、時藤茜を最初に見たときのことを思いだしていた。
それは、アストラを取材したテレビ番組。
その番組には、同じ女探索者でありながら男顔負けの実力でランクBに成ったばかりの時藤茜が映っていた。
しかし、取材を受ける彼女はひどく冷めた表情であり、テレビの取材にもまるで興味はなく、ランクBという名誉にも関わらず、まったく嬉しそうではなかった。
むしろ、「そんなことは当たり前だ」というような茜の態度が、催馬楽の癇に障った。
極めつけは……番組スタッフが彼女に対してした質問の答え。
『――探索者は命の危険が伴う職業ですよね? これまでも仲間の死にも立ち会ってきたと思いますが、怖くはありませんか?』
『――わたしは探索者です。探索者は魔物を倒し、ダンジョン攻略をして、人類を救うことが使命です。その過程で死んでしまったとしても、別におかしくありませんよね?』
『――そ、そうですか……』
それを見た瞬間、催馬楽は時藤茜に得体のしれない嫌悪感を覚えた。
嬉しがることはなく、怒ることもない。仲間の死すらも彼女にとっては大したことではなく、楽しそうですらない。
まるで、喜怒哀楽が欠如したような無関心で冷徹な彼女に催馬楽は怖れ、嫌悪感を抱いたのだ。
そのことを、彼女は今さらになって思いだした。
そして、ちょうどその時――前方で一際大きな大猿の遠吠えが聞こえてきたのである。
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