第15話
「黒井さん!?」
支部に戻ると、がらんとした施設内で女性職員の響く大声が黒井を迎えた。驚きからなのか、受付の椅子から立ち上がったまま動けずにいる。
そんな彼女に黒井はなんと言えばいいのか分からず、取りあえずの会釈。視線は彼女から逸らしたまま。
「遅くなりました」
ゲートから出てきたとき、時刻は夜の九時を回っていた。回廊をさまよっていたせいで時間感覚がなくなっていた黒井は、日にちをまたいでいなかった事に安堵したものの、彼女からしたらそうではなかっただろうと想像ができる。
「いつまでダンジョンにいるんですか! 他の支部に救援要請をだそうとしてたんですよ!?」
「すいません……」
回廊のことなど説明できず、説明したとしても信じてもらえるかわからず、信じてもらえたとしたら鬼になってしまったことを明かさねばならず……黒井はただ謝ることしかできない。
「でも、良かったです。本当に……良かった」
なのに、彼女は何も聞かず、帰還したことを鼻声になりながら喜んでくれた。
「……すいませんでした」
それほどに心配をかけてしまったのだと今更になって理解し、それでも黒井は謝ることしかできない。
「でも、黒井さん何か変わりましたね? 雰囲気というか何というか……それにそのマスク……」
「これ、ダンジョン内で手に入れたんです」
変わったという言葉に、敏感に反応した黒井は誤魔化すようにお面の話のほうを返す。
「それと、報告は明日でもいいですか? すこし……疲れてしまって」
目を細めて精一杯の笑み。そうしながらも、今は誰とも話したくないという意図をそれとなく滲ませる。
「あ、報告については変わったことがない限りしなくても大丈夫ですよ。そもそも黒井さんは、今日ゲートに入る予定じゃなかったので」
「じゃあ、次はメンテナンスの日にきます」
「……わかりました」
彼女は何か言いたそうにしていたものの、黒井が発する雰囲気を察してか、逡巡を思わせる沈黙のあとでコクリと頷いてくれる。
黒井歯ゲート施設の鍵を返すと、そのまま背を向けて出口へと歩きだした。
「あのッッ! 黒井さん!」
そんな彼を呼び止めた声。振り向けば、彼女は胸を押さえながらもどかしそうな表情をしていた。
「その……探索者がいるから私たちは安全に暮らせます。ありがとう、ございました!」
その言葉を黒井は久しぶりに聞いた気がする。それは、職員がゲートから帰ってきた探索者に向けて言うマニュアル化された文言。彼が治安維持組としてこの支部に来た頃はよく言われていたが、簡単にメンテナンスを終えるようになり、職員の人たちとも顔見知りになってからは言われなくなっていた言葉でもあった。
そして、未だ頭を下げ続けている彼女に、黒井は表情を緩めた。
「感謝するこはこちらのほうです。俺がなかなか帰ってこないから、こんな遅い時間まで残っててくれたんですよね? 心配してくれてありがとうございます。それと、お疲れ様でした」
柔らかい声でそう返すと、その肩が微かに反応する。
そんな彼女が顔を上げるのを待たずに出口へと向かう黒井。施設内がシンとしていることから察するに、残っているのは彼女だけだったのだろう。別に予想外でもなかった。黒井は安否を心配されるほど、ダンジョンランクに対して弱くはなかったし、これまで無事にメンテナンスを終えてきた実績もある。鍵の返却は業務だっただろうが、それでもここまで待つ必要はなかったはず。
それでも待っていてくれたことや、心配してくれた事には純粋に感謝しなければならない。
そして、その感謝に報いる方法は、ダンジョン内の魔物を倒すことだけ。
それこそが探索者に与えられた仕事なのだと黒井は認識している。
――探索者がいるから私たちは安全に暮らせます。ありがとうございました。
その文言には、魔物を倒し治安を維持したことによる感謝はあっても、無事に帰ってきたことに対する感謝は読み取れないのだから。
かつてダンジョンをクリアできずに一人生き残った黒井は、そのことをよく理解していた。
「クリアか死ぬか。結局、その二択しか探索者には許されてはいない」
支部の外は暗かったものの、周囲にある街灯や家から漏れる温かい光が道を照らしていた。黒井の近くを、ランニングしている男性や散歩する女性が通り過ぎていく。
それは見慣れた平和な光景。魔物など無縁の人々の暮らし。しかし、そんな夜道を、ただひとり黒井だけが緊迫した険しい顔つきで帰路についていた。
「強くなったとはいっても、果たしてドラゴンに通用するかどうかが問題だ」
◆
「――嘘だろ……ドラゴンがいるなんて聞いてないぞ……」
二年前の横浜ダンジョン。ドラゴンは、洞窟内の天井に空いた直径50メートルはあろうかという大穴の岩肌にいた。長く赤い体躯と巨大な両翼。そして、探索者のことを獲物としか見ていない傲慢で冷酷な蛇の目。なにより……黒井の魔眼が見せた内部の魔力回路には、底のしれない膨大な魔力が流れていた。
「洞窟内の魔物が攻撃的だったのは、ドラゴンがいたからだったんだわ!」
誰かが叫んだ考察に、わざわざ視線を向ける者は誰一人いない。それよりも、目の前に立ちはだかった脅威に意識すべてを奪われていた。
「タンクは空からの攻撃に備えろ! 後方は魔法の準備! 合図で一斉に攻撃する!」
怒号のような指示、訓練された陣形、リーダーの指揮によってそれぞれの役割を担い始めた探索者たちの瞳には、自身が死んでしまう未来など一切視てはいなかった。
いや、たとえ死んでしまったとしても、それが探索者の在り方だと諦めにも似た覚悟を持っていたのかもしれない。
「無理だ! あんな魔力の化け物に勝てるはずがない!!」
ただ、一人――黒井賽を除いて。
「うるせぇぞ! さっき俺たちは、何があってもダンジョンをクリアすると決めただろ! 黙って回復魔法の準備でもしとけ!」
魔眼ルーペがカチカチと音をたてる。黒井には、その音が時限爆弾のカウントダウンのように聞こえていた。
ドラゴンが岩肌から優雅に飛び立ち、頭上を旋回しはじめる。巨大な影が天井上から射し込む光を遮るたびに、探索者たちは目を細めて眩しさに備えなければならない。
辺りには、空を掻く翼の音だけが聞こえていて、誰かが生唾を飲み込む音が混じった。
やがて、見上げた首が疲労を感じ、いつまで経っても襲ってこない間延びした空気に集中力が薄れ始めたころ、ドラゴンの旋回角度が傾いて急降下してくる。
「撃ち落とせ!」
その声に、準備されていた魔法が一斉に空へと発射された。しかし、ドラゴンの落下はぐんぐん加速し、魔法が着弾するよりも先にすぐ頭上まで迫った。
「伏せろ!!」
誰かが叫んだが、タンク以外の誰もが既に伏せ始めていた。
そして、その対応は悪手だった。
空を飛ぶ鳥は、地面に激突することを怖れ、落下してもいつかは空へと舞い戻るもの。それか、速度を落として着地をするだろう。
しかし、空から落ちてきたドラゴンは、そんなことなど歯牙にもかけず、探索者たちの中へと勢いよく着弾したのである。
腹の奥底から揺らされるような地響きがして、舞い上がった砂礫で視界が覆われた。
何が起こったのかも、どれほどの被害が出たのかも分からない砂煙のなか、奇跡的にも無事だった黒井は、魔眼ルーペが、張り巡らされた膨大な魔力を一点に集めていく異様な光景を見せていることに気づく。
「ブレスだ!」
叫ぶと同時に、あらん限りの力でその場を離れた。
直後、カッカッという石と石を叩くような音が聞こえたかと思うと、目を開けていられないほどの熱風が身体を包む。
それは、いとも容易く装備を焼き、肌や肺までもを一瞬にして焦がした。
黒井が治癒魔術師でなければ、確実に死んでいたはずだ。そして、ブレスを直に受け、回復できない者たちがどうなったかなど見なくてもわかる。
それでも生き残った者は黒井以外にもいて、彼らはあまりの苦痛に言葉にならないうめき声を上げていた。
その声が、ドラゴンの耳に届くことすらも考えられなかったに違いない。
聞こえていたうめき声は、ドラゴンの唸り声と軽い振動のあとに突然途絶える。
何をされているのか確認する勇気が黒井にはなかった。
そんな彼は、同じように火傷を負い、まだ息のある仲間と目が合ってしまう。
「かい、ふく……をしてくれ」
仲間にも黒井が見えていたのだろう。苦しそうな声は、確かに“回復”と言っていた。
黒井は這って仲間へと近付こうとするが、身体が震えて思うように動けない。
やがて、その声に気づいたドラゴンが、容赦なく仲間を凶悪な牙によって噛みちぎった。顎を振った勢いで千切れたのであろう腕が黒井の目の前に飛んできて、彼はしゃっくりのような悲鳴をあげてしまう。
咄嗟に口を手で覆ったが、ドラゴンは黒井に気づいてしまった。
黒井は為すすべもなく、ドラゴンが迫りくるのを見ていることしかできない。それでも何とか土壇場で蹴りを入れるも、その足は、強靭な顎によって噛みつかれてしまう。
グンッと遠心力によって身体が宙に浮き、黒井の身体は岩壁に強く叩きつけられた。あまりの衝撃に何が起こったのか把握できなかったが、視界に見えたのは片足の膝下が血に染まり無くなっている無惨な光景。
足がちぎれて飛ばされたのは運が良かったといえる。ドラゴンと距離を置けたからだ。
「生きている者は立て! ヒーラーは回復させろ!」
どうやら、まだ戦える者はちゃんといたらしい。その声に黒井も立とうとはするが片足では何もできず、ひとまず治癒に集中する。
しかし、彼が思うよりも足の再生速度は遅かった。
「いやだ、死にたくない……」
無意識に発した声は、彼の鼓膜を揺らしてはいたものの、頭にまでは届いていない。
戦わなければと思っているのに、身体がそれを止めさせようとしていた。
黒井の心は、完全に折れていたのだ。
もはや、ドラゴンに勝つ未来が視えなかったから。いや、それが視えていた者などいたのだろうか。
せっかく生き残った者たちは、自殺行為にしか見えない戦いに身を投じていく。
やがて、自分以外の全員が全滅した事実を目の当たりにした黒井が、完治した足でドラゴンに向かうことはなかった。
「これは事故だ……みんなに知らせるのが義務なんだ……」
彼は、惨めにもゆっくりと地を這いながらただ一人、やってきた道を引き返していた――。
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