第9話
人がひとつ上の速度を体感するとき、そこに至るまでの加速には恐怖を覚えるものだ。例えば、落下するジェットコースター、高速道路に入るためのアクセル。自分の力では制御出来ない領域へと踏み込むとき、人は必ず恐れを感じる。
しかし、中にはそうじゃないものもいた。
自分がその速度を制御できると過信しているのか、はたまた、恐怖という感情自体が壊れてしまっているのか知らないが、そういう人間は少なからずいた。
「――反射」
黒井賽という人間が、まさにそれだった。
『ガ、ガアアアアアア!?』
回廊に響いた鬼の叫び。それは怒りでも嘆きでもなく、おそらくは
しかし、
「お前たちは、なんでいちいち動揺するんだ?」
黒井はそのことに疑問を呈する。
それは、『鬼のくせに動揺するな』という意味じゃなく、『戦いなんだから腕の一本くらい失って当たり前だろ』という意味。
無論、腕の一本くらいと楽観的になれるのは、黒井が腕を再生できる治癒魔術師だからではなかった。
「それが命取りになると知らないのか?」
もう、絶対に取り戻せないものを失い続けてきた経験があったからだ。
「標的を見つけたら接近して殴る。それが外れたり、逆に攻撃されたら驚くかブチギレるの二択。その後、吠える。……ワンパターンだな」
鬼の体躯を掻い潜り、白い刃を突き立てる。
スキル【反射】のおかげで、黒井の反応速度は一つ上の次元へと到達した。
今の彼の目には、鬼の動きが鈍く感じられている。ただ、鈍いといってもスローモーションというほどじゃなく、対等に戦えるようになった程度の変化でしかない。
しかし、その対等こそ最高だと黒井は豪語するだろう。
そう思わせるほどに、今の彼は――笑っていた。
一見すれば、それは鬼という魔物と探索者という人間との戦いでしかないはずだった。……なのに、両者の纏う雰囲気は、まるで回廊内で出会した鬼同士の殺し合いを彷彿させる。
そして、殺し合いの結末とは、敗者が倒れ朽ち果て、立っている勝者が強くなるという構図こそが相応しい。
――レベルが1上がりました。能力値が上昇します。
「やはりスキルには熟練度が必要だ。反射で感覚的には速くなったが、身体が重くてもどかしい瞬間がある」
――治癒術を発動しました。
――完治しました。
――鬼の侵食により筋力と持久と敏捷が上昇します。鬼の侵食率が増大しました。
――鬼化55%侵食しました。
そのダメージは、鬼の攻撃によるものではなく、過度な動きを行ったことによる代償だった。
そして、そういったダメージのほうが鬼の侵食が抑えられることを黒井は知る。
「一体で5%か。なら、単純計算であと9体は倒せるわけだ。その間に、反射の熟練度を上げられれば0%で鬼を倒せるかもしれ――」
そんな独り言をぶつぶつ呟いていた黒井だったが、途中で馬鹿らしくなってやめる。
そんな計算に意味なんてないと考え直したからだ。
この回廊に、あとどれほどの鬼が徘徊をしていて、あとどれほど倒せばいいのかすらわからない。そして、倒した鬼の数がダンジョンクリアに繋がるのかすらもわからない。
そんな状況に目算をつけたがるのは焦っている証拠。
焦っても何も良いことがないことを、彼は痛いほどよく知っている。
そもそも、今の黒井がやれることなど、この回廊に入ってきてから何一つ変わってはいなかった。
ダンジョンを探索し、クリアへの手がかりを見つけるだけ。
それは、彼が探索者になってからずっと変わらずにやってきたことでもある。
「仲間のいない治癒魔術師がなに焦ってんだか……」
笑って黒井は回廊を進む。
治癒魔術師が非力なのは回復に特化しているからなのだろうが、戦闘要員じゃないことも大きな理由の一つだと黒井は考えていた。
つまり、戦えないのではなく、戦う必要がないというのが彼の答え。
なぜなら、戦ってくれる仲間が前提にいたから。
しかし、今の黒井にはその仲間がいない。かつてはいたが、今はいない。
回復とは、自分を救うためのものじゃなく、戦える仲間を救うためのものだった。
戦えない自分をいくら救ったところで、強大な魔物に打ち勝つことなどできはしないのだから。
できたことはせいぜい、逃げ帰ることくらい。
下手な目算で薄い希望を得ようとする行為は、黒井にとってそれと同じように思えた。
だから、やめたのだ。
その後、黒井は回廊内を歩き回りクリアへの手がかりを探した。鬼と出くわしたら、躊躇いもなく戦闘を行った。
それでも、何か景色が変わることはなく、出会す鬼に変化があるわけでもない。
――鬼化70%侵食しました。
それは、もう何体目になるか分からない鬼を倒したときのこと。
――鬼の芽が成長し、脳の中枢まで到達しました。神経細胞に絡まった鬼の芽は、微量の磁気を帯びています。
その天の声が聞こえた直後、黒井は無意識にとある方向に顔を向けてしまう。それだけじゃなく、背を伸ばし、まるで臭いを嗅ぐような仕草をした。そうすることで、より明確にその感覚を掴むことができたからだ。
「こっちか……」
これまで何処に向かえばいいのか分からない黒井だったが、まるでそれが嘘であったかのように向かうべき方向がわかる。
どうやら、手がかりは鬼の侵食にこそあったらしい。
しかし、100%を目指すことが最善とも思えない。
それでも、黒井がやることは一つであるため、今はただ勝手に頭が向かう方にただ、進んだ。
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