青春よ聴こえてるか

 彼女に変化があったのはそこから数駅過ぎた辺りである。

 

「次はぁ、西貝田にしかいだぁ。西貝田――」

 

 車内アナウンスと同時に彼女がパチリと目を開いた。ボーッと彼女を見つめていた健太は、咄嗟にスマートフォンに視線を逸らす。視界の端でポニーテールが大きく揺れたのが見えた。

 

 ――こちらに近付いて来る。

 

 彼女に腕を強く掴まれ「ずっといやらしい目で見てたんです!」と叫ばれて周囲の乗客に取り押さえられる。そのまま駅員に突き出され、警察に連行される……そんな過大な想像が脳裏をぎった。

 慌てて逸らした目線のやり場に迷い、手元の画面に映るトップニュースを意味も無く上に滑らせる。俯く健太の視界の中に艷めくローファーが入り込み――

 

「えー、西貝田、西貝田です」

 

 ――ドアが開き、彼女は降りて行った。

 

 健太になど一瞥もくれず歩いて行く彼女の後ろ姿を茫然と見送った。安堵とも落胆もつかない複雑な感情に苛まれる。

 と、ホームのコンクリートの上にぱたりと何かが落ちた事に気がついた。彼女は……気付いていないようだ。彼女の他に降車する客もいない。

 ドアから飛び出し慌てて拾い上げるとそれは定期入れのようだった。

 

「あの! 落ちましたよ!」

 

 そんな健太の声は、発車ベルに掻き消される。彼女の耳にも届かなかったようで、少女は胸を張りながらつかつかと歩を進めてゆく。

 ぷしゅう、と音を立て閉まりゆくドアには目もくれず、健太は凛と歩く少女を追いかけた。非日常の予感に心が大きく弾むのが分かった。



 

 改札口に向かうかと思いきや、彼女はホームの真ん中で不意に立ち止まり、そしておもむろに空を見上げた。つられて見上げると、そこにはやはり雲ひとつない青空が広がっている。

 

「あの……落としましたよ」

 

 後ろから話しかけたが反応は無い。とはいえ見知らぬ他人の肩を叩くのもはばかられる。

 

「あ、あの!」

 

 仕方無く、ぼんやりと空を見つめる彼女の前に回りこみ、眼前に拾った定期入れをかざした。

 

「これ! 落としました!」

 

 彼女は驚いたように目を見開いた。真夏の海のような、その薄藍色の瞳が煌めく。

 

 視線が交差する。

 

 雷に撃たれたような衝撃、と言うとありきたり過ぎるかもしれない。しかし、確かにその瞬間、全身に電流が走ったのだ。

 ドクドクと脈打つ心臓が酷く五月蝿うるさい。脈動の勢いのままに身体の中で跳ね回り、その内に口から飛び出してしまうのではないかと思った。だるような暑さの中でも頬がカッと熱くなるのがよく分かってしまう。

 

 健太にとっては永遠とも思える一瞬の後、少女は両耳から取り外した何かをポケットに仕舞い込み口を開いた。

 

「あぁ、別に無くても良かったんだけど……でも、さんきゅ」

 

 一目惚れの衝撃に硬直したままの健太の手から定期入れを受け取る。お嬢様のような見かけによらない軽い口調も、少し鼻にかかる低めな声も、健太の耳には天上の賛美歌のようにすら聞こえた。

 

 ――何か喋らなければこの出会いが終わってしまう。

 

 そう思いとりあえず口を開けてみるが健太の脳では適した言葉を見つけられない。そもそも家族以外の異性と話す事などほとんどないのだから如何しようもない。

 健太が悩んでいる間に、彼女はまた空を見上げた。その瞳は何かを探すようにゆっくりと左右に振れている。一緒に見上げてみても、彼女が何を探しているのか分からない。


「行かないの?」


 不意に彼女が口を開いた。驚いて彼女を見遣るが、彼女の視線は空に向いたままである。


「えっ、あっ」

「電車を降りたら改札を通って目的地に行くんだよ、そうでしょ?」


 虚をつかれ狼狽える健太の反応をどう受け取ったのか、彼女は尚も空を見上げたまま言葉を続けた。


「あ、いや、まぁ、何を見てるのかなと」

「私の見ている物に興味がある……何故?」

「何故って――」


 一目惚れしたから、と言える程の度胸を持ち合わせているのであれば最初から田中健太は平凡な男たり得ない。


「――今日は雨が降るって言うから、雲行きを見てるのかな……僕も見ておかなきゃいけないかな……と」


 我ながら酷く苦しい言い訳だと思った。というか、言い訳になっていない。しかし少女は「そう」とだけ呟き、そこでようやく顔を下げて健太を見つめた。


「……どうして今日雨が降る事を知っているの?」

「え、あ、いや、天気予報がそう言ってたから」

「天気予報……へぇ?」


 こちらは目が合ったせいで声が裏返って仕方が無いのに、彼女は「情報は……」とか「ドアが……」とか、よく分からない事を呟きながら考え込んでいる。

 と思うと、彼女は唐突に健太の手を掴んだ。


「ひゃいっ!?」


 またも硬直する健太に、彼女は真剣な眼差しを向ける。手に伝わる熱、交わる視線――自分の心臓が負荷に耐えかねて止まってしまうのではないかとすら思った。


「キミ、この辺りには詳しいの?」

「こ、こ、この辺りって……西貝田の事?」


 声が裏返る。情けなくて仕方が無い。

 

「そうと言えばそう」

「うーん、と……まぁ……?」


 健太は曖昧な返事を返した。

 というのも、西貝田駅の周辺は寂れたスナックやバー等しかない、健全な高校生にはあまり縁の無い地域なのである。健太にとっても、父親が仕事終わりにたまに立ち寄っている程度の印象しかない。

 しかし、この最大のチャンスを逃す訳にはいかない。


「あ、ある程度の案内ならできる……よ?」

 

 ……スマートフォンを使えば、という注釈付きは心の中に秘めておく。そんな健太の思いなど知らず、少女は笑みを浮かべた。不敵で尊大な笑みを。


「いいね、キミ。ちょっと付き合って」

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