定期入れから始まらない恋愛

杏杜 楼凪(あんず るな)

オワリはじまり


 ――今日、俺の平凡な人生は終わりを告げる。




 田中健太という男を簡潔に表すなら『平凡を紙に書いてそのまま貼りつけたような人物』である。

 

 サラリーマンの父とレジ打ちパートの母との間に生まれ、名前に込められた願いの通り健やかに育った。8歳離れた妹と両親と4人暮らしで、地元の中学校から近所の公立高校に進学した。

 容姿も成績も運動神経も、おまけにスクールカーストも中の中。そんな男だ。

 

 捻挫ねんざだの喧嘩だの多少のトラブルはあれど大々的に虐められたことも無いし、大きな事故や病気も無い。家族からは愛されているし、食べる物に困るような事も無い。

 他人と比べたら自分はかなり恵まれている方だと頭では分かっていた。

 

 しかし彼は同時に、平凡である事に飽き飽きしていた。

 

 父の趣味が野球観戦だったから、というきたりな理由で始めた小学生野球は、中学卒業までほとんどベンチを温めるだけで終わった。

 

 受験勉強の息抜きがきっかけでインターネットの世界にのめり込んだ。電子の海に遍在する表現者クリエイター達に触発され絵や音楽に手を出したものの、彼の拙い作品達は全く実を結ばなかった――というよりも、実を結ぶまで努力できると思えなかった、と言った方が正しい。

 健太は何かを創らなければ死んでしまうような人種にはなれなかったし、『楽しい』という感情以上の何かを得る為に産みの苦しみに血反吐を吐き散らすような覚悟も出来なかった。

 

 その後、高校デビューという言葉に踊らされて風呂場で染めた茶髪は、同じクラスのケンタ・フォーゲルという男の陰にかすんだ。

 ハーフ且つドイツ語・英語・日本語のトリリンガル、運動神経抜群の軽音部という個性の詰め合わせのような彼は周囲から『ケンタ』と呼ばれ、自分は『田中』や『タナケン』としか呼ばれない事も一層健太を惨めにさせた。自分は所詮『じゃない方』のケンタだと全員から言われているようにも感じたし、それはおおむね正しいとも感じてしまっていた。

 

 兎にも角にも、自分は何者にもなれないのだと実感する為に青春を費やしているのが嫌でたまらなかった。



 

 その日も健太はいつも通りの朝を迎えた。

 

 母親は「モーリーが今日雨って言ってたから!」と、小花柄の折り畳み傘を押し付けてきた。

 モーリーとは母のお気に入りの気象予報士、森崎の事だ。イケメンというよりは硬派で昭和風のダンディな森崎の事をこんな渾名あだなで呼んでいるのはきっと世界で母だけだろう。


「あたしが昔使ってたヤツ持っていきなさい! どうせアンタすぐに失くすんだから、失くなっても困らない奴。

 それに……可愛いピンクだから、女の子に貸してあげてもいいのよ?」

 

 母親の屈託の無い笑顔を思い出しながら、健太は駅のホームから雲ひとつ無い空を見上げた。太陽が嘲笑うように肌を突き刺す。


 ――おいおいモーリー、こんな青空なのにいつ雨が降るって言うんだい?


 頭の中の健太が、アメリカのホームドラマよろしく大袈裟に肩を竦め両腕を広げる。モーリーという渾名にイメージが引っ張られ過ぎている。

 現実の健太は大きな溜息を吐くと、せたその折り畳み傘をかばんの奥底にしまい込み、まとわり付くせみの声から逃れるように電車に乗り込んだ。

 

「ご乗車ぁ、ありがとうございます。この電車はぁ、当駅始発、春ヶ丘行き快速、7時48分のぉ、発車です。乗換のご案内をぉ、致します――」

 

 ねっとりとした節回しのアナウンスが響いた。

 

 混み合う電車が嫌で、健太は同級生よりも数本早い快速電車に乗るようにしている。

 始発駅、毎朝同じ時間となれば顔ぶれも席順も何となく決まってくるものである。

 健太は大抵たいてい、4両目の1番端の席に座る。向かい側には恰幅かっぷくの良い作業着の男が腕組みして眠る。その1つ空けて隣の席には、スマートフォンを眺める気の弱そうなスーツのおじさん。その他にも1つか2つずつ空けて、いつもの面々が各々おのおの決まった場所に座る。それが日常だ。

 

 しかし今日だけは異なっていた。いつも健太が座っているその席に、見知らぬ女が座っていたのである。

 

 少し青みがかった白銀のポニーテールが真っ先に目を引いた。純白のブラウスに膝下まである薄水色のスカート。そのお嬢様のような出で立ちに似つかわしくないステッカーだらけの無骨なアタッシュケース。何もかもが、この片田舎の電車の中で異彩を放っていた。

 

(あんまりジロジロ見るのもな……)

 

 好奇心を抑えつつ、仕方が無いので向かい側のおじさんズ――と健太が勝手に命名している――の間に座った。おじさんズも2人揃って彼女にちらちらと目線をやっているのが少し可笑しかった。おじさんズにならうようにもう1度ちらりと見遣ると、彼女は背筋をピンと伸ばしたまま目をつむっている事に気付く。――眠っているのだろうか?

 

「――ドアがぁ、閉まります。ご注意ください」

 

 アナウンスが流れる。ドアが閉まる。電車が動き出す。

 

「――大きく揺れます。手すりや吊革にぃ、お掴まり下さい」

 

 間もなく電車が大きくガタン、と揺れる。それでも彼女が目を開く様子は無い。それを良い事に、健太はじっと彼女の観察を始めた。

 髪色や主張の激しいアタッシュケースに気を取られていたが、改めて見ると美しい顔立ちをしている。まるで絵画からそのまま現れたような、完璧すぎるほどの美しさだった。磁器のような白く滑らかな肌、スっと通った高い鼻、真一文字に結ばれた薄い唇。サラサラと揺れる前髪と同じ色をした長い睫毛が、窓から差し込む光を受けて煌めく。フリルの付いた上品な白いブラウス、その胸元に透ける薄墨のような色は……いや、考えない事にしよう。ふわりと広がった袖口から細くしなやかな手首が覗き、その手は膝の上に寝かせたステッカーだらけのアタッシュケースにそっと乗せられている。

 

「――えー、雲野岡くものおかぁ、雲野岡。地下鉄、市鉄をご利用のお客様はぁ、こちらでお乗り換えです」

 

 車内アナウンスで我に返った。自分が身を乗り出して見ていた事に気付き、咳払いをしながらブレザーの裾を抑えて座り直す。

 まぁ恐らく手遅れではあるのだが、良くも悪くも車内の注目は彼女が独り占めしているため、健太を見咎める者はいなかった。

 雲野岡駅は乗り換えが多いこともあり、サラリーマンやらOLやらが続々と乗り込んでくる。満員とまでは行かないものの、座席のほとんどが埋まるのが常であった。

 今日はそこに交ざって妙齢のご婦人方が3名連れ立って乗車してきた。香水だろうか、強い花の香りに少しクラっとする。

 ご婦人方は健太の2つ隣――つまり気の弱そうなおじさんの隣だ――にポツンと空いた席の譲り合いを始めた。

 

「タエコさん、どうぞお座りになって」

「やだ、あたしは大丈夫よ! ユキエちゃんどうぞ」

「何をおっしゃいますか! キミちゃんこそ座りなさいよぉ」

「えー、発車ぁ、致します」

 

 発車しても尚、3人はワイワイと譲り合いをしている。

 ――埒が明かない。

 嫌気が差した健太はそっと席を立った。同時に隣の気の弱そうなおじさんもスっと立ち上がり、聞き取れない程の小声で席を譲る。

 

「あらやだ、悪いわねぇ!」

 

 言葉ではこう言いながらてんで悪びれる様子も無く談笑を続けるマダム達に愛想笑いを返し、おじさんは隣の車両へと移っていった。

 健太の左側のガタイの良いおじさんも眉をひそめて唸ったので、眠るにはかなり騒がしかったのではないかと思うのだが、やはり彼女はまぶたをピクリとも動かさなかった。相も変わらず胸を張り、目は瞑られたままである。

 いくら気になるとはいえあまり彼女の近くに立つのもはばかられる。仕方なく反対側のドアの横にもたれかかり、携帯をカムフラージュに彼女をちらちらと観察し続けるのだった。

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