第5話

突然、あの人たちがいなくなって、しばらくの間は気が抜け風に揺られている風船のようだった。再び母君子との鬱とした生活が始まっていた。閉じ込められた壁に穴をあけるような出来事は何も起こらなかった。

あれなら数年後、それなら私がハンマーで壁に穴をあけてやろう、と思い、実行をした。怒りに満ちた行為ではなく、ごく自然なものだった。それでいて、意外と冷静な彼女の行動だった・・・彼女はそう振り返る。

「そろそろ本当のことを話して下さい」

と、尋問の捜査員は言った。

美津江はその捜査員を見つめた。彼女の眼は冷静で、捜査員を見つめるその眼は感情の抱かない動物だった。動物は自分を守るために攻撃したり逃げたりする。人間は信用できないからである。


「私が彼女に付き従います。きっと説得して見せます」

小西八重警部補の自信に満ちた声が、捜査本部に響いた。榊原美津江は残酷な性壁はない。捜査本部の意見は一致していた。母君子の損壊を、彼女は素直に認めている。あの女には、特に女には残酷な面を隠し持っていることが多い。そう確信する捜査員もいた。

「いや、決して残酷な性癖の持ち主ではない」

と、小西警部補は強調した。

(当人にしか分からない長い親子の関係から生まれてしまったのだろうか!)

美津江は、殺害は頑なに否定し、首を振り続けている。

「なぜ・・・その理由を、誰もが知りたい・・・」

と、思った。警察も検察も、この事件を論理を持って組み立て、美津江を問い詰めた。崩しようのない完璧に組み立てられていた。だが、彼女は頑として頷かなかった。

この事件はまだ公にしていなかった。うすうす感じ取っているマスコミもいたのだが、

警察も検察も口を開くことはなかった。

 「分かった」

 県警の上層部も始めは渋り、納得しなかったが、了承した。

 「何処へ行きますか・・・いや、行きたい所がありますか?」

 私服に着替えていた小西警部補は美津江にきいた。警察へ連れて来られた時より、

(痩せた・・・)

最初から彼女を見ている小西八重にはそれがよく感じ取れた。

 榊原美津江は、

「母を殺していない」

と言い張った。だが、状況からして、殺したのは美津江しかいなかった。このまま送検してもよかった。だが、捜査本部の誰もが、それを嫌った。それは、なぜなのか・・・誰にも判然としなかった。小西警部補もそうである。

榊原美津江の心の内に持つ人柄かも知れなかった。だが、警察はそれを認めない。そこには、正義たるものが存在しないからである。小西八重警部補はそんな警察を嫌った。その反動の気持ちが、九鬼龍作と知り合うきっかけをつくり、今に至っている。

その美津江が真夏の空を見上げた。琵琶湖の湖面から撫でるように吹いて来る風が気持ちよかった。小西警部補もつられた。

(こんな夏の暑さもあるんだ・・・)

汗がうっすらと首筋から滲んでいる。小西警部補は、細い指を差し出し、

「鳥が・・・」

と、言った。

ピー、ピックル

「あの変わった色の鳥がいます。それに、変わった鳴き声だこと・・・」

美津江は真夏の青い空を指した。赤紫色の小さな鳥で、夏の琵琶湖の空に美しく映えた。

ピックルだった。

「知っているんですか?」

「はい。運動の時間に時々私の所にやって来て、励ましてくれているような気がするんです」

美津江は頷いた。

ピックルは空をくるくる飛び回りながら、こっちに来るかと思えば遠くに飛んで行ったりしている。

小西警部補は辺りを見回し、ある人を探したが、そのある人は・・・いる気配はなかった。でも、

(多分・・・いるはず。また、あの子も・・・この辺りに来ているのかな?ビビ・・・)

小西八重警部補が黒猫のビビに会ったのは・・・彼女は大分と前だったような気がした。あの美しい毛並みの黒猫に会いたかったが、あの人は気ままな旅人なのだから・・・そう簡単に合えないのかもしれない。

「どうしたのですか?」

小西警部補は榊原美津江が何かを考えている素振り見せているのに気付いた。

美津江の返事はなかった。

「あの・・・」

と、彼女は口ごもった。

美津江はあの二人の子供たちのことを思い浮かべていた。男の子は、ペソといい、二歳の女の子は、ミンという。ちぐはぐな言葉のやり取りと身振りで得た結果だった。彼女のことを、ミツエと覚えさせた。名前だけのやり取りだったが、結構意思疎通ができた。

知り合い二週間ほどしたときに、近くの小さな遊園地に子供たちを連れて行った。服は美津江の家にある彼女の小さい頃の古い服を着せた。一番困ったのは男の子の服だったが、美津江の五六歳の頃の地味な服を探し出し着せると、ぴったりだった。

この頃になると、彼らが話している言葉か、どうやら韓国語らしいことがわかって来た。そうかといって、彼女は韓国語を理解も話せもしなかった。それでも、彼らのことが知りたくて本を買い、少しでも彼らがどうしてここにやって来たのか知りたくて勉強をした。信じられないことだが、彼らは朝鮮半島の争乱を逃れ、倭国に新しい土地を求めて来たのだという。ずっと自然のことで・・・紀元四五百年ころのようだ。

そこで調べてみると、高句麗、百済、新羅・・・三国が争っていた時代のことであるらしい。美津江には込み入った話は出来なかったし、そこまで入り込む気分的余裕はなかった。

「でも・・・」

どうやって、この次第に紛れ込んだのだろうか?それが不思議でならなかった。SFとかワァンタジー的に考えるなら時間の歪みに紛れ込んでしまった・・・そう思うしかない。

この人たちは、この地に住み着き、美津江たちの祖先になる人たちである。そうであるなら、この人たちをもといた時代に戻してあげなくてはいけない。彼女はそう思ったのだが、その手立てが何もなかった。

結局、あの人たちは元いた時代に帰ったのだろうか・・・そう信じるしかない。

「ある時、突然に・・・」 

どのようにして戻って行ったのか、彼女には分からない。きっと戻って行ったのに違いない。偶然にか・・・おそらくまた時間の歪みに引き込まれたのに違いない。

(そう、思いたい・・・)

あの人たちは母国の闘いに追われ、ここに住み、

(私たちの先祖となったのかもしれない・・・)

いろいろと考えると、美津江は胸が痛くなり、涙が込み上げて来た。


「どうしたのですか?」

小西警部補は訊いた。

「えつ、何でもありません」

美津江は夢から覚めたような感覚だった。彼女は誰から見られているような気がしたので、空を見上げた。すると、赤紫色の小鳥が飛んできて、美津江の肩に止まった。そして、

ピー

と、透き通る声で鳴いた。

「小鳥ちゃん、どうしたの?」

小西警部補は、

「どうして・・・この人に何かを言いたいよう・・・」

「この子、やっぱり、何だか私を励ましてくれているような気がして・・・」

ピックルは女の肩を飛び回り、仕切に鳴いている。小西警部補はピックルをよく知っていた。彼女には理解できなかったが、あの人はピックルと話せた・・・というより、ピックルの言おうとしていることが分かるようだった。

その時、小西警部補は動くものの気配を感じ取った。その方を向くと、

「あっ、ビビ・・・」

黒い猫がこっちを向き、近付いて来た。美津江も彼女の声につられ、黒い猫に気付いた。

「美しい猫だこと・・・」

ビビは美津江の膝の上に飛び乗った。


「こら、こら・・・」

一人の中年の男が近付いて来た。

「すいません。人懐こい猫なもので、誰の近くにも寄って行くんです」

「いいんです、いいんですよ。私、猫・・・好きなんです」

美津江は膝に乗った黒猫の頭を撫でている。小西警部補は美津江の顔から暗く靄った影が消えているのに気付いた。

「ふふっ・・・」

小西警部補はほっとした気持ちになった。小西警部補はその男に軽く頭を下げ、微笑んだ。すると、彼も微笑んだ。

「名前は、ビビって言うんですよ」

美津江は琵琶湖の夏の陽光に光っている黒い毛並みを優しく撫でていた。

「散歩ですか?」

男は訊いて来た。男の名は、九鬼龍作である。もちろん、彼の名前など彼女にはどうでもいいことだった。

尋ねられた女は小西警部補を一瞥して、微かに頷いた。

「琵琶湖の風が気持ちいいですね」

「ええ、特にこの辺りで吹く風は気持ちいいんですよ。学生の頃、友達と遊びに来ていました」

「そうですか・・・家は、この近くですか?」

女は返事に少し躊躇したが、

「はい」

と、返事をした。

小西警部補は二人の会話に耳を傾けていた。この人は、九鬼龍作のことだが、なぜこんな会話をするんだろう、と思った。

(この方は、この事件の内容を知っている筈である。でなければ、ここに現れはしない)

美津江は黒猫を抱き上げ、ギュッと抱き締めた。ビビは少しも嫌がらずに抱かれていた。この時、また、

ピー、ピックル

あの鳥の鳴き声が耳に響いて来た。

ニャー

「おや、お前、あの小鳥さんを知っているのかい!」

すると、

ニャ

ビビは鳴いた。

美津江は笑っている。警察の留置所から出た時からずっと緊張しっ放しの様子が、小西警部補には見て取れたのだが、やっと・・・という印象を持った。それで、

(・・・どうするのか)

小西警部補には思いつかなかったのだが、ここまで辿り着いた、という感があった。

この時、小鳥が美津江の肩に乗り踊り始めた。右の肩から左の肩へ・・・時には彼女の頭の上にも乗って鳴いている。ビビまでも、彼女の膝から降り、踊り始めた。音楽はピックルの鳴き声だけだった。周りで見ていた人たちが寄り集まって来た。それを見て、みんなが笑っている。

それを見て、

「良かった」

と、小西警部補は思った。これで、被疑者、榊原美津江が心を開き、母君子の殺害を認めるのか・・・小西警部補には分からなかった。それでも、時々美津江の眼には頑なな冷たい輝きが浮かんでいた。

この時、男が立ち上がり、美津江に手を差し伸べた。美津江は驚いている。

「いかがですか!」

 この男、九鬼龍作が一緒に踊りませんか、と誘っているのである。美津江は躊躇していたが、男の手を握った。

 「私・・・踊れません!」

 「さあ、大丈夫ですよ」

 今日は水曜日でそれ程人出は多くなかったが、二十人ばかりが集まっていた。一瞬、ピックルもビビの動きも止まったが、またピックルが鳴き、ビビが踊り出した。小西警部補も踊りたい気分だったが・・・。

 「ここは、仕事・・・」

 と割り切り、美津江の様子を観察している。

小西警部補は九鬼龍作を不思議な人だと前々から思っていた。時には冷たく悪に立ち向かって行ったり、子供のような笑顔を見せたりしている。女の彼女から見ても、とても魅力的だと思っていた。だからこそ、時には何処かに家に忍び込み、高価なものを盗んだりしているのだか、警察官の身でありながら慕い続けいるのである。

「ふふっ・・・」

小西警部補は笑いが込み上げて来るのを我慢出来なかった。

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