第8話 二日目の夜



「ど、どう、どうして、どうして……」


 驚いて言葉が出てこない私に対して、若旦那様はドアを開けながらとても真面目な顔をしている。


「どうした?」

「どうして、ここに……」


 いらっしゃったのですか、と私が言う前に若旦那様はするっと部屋に入って来てしまった。


「いいか、俺は昨晩、三か月ぶりに眠ることができた」

「あ、はい」

「それまでは何をしても眠れなかったんだ」

「そうですか……」


 若旦那様に至近距離で話しかけられて、私は少し顔を背けながら返事をした。昨晩の『三か月眠っていない』というのは、本当のことだったようだ。


 目の下のクマが薄くなって顔色が良くなった若旦那様はとても凛々しくて、正面からまともに見ると訳もなくドキドキしてしまう。

 しかし若旦那様はそのドキドキするお顔で妙なことを言ってきた。


「だから状態にしたい。また眠れなくなったらと思うと……不安だからな」


 同じ状態と言われても、この部屋は昨日いた客間とはいろいろと違うのではないかしら。部屋が冗談みたいに広くて、ベッドの位置もずっと奥の方になっている。


「あの……でしたら、その、客間へ行かれては……」


 暗に「出て行ってほしい」と匂わせてみたけれど、若旦那様は首を横に振った。


「試したが、全く眠れない。場所が条件ではないのだろう」


 そう言いながら、若旦那様は強引に私の手を取ってベッドへと向かう。

 昨日は手を取ったりしていなかったのでは、と私は言いたくなった。しかし若旦那様の勢いに押されてしまう。

 どうして毅然と断ることができないのか。我ながら情けない。


 この部屋のベッドはとても装飾が多くて、まるで美術品のようだった。天蓋から垂れている布も見たことのない織り模様で、生地がキラキラと輝いている。もちろん客間のベッドも豪華だったけれど、こちらの方が一段レベルが高いのかもしれない。


 そんな風によそ見をしていたら、いつの間にか若旦那様が昨日と同じように勝手にベッドに座っていた。私の手を握ったままで。


 ……さすがに、夫婦でもないのにこれは良くないわ。

 私は若旦那様に手を離してもらおうとした。でも若旦那様が昨晩と同じ体勢でベッドに倒れ込んだので、何も言うことができなくなってしまった。


 ――まさか。

 慌ててのぞき込むと、すでに若旦那様はとてもいい寝顔で規則正しい寝息を立てているではないか。


 昨日とまったく同じだわ。いったいなぜこんな風に眠ってしまうのかしら?



 この日も私はソファで丸くなって眠ることになった。



 ##########



「……チアナ……」


 誰かの呼ぶ声が聞こえる。


「“ルチアナ”様……」


 それは私の名前じゃないわ。ルチアナは私に嫌なことばかり言う、あの意地悪な子で……私の、名前は――。


「“グラーツィア”様……」


 けれどその名前はルチアナあの子に取られたの。だからここで、そう呼ばれることはないのよ。



 ――悔しい。

 お母様が付けてくださった名前を取られてしまったことが……。

 いいえ、名前だけじゃない。持っている全てのものを奪われた。こうしていても悔しくてたまらないわ。


 けれど同時に仕方がないと諦めてもいる。決してお父様から愛されなかったように、求めても得られないものがあることを……私は知っているから。



 ##########



 涙がこぼれ落ちるのを感じて目を覚ますと、目の前にお婆さんの顔があった。


「まあまあ、坊ちゃまにベッドを追い出されたのですか? まったくあの方は寝相の悪い」


 お婆さんは眉毛を跳ね上げて怒りの表情になる。


「こんなところで寝ていたら身体が痛くなるのは当然ですよ。私が厳しく言っておきますからご安心くださいまし」

「あ、あの、違います……」


 お婆さんは、私が泣いているのはどこかを痛めたせいだと思っているようだ。なんだか私はこの人にたくさん勘違いされているような気がする。これからは、ちゃんと言わないと。

 でもどうして涙がこぼれたのか、私にもあまり思い出せない。


 そんなことをモジモジ考えていたら、文字通り「あっ」という間にお婆さんはどこかに消えてしまっていた。全く歳を感じさせない速さ。あの人いったい何者なのかしら。


 いつの間にか部屋の中に昨日と同じ侍女の方が二人現れて、すばやく身支度をしてくれた。私はここに働きに来ているはずなのに、実家にいる時よりも贅沢をしているような気がしてならない。

 このままでは借金が返せないのでは……。

 そう考えると胸が苦しくて、どうしても焦ってしまう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る