第9話

「そんな馬鹿な話が……」


 話を聞き始めた当初は、ふざけた与太話だと内心で嘲笑していた佐々木も……“黒い鳥籠”の話を聞いて血の気が引いた。


 京子の──そして、七瀬翔子の話を信じるのであれば、籠宮曜子が常日頃から持ち歩いている鳥籠は、限られた人間にしか視えないという。


 信じられない話だ。

 けれど、“黒い鳥籠”の話には信憑性があるように思えた。佐々木自身は黒い鳥籠を視ることができる。いつも籠宮曜子が持ち歩いている姿を見てきた。


 思い当たる節はいくつもあった。籠宮曜子とデートをしても、周囲の人間は誰も彼女の鳥籠を気に留める素振りすらなかったのだから──。


 京子の話が本当なのだとすれば、佐々木は籠宮曜子に何かをされてしまう可能性がある。いや、既にされているのかもしれない。現に佐々木は籠宮曜子に篭絡されて、プロポーズまでしている。

 彼女を手離したくないと。自分の全てを捧げても構わないとさえ思ってしまっている。


 ──まさかとは思うが籠宮曜子は、ハーメルンの笛吹のように、俺のことも何処かへと連れ去るつもりなのだろうか……。


 疑念が生まれる。籠宮曜子への愛情が揺らぐ。

 振り返って背中越しにいるであろう籠宮曜子を見ることが恐ろしくて堪らなかった。

 佐々木の動悸が激しくなって呼吸が乱れていく。


『翔子からその話を聞いて秀司に危険が迫ってると思って慌てて電話したの……。でも、良かったっ。秀司が無事でいてくれて……』

「京子……」


 電話越しの京子は泣いているようだった。

 別れた男のことを、それ程に心配して大切に想ってくれていたという事実に、佐々木の心がさらに揺らいだ。


 身勝手な振り方をしたのに。

 京子の献身を重荷に感じてしまい、短慮を起こしたのは自分なのに──。


「私ね。きっと間違えてた……。秀司と付き合ってた頃は何も見えてなかった。秀司のことを心配して……気付いたら貴方の気持ちを無視して、小言ばかり言ってた……。

 もっと二人できちんと話し合うよう努めるべきだった。一緒に考えて、一緒に悩んで……。それなのに、二人で決める前に自分の価値観を押し付けてばかりだったっ。間違えてばかりだった……。だから───」

「いいや……。違うよ」


 嗚咽を漏らす山本京子の懺悔を遮った佐々木は、


「間違ってたのは京子じゃない。俺の方だ……」


 佐々木は二年もの間、自分を想っていてくれた京子の献身的な愛情に触れて、ようやく気が付くことができた。


 ──俺は間違えていたんだ。京子から束縛されることを拒んでいたのは、俺の傲慢さ所以だった。

 京子を理解しようとすることよりも──自分の意思を尊重してもらうことだけを考えて、俺自身は彼女の意思を尊重していなかった。


 俺のことを心配していてくれたから、

 俺を大切に想っていてくれたからこそ、

 京子は俺の行動を咎めてくれていた。


 そこに愛情があったから。俺を諌めてくれていた。

 それが京子の意思であり、選択だった。

 そこから目を背けてはいけなかったんだ。それなのに俺は──、


 佐々木の胸中に後悔が無尽蔵に押し寄せてくる。電話越しのかつての恋人にかけるべき言葉を想起できずにいた。


 すると電話越しに京子が大きく息を吸う音が聞こえてきた。

 電話越しに覚悟を決めた様子の京子は、


「秀司……。もしも、まだ間に合うなら、遅くないなら、私ともう一度──」


「──もしかして、秀司くんがいま話してる相手。貴方の昔の恋人だったりする?」


 佐々木の耳元で声がした。携帯を押し当てている方の耳とは反対側から、甘く蕩けそうな声。腕を絡ませて、体を密着させて、佐々木の肩口に頬を寄せて微笑んだのは、


「ごめんね。少しだけ話が聞こえてきちゃったんだけど……。どうしたの、秀司くん?」

「あ、いや、実はその……」


 籠宮曜子が問い掛けてくる。佐々木は戸惑い、戦慄した。七瀬翔子が魔女と、悪魔と呼ぶ婚約者の彼女が──佐々木を一心に見詰めてくる。


「もしかして、秀司くんは迷ってるのかな? 私と昔の恋人のどちらを選ぶのかを──」

「そ、そんなことは……」

「だとしたら、羨ましいなぁ……。だって、秀司くんは、いま自分好みの相手を好きに選べる立場なんですものね。まるでレストランのビュッフェみたいだね! 選択する自由があるっていいよねぇ。憧れちゃうなぁ──」


 籠宮曜子は、微塵さえ怒っていなかった。むしろ、この状況を誰よりも楽しんでいるようにさえ、佐々木の瞳には映し出される。

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