第5話

「秀司くん。少し痛い……かな」


 少し困った表情を浮かべた籠宮曜子の腕を爪がくい込む程に握りしめていた佐々木は慌てた。

 公園のベンチから立ち上がり、佐々木の元から立ち去ろうとした彼女の腕を知らず知らずのうちに強く握りしめていたようだ。


「あ、悪い。そんなつもりは……」



「や、やっと見つけたっ!」


 突然の出来事だった。真夜中の公園で奇声をあげて、二人の前に立ち塞がったのは……、


「た、頼むっ! もう一度……もう一度だけ、俺を君の金糸雀カナリアに戻してくれっ!」


 蒼白の顔をした一人の男だった。無精髭に、荒れた髪、目の下には隈ができている。

 荒んだ身なりをしたその男は籠宮曜子に向かって叫び続ける。


「俺が間違っていた……。認めるよ君が正しかった……。だから、もう一度俺を君の金糸雀カナリアに──」


 間違いなく正気を失っている。狂人だ。

 もしかしたら、曜子に付きまとうストーカーなのかもしれないと思い至った佐々木は、籠宮曜子の身を案じて、彼女を庇うように抱き寄せると、


「な、何なんだ、あんたは。それ以上曜子に近づくつもりなら──」


 動揺しつつも、籠宮曜子にこの不審者が危害を加えないように、二人の間に割って入ろうとしたのだが、


「少しだけ、この人と二人だけで話をさせて欲しいの。いいよね? 秀司くん」


 あろうことか、籠宮曜子は目の前の不審者と話をさせて欲しいと佐々木に申し出てきた。


「いや、でも、危ないかもしれな」

「い、い、よ、ね」


 籠宮曜子は佐々木に返答を求めてくる。いつも通りの柔和な笑顔で。けれど、有無を言わせないその態度。佐々木は同意を求めてくる籠宮曜子のその笑顔が崩れる瞬間を想像して、恐ろしくなった。


「あ、ああ、もちろんだよ……」

「嬉しい。秀司くんはやっぱり世界で一番素敵な人だわ」


 それから、籠宮曜子とその不審者は、五分ほど茂みの奥へと姿を消した。暗がりのせいで茂みの中でどのようなやり取りや言葉が交わされているのかを佐々木は視認することさえ叶わなかった。


 彼女は程なくして戻ってきた。ただし、佐々木の目の前に現れたのは、


 幸せそうな微笑みを浮かべる籠宮曜子と──彼女の左の薬指に留まる一羽の黄色い金糸雀カナリアだけだった。


「あ、あの男は? いや、それにその金糸雀カナリアは一体……」


 異様な光景だった。暗黒の夜が支配する公園の中で、薬指に留まる黄色い金糸雀カナリアを愛おしそうに指で愛でる籠宮曜子は、


「この子が帰ってきてくれて本当に良かったわ」

「その鳥が……君がずっと探していた金糸雀カナリアなのか?」

「──いいえ。私が探し求めていたのは、この金糸雀カナリアじゃないのよ。でも随分と前に鳥籠から逃げ出した子なの。諦めていたけれど戻って来てくれて本当に良かった」


 黄色い金糸雀カナリアが小さく囀ずり、籠宮曜子は鳥の小さな頬へと接吻をする。幸せそうに、愛おしそうに。まるで長年連れ添ったツガイの鳥のように──。


 あの男はどこに消えた?

 二人は知り合いだったのか?

 この金糸雀カナリアはどこから現れた?


 疑念は尽きない。恐ろしかった。得体の知れない何かに支配されているような錯覚を覚えた。けれど、


「でも、もうすぐ私が求めている金糸雀カナリアも手に入るの。そう、私の新しい金糸雀カナリアが──。きっと美しい声で歌ってくれるわ。ふふ、ふふふ」


 喜びを抑えきれないのか籠宮曜子は静かに、妖しげに、口角を歪めて微笑んだ。

 なぜ彼女が笑っているのかが理解できない。この不可解な状況も何もかもが歪だった。


 それでも彼女は佐々木から問い質されることを望んでいない。それならば、追求はしない。


 佐々木秀司は彼女を妻にしたかった。

 彼女の機嫌を少しでも損ねたくはなかった。


「ああ、楽しみだわ。この鳥籠に招く金糸雀カナリアを──早く私のものにしたい」


 ふふ、あはは。あっは、は、あ、は、はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは──


 狂ったように籠宮曜子は笑い声をあげた。

 鳥の囀ずりのような美しい声で、

 右手に持つ黒い鳥籠と金糸雀カナリアを交互に見つめながら、くるくると軽やかな足取りで踊り狂う。

 街灯が照らし出すおぼろ気な光の輪の中で、最愛の伴侶になるであろう女性が狂喜的に踊っている。


 佐々木秀司はその夜の出来事を忘れ去ることにした。籠宮曜子には、元々一つだけ不可解な点があった。彼女はいつも黒い鳥籠を持ち歩く。どうしてか理由を訊ねようとすると、


『──私のことが嫌いになったの? 別れたく……なっちゃったかな?』

『──こんな不気味なものを持ち歩いてたら、嫌だよね』

『──秀司くんには踏み込まれたくないことって無い? 私にもあるの。その人との関係を全て精算してしまいたくなる位にはね。それで、聞きたいことって何?』


 籠宮曜子は必ず“別離”を示唆してくる。

 嫌だった。彼女を手離したくなかった。彼女から離れたくない。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 黒い鳥籠を常日頃から持ち歩きていることを除けば、彼女は最良にして最愛の伴侶に成りゆる存在だった。そんな彼女のたった一つの違和感。それが黒い鳥籠。その欠点さえ見逃してしまえば、それで済む話だった。


 だから、この異様な事態にも目を瞑る。

 最良の伴侶を得る為に。佐々木秀司はそれ以上踏み込まないことにした。

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