一日レンタル毘沙門天.上

 京都のどこか、おそらく地図にも載ってなかろう。無論、夢の中だからありもしない風景である。

 仏教世界でいう須弥山しゅみせんのような大きな山が三つ連なっていて、二車線の道路を挟んだ先には海が広がっていた。中心地の都会からはだいぶ離れたような田舎の景色で、空は常に明るく夜になっても太陽があった。


 ただ、脳が夢を見始めたばかりの時点ではかような光景もまだ断片的な映像で鮮明ではなかったし、今まで自分がどこでなにをしていた人間かもおぼえない。

 しかし、思考だけはやたらとはっきり意識を持っている。


 ———今日は、毘沙門天レンタルの日。


 いわゆる、これから非現実世界ワンダーランドが練り上げる物語のテーマ、自分の脳内で上映される夢の主軸となる設定であろう。夢の中の自分の頭はこの事実だけ、はたと思い出したのだ。

 その頃の自分は、さびれた屋台がいくつか並ぶ、舗装された山道を特段目的もなく歩いていたように思う。雨が降ったあとだったのか、コンクリートが湿っていた。


 夢というものはたいてい曖昧で、新しいシーンが完成するつど、中国伝統芸能の「変面」のごとくにコロコロと場面が変わる。

 毘沙門天レンタルという妙な認識を起こした時にはとっくに、それまでの情景はガラリと模様替えされていた。どこか不明瞭であった絵画が、急に動いて鮮やかに映し出される——。




          ♡


 ——自分は、黒い車の後部座席に座っていた。タクシーに乗ったのであろうか。

 ふと右隣りを見るといつのまにやら、堂々たる恰幅の男が脚を広げて鎮座しており、窓の外をのんびりと眺めている。ここまでの経緯いきさつは、記憶に見当たらない。

 

 さて、この男には色彩がなかった。全身すす色である。黒髪を五山髻に編み、中華風の甲冑を身につけたその男、横顔から垣間見えるむっつり面は心なしか懐かしささえ覚える。


 自分は今日この日のために、とびきりをしてきたのだ。普段は好まぬスカートをはいて、すっぴん派の自分が朝も早くから時間をかけておめかしまで仕上げて……!


 でも彼とは、一日しか過ごせない。

 夜中の十二時を回ると、彼はもとの手のひらサイズの立像に戻ってしまう。しかも、その刻までにレンタル先のお寺へ返しにいかねばならないのだ。

 

 とはいえそれでも。

 一生に一度きりだが、届くはずのない恋を一日だけ体験できる。なんとありがたき幸せか、悔いのないように存分に楽しもうぞ。ほれ長年、どうしても彼とやってみたかったことがあるであろうに。さあ己よ、勇気を出してそれを叶えるのだ。


 自分は、シートに垂れている彼の左手甲をひっくり返し、自身の右手を重ね合わせて指を絡ませた。少しだけ身も寄せて、前腕同士をぴったりとくっつける。

 彼の手から伝わる柔らかい温もりは、むしろ熱いほどである。いかなる衆生をも優しく包み込んできたのであろうゆえ、きっと熱血があふれているのだ。自分の冷え性が目立って恥ずかしい。

 腕は少々硬かった。それは筋肉質だからとも見えぬ。そして彼は、終始一言もしゃべらず、表情も変わらないのである。これがまた、彼が断じてことを物語るようであった。



 しかし自分は、このひとときが胸もはずむほど幸せであった。永遠に続けばいいとさえ思った。ところが夢は、永遠どころかものの一瞬で終わってしまう。

 彼とのドライブデートをもう少し堪能したいところだったが、場面シーンが強制的に切り替わってしまった。今は、車内の様子も、彼と手をつないでいた映像とてあとかたも消えてなくなって———。

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