第1話 王都へⅠ 出発の日

 フィアナ・フローレシアは幼い頃から体が弱かった。

 走ることなど以ての外、少し歩くだけでも息切れを起こしてしまうくらいには。


 そのせいか、ベッドの上で過ごすことが必然と多くなった。

 けれど、それでは暇すぎる。


 そんなときに出会ったのが、本だった。本は一瞬でフィアナのことを虜にした。


 幸い、少し裕福な家庭に生まれたので、家には大量の本があった。

 英雄譚や恋愛物語など、興味のそそられるものばかりで、文字や言語もすぐに覚えることができた。


 一冊、また一冊と読み進める。

 世の中には数多もの本が存在するため、当然ながら同じような物語も存在する。

 少しそれに飽和しつつあったとき、とある一冊の本を見つけた。


 若干埃で薄汚れた表紙は隠れて読めない字もあったが、たった一つ、『魔術』という字だけは読めた。

 中を開くと、乱雑に書かれた文字と、魔法陣の絵がぎっしりと敷き詰められていた。


 紙の色も随分と古ぼけたもので。けれど全てが輝いて見えた。

 今までに読んできたどの本にも勝る、そんな内容だった。


 この本は、大きな希望を与えてくれた。

 期待はみるみるうちに膨らんでいき、収まることを知らなかった。

 体の弱い私でも、何かできるのでは?


 ――なんて、思ってた時期も私にはありましたよ。


 実際は、威力も規模も凡人の半分以下だそうな。

 折れかけたりもした。諦めかけたりもした。けれど、どうしても憧れてしまった。


 だから、あくまでも〝普通〟になるために努力した。


 その結果生まれたのが、その過程に至るまでの第一歩が、二重詠唱だったというだけの話。

 まだ未熟ではあるものの、これでようやく皆が言う普通に辿り着いた。


 これを公表したつもりはない。

 でもなぜか自然と広がっていて、今となっては世界中に伝わり騒然となり、全魔術師の憧れへと化していた。

 ……二度手間でしかないのに。



 ◇



 窓の隙間から差し込む朝日を肌で感じ、フィアナはおもむろに瞼を開く。

 見惚れてしまうほどに美しい瑠璃色の双眸が露になり、それに陽光が反射し絶妙に輝く。

 見方によっては銀にも金にも見えるような髪を揺らしながら重い体を起こし、大きな欠伸と共に伸びる。


 木造の、それでいてひんやりとした床に足を着けて立ち上がる。

 今となってはもう、普通に立って普通に歩くことも当たり前になってきた。

 未だに体が弱いのは確かだ。風邪をひくことも多々。けれど以前よりは頻度が少ない。

 一応、昨日まで寝込んでいた。病み上がりである。脱力感が否めない。


 何か夢を見ていたようにも感じるが、それは既に頭の片隅のゴミ箱にぽいっと削除してしまった。

 思い出したくても復元は不可能。


 朦朧とする意識の中、昨夜のうちから準備していた服に着替え、お気に入りの寝間着を箪笥に片付ける。

 覚束無い足取りで、モヤモヤする感情が残ったまま部屋から一歩踏み出した。


「おはようフィアちゃん。調子はどう? 大丈夫?」


 リビングに出たところで、母であるマリーナが優しく迎えてくれた。

 フィアナと同じ瑠璃の瞳。髪はフィアナのものより若干青みがかっている。

 一応三十歳なのだが、二十代後半に見えなくもない。


「き、昨日よりは……」

「そっか、良かった」


 フィアナが体調を崩すのは日常茶飯事ではあるのだが、それでも心の底から心配していたのか、ホッとため息を零す。


 フィアナは一瞬俯き、何かを言いたくても言えないような雰囲気が漂った。

 ほんのり甘い香りがするテーブルの上からも目を背ける。


「あのさ、話したいことがあって……」

「なぁに?」


 俯きながら口を開く。どうしても直視することができなくて。


「私……王都に行こうと思ってて」


 ようやく打ち明けることができた。

 反対されないか不安で、打ち明けることができなかったから、一つ大人の階段を上ることができたような気がした。


「王都……ね」


 息が喉を通っていくのがわかった。緊張しているのだ。


「実はお母さんも、王都に行ったことがあってね。初めは広すぎて迷ったけど、こんな辺境よりずっといいところだったよ」

「それって……」

「お母さんね、宮廷魔術師だったんだよ。フィアちゃんと同じように、魔術の才能があったんだよ」


 俯いていた顔が、自然と前を向く。そしてマリーナと視線が交差した。

 その目は、透き通っていた。


 確かに、母であるマリーナだけには二重詠唱の件を打ち明けた。その時は、涙を流して抱き締めてくれた。

 宮廷魔術師だったからこそ、成し遂げたことの凄さに人一倍理解してくれたのかもしれない。


「けれど、あなたみたいに天才じゃあなかったから、少し窮屈になっちゃってね……宮廷魔術師は辞めて、この辺境に逃げてきたんだ」

「……」


 声は出なかった。

 なぜ自分が天才だと言われるのか。理由も不明瞭なまま耳を傾け続けた。


「だから、フィアちゃんが王都に行くのだとしても、自由に生きてほしい。王都はここより魔術が普及しているから、慣れないこともあるかもしれないけど……体の弱いフィアちゃんは、少し大変かもしれないけど……」


 確かに、フィアナは体が弱い。今でさえ病み上がりの、十五歳という年端も行かないいたって普通の少女だ。

 けれど、それを乗り越えられる力が欲しくて頑張ってきた。

 それが報われたような気がして。


「どうせ行くなら、うんと楽しんできなさい」


 心が一息に晴れ渡った。

 体の弱い自分のことを、こうして応援してくれる人がいるという事実に感嘆の息を零したくなる。

 なら、応えなければ。


「はい! 楽しんできます!」


 涙で少し掠れた声で、晴れ渡り透き通った声で、そう返事をした。

 あまりの偉大さに、母親相手にうっかり敬語になってしまったが。

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