追想
シンシア・ヴェラ・スタイナーを初めて見た時のことを、今でも鮮明に覚えている。まるで、落雷に遭ったようだった。
樋谷知帆の墓参りを済ませた博士は、霊園を出てすぐ近くにあるベンチに腰を掛けた。並木道であったから木陰に入って息を吐く。
生まれ故郷に帰るというのは、全くもって嘘であった。前妻の墓参りに行きたいと告げる勇気がなかったのだ。未練がましいというのは今に始まったことではないが、それをわざわざ言葉にして、後妻を傷つけたくはなかった。たとえ、彼女が本物でなくとも。
元より、眩しいものが苦手であり、外出も億劫で滅多にしなかった。ただ、ピアニストである知帆の演奏会には必ず出席するようにしていた。生き生きと楽器と踊る彼女の輝きを見つめるのは苦ではなく、むしろ生きる糧のようなものだった。演奏会の一か月前に彼女から手渡される関係者席のチケットが、自分を活気付け、研究意欲を漲らせる。
僕の音楽の専門知識は皆無だ。彼女の演奏はいつも素晴らしく、もちろん他の演奏者のパフォーマンスも素晴らしかった。音楽家の隣に立つのに素人でよいものかと悩んだこともあったが、だからいいのだと彼女はその度に楽しげに背中を叩いてくる。
彼女が死んだのは、ある演奏会の三週間ほど前のことだった。医者曰く、脳卒中とのことだ。あまりにも、呆気なさ過ぎた。知帆に渡されていたチケットは、まだ彼女が生きていると言わんばかりで、意味もなく希望を抱いて、すぐに全て崩される。
演奏会は取りやめになると思っていた。身内贔屓抜きに、知帆は演奏会の主役といっても過言でなかったのだ。その彼女が亡くなってもなお演奏会が催されたのは、樋谷知帆に匹敵する実力を持つピアニストが、代役を務めることになったからだと説明を受けた。悔しかった。知帆に代わりなどありはしないのに。彼女は唯一だ。そうであってほしかった。だから、その代役を自分の大して肥えていない耳でどうにか評価してやろうと、重い足を奮い立たせて、会場まで向かった。
代役だというその少女は隙の無い動きで舞台に現れた。
「持ち前の圧倒的な切れ味の才能とセンスで奏でますのは、音楽の神の愛し子、シンシア・ヴェラ・スタイナー!」
紹介を受けて、舞台の中央で一礼をして顔を上げた彼女に、全て持っていかれた。
鏡写しだった。まだ年相応にあどけなさは残っているものの、雰囲気や振る舞いも、芯のある美しさも、「まるで知帆だ」の一言に尽きる。
樋谷知帆の代役という十九歳には重荷であろう肩書を受けてもなお、凛とした佇まいの少女は、ピアノに触れるよりも先に舞台袖からマイクを受け取った。
「――まず、素晴らしきピアニストの死を悼ませてください。彼女は、私に大きな影響を与えた方ですから」
ブロンドの髪に碧眼。容貌は日本人のものではなかったが、日本語を何の詰まりもなく喋りこなす。あとから知ったことであったが、彼女は母親が日本人で、育ちも日本なのだという。
一分間の黙祷。それから彼女はマイクを戻し、あとはもう言葉で語る必要はないと言わんばかりに鍵盤と戯れる。
結果はこちらの惨敗だった。知帆の代名詞とも言える曲も、彼女の演奏をそっくりそのまま弾きこなし、聴衆を魅了した。僕も、例外でなかった。
次にシンシアと対面したのは、三年後の真夏、知帆の命日であった。疲れ切って全てを投げ出した彼女が、どういうわけか、向日葵畑に迷い込んできたのだ。当時よりもすっかり大人びていたが、一目見ただけで、あのときの少女だと分かった。髪も目立たぬように茶色に染めて、黒のカラコンを付けて、芯のある美しさではなく儚げな美しさに変わってしまっていたが。
「さあ、こっちへ」
掌を差し出した時点で、既にそれは恋だった。
向日葵を植えようと言ったのは、知帆だった。眩しさの象徴ともいえる太陽が嫌いで、庭一面に咲いている向日葵も苦手に思っていた。けれど、植えるのをやめたら思い出まで色褪せてそのまま無くなってしまう気がして、ずるずると決断を先延ばしにして、知帆がいたはずの生活を繰り返して、自分を守っていた。
「向日葵畑、今年も綺麗ですね」
リビングルームの大窓から庭を覗いて、シンシアが心底嬉しそうに声を弾ませていた。その隣で、「知帆が好きだったんだ」と思わず零れ出て、自分の最低さに嫌気がさしてしゃがみ込む。
「先生の、亡くなった奥さん、ですよね」
彼女が病気で没したということは伝えてあるが、やはり悪手だったことに変わりはない。彼女は少しの間考え込んでいたが、にこりと整った顔でこちらを見上げて微笑むのだ。
「素敵な方だったんですね。私も頑張ります」
罪悪感が、小さく音を立てて心を軋ませた。
それから、彼女に連れられて庭に出る。木陰の中に腰を下ろして、金色の花の海に佇む彼女を見つめていた。向日葵畑の、麦わら帽子を被ったシンシアは、舞台に立っていたときに劣らず美しかった。
シンシアは僕の向日葵だ。彼女が輝く向日葵畑が好きで、彼女の死んだ向日葵畑が憎い。
愛していた。紛れもなく、彼女を愛していた。けれど、彼女が分からなかった。
シンシアは自分の身の上話を滅多にしない。僕も人のことを言える立場などではないが、彼女が何に苛まれて苦しんで、何から逃げて、何を僕に見出したのか、誤魔化して曖昧なままで暮らしてきた。たとえ愛されていなくとも構わないのだと、迸りもしないただの日常さえも、彼女は愛していた。しかし、散っていく花びらを憂鬱そうに眺めて、無色透明の救済を求めて、ピアノを弾きながら「これは私が過ごしそびれた青春なんです」と歌っては微笑むくせに、彼女の心はいつも一人で泣いていた。
掌を差し出しておきながら、寄り添う勇気がなかった。失うことが怖かった。先立たれることが怖くて、ならば自分から距離を置いてしまえと無理やり解決しようとした。その先にあったのは、結局は喪失だ。情けの無いこと、この上ない。
「……博士!」
近くからシンシアの声がしたような気がして、控えめに辺りを見回した。
彼女は、僕を視認すると並木道の向こうから駆けてくる。その瞳は水分ですっかり潤っており、今にも泣いてしまいそうだった。
「どうして、ここに……」
「……貴方がどこかに行ってしまうと、あれが最後だったんじゃないかと思って、私、勝手に焦ってしまって……。博士の生まれ故郷を私は存じませんが……知帆さんの命日を過ぎていたから、霊園の方に来てみたんです」
樋谷知帆は、名の知れたピアニストだ。その墓は公表されており、慰霊に訪れるファンも多い。調べればいつでも出てくるが、彼女がここに辿り着いたということは、僕の言う『知帆』が『樋谷知帆』であると確信していたからだろう。一体いつからなどと尋ねて、更に彼女を傷つけるようなことはしないが、罪悪感だけが募る。それを誤魔化すように、またそっとシンシアを抱き寄せた。
「またそうやって……」
いつまでも逃げる僕を咎める口調で、しかし胴に回された彼女の腕は優しくて、ほっと息を吐く。
シンシアは、涙を流すたびに人間らしさが戻ってきている。生前の記憶が、馴染んできているのだろう。実験は成功だった。僕への呼び名が変わろうと、肉体が鋼になろうと、君の美しさは変わらないのだなと、嬉しく思う。
「君は紛れもなくシンシアだ」
言うまでもなく、満たされている。
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