寂寥
天才、それは虚像だ。結果だけで作り上げた偶像だ。それを人々は拝み、傾倒し、消費する。
──Congratulations! 完璧だ、素晴らしい。
──天才の登場です!
──音楽に愛された寵児と言わずしてどうする。
──持ち前の圧倒的な切れ味の才能とセンスで奏でますのは、音楽の神の愛し子、シンシア・ヴェラ・スタイナー!
「もう、いい」
──あの曲は、今やあの娘にしか弾けないようなものだ。
──あの娘は、もはや樋谷知帆の生き写しだ。彼女のかつての栄光をすべて塗り替えていくに違いない。
「もうやめて……」
「シンシア」
私は時々現実と過去の見境がつかなくなるようだ。走馬灯のように生前の記憶が流れ込んでくるのを、制御することができない。博士がそれをバグとして解析する様子はなかった。目覚めたばかりの頃に聞いた、「ゆくゆくは完全にオリジナルと同等になる」という彼の言葉が現実味を帯びていく。
『記録』が、『記憶』になっていく。
表面だけの愛を磨いていたあの頃に、もう二度として帰ることはできない。
「……はい、何かございましたか?」
「今日の朝食は外で食べよう」
「ええ、天気も良いですし」
小鳥が鳴いていた。美しさと儚さを兼ね備えたその羽が、輝く。
「これはここに置いておけば良いですか?」
「ああ」
夏とはいえ、朝は心地良い気温で、カフェのようなテラス席がある庭で、昨晩の夕飯の残りを並べた。
「……無理ばかりさせて、すまないね」
今の博士の言葉は『シンシア』ではなく私に向けられたものであった。彼にかかっていた魔法は、日増しに解けてきている。それに反比例するように、私が患っている魔法は悪化していくばかりであった。
「……いえ、お気になさらず」
正しい返事が、これ以外見つからなかった。
樋谷知帆は、おかしかった。壊れているような動きで、聞いたことのない繊細な音を奏でる。そして時に、儚いあの指先で怒りを歌う。化け物だった。狂気そのものだと、そんな風に思えた頃もあった。
ピアノは私の命だった。奪われてしまったら何も残るはずがない。
樋谷知帆は、博士の亡き前妻であった。奪われるも何も、彼の愛は最初から彼女のものだった。
母は後輩である彼女を負かすことに固執していた。きっとあれは私怨だろうが、酷い執着心だった。光が強ければ、影は濃くなる。彼女と母はまさに、それを身をもって示していた。
何だか疲れてしまって、机に伏せる。午前中の空気に忙しなさは微塵もなく、ただゆるりと過ぎていく時間を眺めていた。
私の父は優しい人だった。ただ、そばには居てくれなかった。隣にいた記憶は、もう消えかかっていた。
──お父さん。
──ん?
──お母さんとじゃなくて、お父さんともっと一緒にいろんなことしたい。
──……ごめんな、父さん忙しくって。
彼もまた、母の言いなりだった。私が手元を離れること、幸せの何たるかに気づくこと、当時の母はただそれを恐れていたのかもしれない。
「シンシア」
「はい」
「少し、出てくる」
「……何処へ行かれるのですか?」
──大丈夫、心配しないで。少し出かけるだけだから。
そう言われたが最後、あの青年との日々は戻らなかった。嫌な過去が遮る。
もう二度と離さないでと願っても、その手を離す勇気が欲しい。
信じる勇気が欲しい。
「……行ってらっしゃいませ、お気をつけて」
「うん」
また、この温もりが帰ってくることを信じてみたくて。信じても大丈夫だと自分に言い聞かせたくて。
「もし何かあっても、危険なことに首を突っ込んではいけませんよ」
「……? 分かってるよ。流石の僕でも、いい大人だ。自制心は人並みに備わってるよ」
本当にそうであれば、私のような存在を生み出しはしないでしょうに、と思わず言ってやりたくなる。
「何かに遭って多くを手放すことになっても、その命だけは必ず持って帰ってきてくださいね」
大袈裟だ。彼は帰省するだけだ。面倒臭い女みたいだ。けれど、そう思われてもよかった。
生前のシンシアが言いそびれてずっと後悔した言葉だった。今度こそはと、数年越しにようやく口にできたのだ。
「……何を言うのやら。シンシア、僕を置いて行ったのは君だろう」
苦く微笑んだ彼は、毎朝しているように、また私を抱き寄せる。もはや朝のルーティンの一環に組み込まれつつあるその行動に、両者ともに恥じらいは生じない。
「行ってくる」
確固たるものなんてないと分かっているのに、大丈夫だと言って欲しくて仕方ない。紛れもなく、彼を喪うのを恐れている。
博士は一週間、生まれ故郷に帰ると言った。
あまりにも広く味の無いこの家は、無意識の内に博士で溢れていたのだろう。一つ一つの背景に彼がいたからだろうか。それとも、私が『シンシア・ヴェラ・スタイナー』だからなのだろうか。
掃除をして、小鳥に餌をやる。少し褪せた木漏れ日が覗いていた。
静かで物寂しい博士の書斎に足を踏み入れる。ついさっきまでここに座っていたかのように、椅子が温もりを帯びているようだった。
「……わっ」
変なところに触れてしまったのだろうか。急にパソコンの画面が明るくなる。ただそれだけで、何も見ずにその場を去ってしまうべきだった。
「……樋谷、知帆?」
向日葵のような笑顔で微笑む彼女が、液晶の中で佇んでいた。
そしてその下に綴られた文章──それが彼の心からの言葉だと悟るのに時間は要さなかった。
『愛など、知らなければよかったものを』
理由も根拠も無く、もう次がないような、そんな気がした。
彼女の命日から、二日と半日が経過している。
嫌だ。どうしようもなく嫌で仕方なかった。
博士の生まれ故郷も、本名も、彼の本心さえも知らず、それでも構わないと思っていたくせに、いざその状況に行き当ってみれば受け入れられそうにない。
「博士……っ」
明確な当てもなく、隠すことも忘れて混乱が滲み出ている足取りのまま、家を出た。身一つで飛び出したのはシンシアの方だった。
模倣品だとか、偽物だとか、器だとか、そういうことはどうだって良くて、ただ博士にとってのシンシアとして、彼を失いたくなかった。
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