面影
もう数えきれないほど同じ夢を見ることがある。仮にも機械であるというのに、夢を見るなどそのようなことがあっていいものなのか、と目覚めるたびに考えたりもするが。けれど、あの鬼才だ。自分の中での常識が通用しないというケースは、割と頻繁にあるものだ。
いつかの真昼のことを思い出す。たしか樋谷知帆の命日で、良く澄んだ薄青の空と夏にしては穏やかな陽射の下で、向日葵畑の中心に博士が立っていた。一面に咲く向日葵を愛で、麦わら帽子の彼を咄嗟に抱き締めた。言葉だけでは満たせない空間が広がっていた。
──過ぎし日というものは何故これほど、嫌になるほど、美しいのだろうね。これでは、消えてしまうのは思い出ではなく僕の方である気がしてならない。
手を合わせることも、涙を流すこともせず立っている姿はまるで、あの人がその瞳に映っているかのようだ。ここに彼女の墓はない。遺体も無い。そこにあるのは思い出だけだ。シンシア・ヴェラ・スタイナーの知り得ない、不可侵の記憶である。
──愛など、そんなもの。
彼は静かに目を伏せた。それに寄り添うように、向日葵たちが揺れている。
あの人を想う博士の瞳、心も、全て。
──知るべきですらなかったのだよ。
彼の望む『愛』は、その真意がどうであれ、もうこの世に存在していない。
博士は孤独じみていた。だがそれ以上にオリジナルは独りだった。父も母もこちらを見ず、自分を愛してくれた人さえ喪って、どうしようもなく空虚な人間だった。泥濘とした記憶のさなかで迷い混んだのが、博士の向日葵畑だった。
──そんなところで立ち尽くしていたら、体調を崩してしまう。さあ、こっちへ。
これが教典の言葉で云う『救済』かと思った。博士は、亡くしたかつての恋人に似ていたのだ。声も、容姿も、その優しさも、全てに見覚えがある。
きっと愛していた。何もない日常を、隣に座っているあの恋人を。だから、悲しかったのだ。枯れない涙を拭って、絞り出す声は息ばかりで、目前は暗闇ばかりだった。ずっと一緒だと誓って握りしめたその手が、温度を少しもこちらによこさない。もう何がどうでもよかった。いっそその愛しい手で殺してくれたら、少しはましだったのに。
だから、博士と出逢ったとき、救われたと錯覚したのだ。神様がいるのなら、まだ自分は見放されていないのだと。
思い返せば、互いに面影を重ねてばかりの生活だったのかもしれない。愛を喪った空白を埋め合うように寄り添うのが、たとえその場凌ぎだったとしてもそれが最適解だった。
「今日は君が寝坊か」
博士の声で目を覚ます。カーテンは相変わらず開いていなかったが、窓から風がそよそよと吹き込んできては、ベッドで横になっている私の頬を撫でていく。
機械が、まさか寝坊とは。体を起こし、今まで一度も経験したことのない状況に戸惑う。彼はその様子を見てピタリと動きを止めてやや目を見開き、彼の綺麗な掌が若干ぎこちない動きで静かに私の背をさすり始めた。
「……き、君を責めているわけじゃないんだ」
私の膝に落ちた雫は、博士の言葉から推測すると、自分の涙だ。
彼が心配そうにこちらを見遣っている。
涙を流すのは踏み出した人の特権だと教えられて、そのまま幼少期を通過してきた。私はただ、安定が欲しくて、現状維持が目的で、踏み出したなんてお世辞にも言えない。少なくとも、オリジナルではなく、模倣品たる私が泣くのは間違いなのではないか。それとも、もう泣くことも出来ない彼女の代わりに、私が涙を流すべきなのだろうか。
分からない。それでも。
「シンシア」
じめじめとした暗がりから、沸々と湧き上がるものがあった。
今、博士の瞳に映るのは、私だけでいい。
どうしても忘れられない過去がある。過去というものは前を向きたいと思う程、引力が強くなるものだ。ずっと首を絞められている。
リビングルームの隅にあるピアノの鍵盤に触れた。真黒のピアノ。幼い頃、ピアノに初めて触れたときのことを思い出して、それを真似るようにそっと音を鳴らす。
「……だめ」
急に拒否反応が神経を蝕み、反射的に右足をペダルから離した。その動作に勢いがついていたからか、ペダルが元の位置に戻る際に音を立てていた。
歌えない。
過去という月日が現在という瞬間に変わっても、音楽は揺るがない。ただ、私たちは時間の流れに逆らえず、原型を失いつつあった。
小夜曲も追想曲も、歌い方が分からない。
──シンシアは天才なのよ、だから……ただピアノを弾いていれば、貴女も私も幸せなの。ピアノが弾けない貴女は誰にも必要とされない粗大ゴミ、なぁんて孤独は寂しいでしょう、ほら頑張って練習しましょ。
今思えば、あまりにも馬鹿らしい台詞だ。そんなことないのだと、余裕を持って反論できる。「貴方にとってはゴミ同然の存在でも、誰かにとっての資源にはなれるかもしれないでしょう?」と返せたら、どんな表情を見ることができただろうか。
だが、当時の私の小さな世界の中心に彼女はいた。揺るがない、絶対的な権威だった。実際に彼女に返したのは、反論ではなく謝罪の一言だった。
この世界は幾つの謝罪で成り立っているのだろう。数える気なんて、万に一つも起きないけれど。
母は、才能と自信に満ち溢れていた。『シンシア』を作っていた。ただの操り人形に、仕立てあげていた。
謝罪の言葉が、母の攻撃から未熟な私を何とか守っていた。恋をするまで、その方法しか知らなかった。
もう、くだらなくて仕方ない。幸せが何だとか、そんなのどうだってよかった。名誉も価値も要らなかった。
「何で……離さないでって言えなかったんだろう」
紛れもなく一等大切に思っていた人に、それを伝える勇気が無かったせいで、取り返しのつかない喪失を味わった。要らないものばかりに巻かれて、大切なものを守り損ねた、その後悔は壮絶だ。
次こそは、もう一度。
また自分の双眸から雨が降る。木製の白鍵に水溜まりを作り、早く拭わねば鍵盤が悪くなってしまったら良くないと慌てて袖口で揉み消した。日に日に感傷的になっていることを、自覚する。まるで人間みたいだ。
「愛を語るに足らない私が、今更」
愛している、だなんて。
美しい対比に人は惹かれやすいという傾向がある。例えば、博士が月なら、私は七等星。微妙で不思議な私達は、もし幾らお互いが惹かれ合っていたとしても、届かない距離にいる。だからこの言葉が私たちの間で交わされるのだとして、それは宇宙の塵に過ぎないということなど、とっくに解っていた。その何の捻りも無い言葉に、文句を言える立場ですらないくせに。
「……『愛しています』」
口に出せない感情を描くのは簡単だ。だがしかし、独り言のように愛を謳うのは、どうしてこれ程までに罪悪感に曝されるのだろう。
「し、シンシア?」
タイミングは、言うまでもなく最悪である。博士が空になったマグカップをダイニングに置きに来た、丁度その時だった。
ちょっとした好奇心が不幸を招くことがある。蝶々のように舞ってはこちらを振り返って微笑むような、妖精の悪戯みたいな。
そんな妖精が嫌いになりそうだ。
「いや、その、私は……っ」
──随分昔から言っているでしょう。そんな貴女なんか、要らないわ。
「私、は.....」
ただ、その温度がいつか消えてしまうのが怖くて、ただ、臆病なだけ。
──期待しただけ馬鹿だったのね、ごめんなさいね、シンシア。
──私が貴女に押し付けすぎてしまったのね。本当にごめんなさい。だから早くどこかに行ってちょうだい。要らないものまで抱えておく理由はないの。
まるで呪詛のように、いつまで経っても、一度死んでも、棘の食い込む茨のように巻き付いて気管支を狭める。
「……すみません、ごめんなさい、私……」
「……泣かないでくれ、シンシア」
この体に涙腺を作った張本人は、すっかり狼狽えてしまっている。
――シンシア、俺と居るときまで
――でもだって、もしお母さんに見つかって、貴方に何か危害が及んだら嫌だもの。
――大丈夫、きっとそんな日は来ない。君のお母さんが計算高い人なら、法を犯したら本末転倒だと理解しているだろうよ。それに俺は、君が笑っている方が嬉しい。
少女『シンシア・ヴェラ・スタイナー』を人形遊びの渦中から連れ出してくれた人の声がする。私の愛した嘘はきっと溶けていかない。この嘘は、美しすぎた。うまく出来過ぎていた。温もりを失い、硝子細工のように輝いている。
今でも、あの愛しい恋人の遺体は鮮明なままだ。
「シンシア、君の傍には僕がいるよ」
「……博士」
それも、嘘なのだろうか。
「……愛している、と言ったら君は怒るだろうか」
この世界は嘘でできている。それを、知っていた。けれど、彼のその言葉は、樋谷知帆とオリジナルのシンシアに向けられていた。
「私には愛が分からないのです」
分からない。それは詭弁だと知っていた。ただの言い訳に過ぎない。ただ、そんな嘘も、私を一時的に守る盾となる。
「……分からない、か」
今更でしかない。故人への追慕を今更言葉にしたところで、互いに虚しくなるばかりだ。傷つきたくなんてなかった。もう、十分だ。
「……いいんだ。ただ、僕が言いたかっただけだ」
そうやってまた、心を揺すろうとするから、欲しい言葉で的確に捕らえて離さないから、その度に感情を右往左往させてしまう。
オリジナルが望んでいた言葉をようやく得ることができて満たされる心と、それを言うべきは決して今でなかっただろうし、言うべき相手も私ではないだろうにという恨めしさ。
嫌だった。彼が想い人の死から立ち直りかけていることを恐れていた。いつか用済みになって捨てられてしまうんじゃないかと。
たとえ誰かの模倣であっても、自分の心が全て偽りだったとしても、全部気のせいだったとしても、博士の隣に立ち続けていたかった。
この世界の矛盾と偽善を全部抱えて、彼女みたいに屈託なく笑ってみたかった。
「博士」
無駄に臆病なだけだ。私は、安全地帯で守られていたいだけ。オリジナルは、もっとタフだったろうに。
「愛してる、なんて言葉、私たちにはなくてもきっと大丈夫なんです」
勝手に描いて、勝手に愛して、勝手に捨てる。夏めく季節が、私たちを映し出していた。
自我の凄まじいまでの成長が、静かに、そして緩やかに『模倣品』としての価値を歪めていく。それでも構わない。
孤独こそが、愛の必要性を育むのだと思っていた。埋め合う隙間があれば、必然的にそう為せるのだと思っていた。だがしかし、孤独は、孤独しか生まないらしい。
また独りにだなんて、なりたくはない。
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