憂鬱

 博士の好きな色は紫だった。買い物の帰り道に花屋に寄って、一番最初に目に入った紫の花を選ぶ。一輪だけ買って帰路についた。


 洗面所の掃除をしていたとき、何年も使われていないような花瓶を見つけた。オリジナルの方の記録にも残っていなかったそれは、切子と思われる装飾が施されていて、博士が自ら買ってきたとは考えづらい。大方、貰い物の類だろう。

 長きにわたって使われず埃を被り続けているというのは勿体ない。折角なのだから、というのも花を買ってきた理由の一つであった。


「……ただいま戻りました」

 ダイニングには珍しく博士の姿があった。湯を沸かす電気ポットの音と、流し台とコンロの間に置かれた彼のマグカップ。大抵は私にコーヒーの用意を頼んで、彼自身は書斎で休憩していることが多いのだが、たまたまタイミングが合わなかったのだろう。インスタントコーヒーの袋を持って湯が沸くのを待つ彼の姿は、あまり見慣れたものではない。


「努力とは、言ってしまえば所詮は自己満足なのだよ」


 何の予備動作も無しに、博士が言葉を紡ぐ。彼の思考回路が掴めない。実際、オリジナルが出会った頃はその事に頭を抱えていた。彼は理系でありながら、たまに哲学的なことを口にする。

「それは、人が抱く期待値が云々という話ですか?」

「そうだ」


 シンシア・ヴェラ・スタイナーは努力の人だ。努力を惜しまず、いつか救われる、いつか報われると信じて、しかし苦しいままで終わってしまった人生だった。ひとときのささやかな幸福も、その裏で苦痛が伴っていた。

「本人が自己満足と割り切れない、たとえば他者に対して何かを望むがゆえの努力というのは、……虚しいものだと思います」

彼はその答えに満足した様子でゆっくり頷き、そのまま書斎へと戻っていく。


「あっ、コーヒーは……あとで持っていきましょうか」

 独り言は広い部屋で全く響かず、そのまま足元に落ちた。朝食後からテーブル上に予め用意していた花瓶を手に取って、流し台で水を汲む。


 規則正しく四度のノックをしたが、書斎の主の返事は返ってこない。しかし、マグカップを渡しに来た程度なのだからと、静かにドアを開けた。

「失礼します、コーヒーを……」

 冷房が徹底的に効いており、人体には少し寒いくらいなのではないかというほどの室温だ。そのような状況で、博士はオフィスチェアに全身を委ねて、仮眠をとっていた。資料と思われる冊子が開いたまま彼の顔面に被さっているから、寝落ちという表現が適切なのかもしれない。彼が起きた頃にはコーヒーは冷めてしまうだろうから作り直したほうが良いだろう。


「知帆……」

 咄嗟に顔を背けた。見てはいけないものを見て、聞いてはいけないものを聞いてしまったときのような気まずさが、静寂を覆い尽くす。


 知帆と呼ばれる女性のことを、オリジナルは知っていた。樋谷知帆が若くして没したのはシンシアと博士が出会うよりも前のことであるが、知帆が樋谷知帆を指すこと、それから知帆と彼の関係について知ったのは、ほんの一年半前であった。

 それを知ってもオリジナルが彼に寄り添おうとしたのは、彼女の想いが薄っぺらい愛だの恋だので形容しきれないものだったからかもしれない。

 私が博士の傍にいるのは、そんなオリジナルの模倣であり、それ以外の存在意義を見出せずにいるからに他ない。


 彼女は、最期まで彼の都合のいい人形でいた。しかし、それでも構わないのだと笑っていた。「貴方の中に私がいなくとも、私の中に貴方はいるのですから」と。結局は、その苦痛に耐えきれずに死んでしまったが。

 こうして振り返って思うのは、私はどれだけ似せようとしても『博士の求めるシンシア』にはなり得ないということだ。彼女の献身を、幾ら精密に模倣しようとも、本物にはなれやしないのだ。この人の中で止まった時間は、私の温度では融かせない。

「シンシア」

 いつの間にか彼は目覚めていて、顔を覆っていた冊子はデスクの上にあり、私が持っていたはずのマグカップは彼の手中に収まっていた。考え込みすぎたせいか、知らぬ間に座り込んでいて、博士もその目の前で同じように座り込んで心配そうにこちらを見つめている。

「……すみません。コーヒー、淹れ直してきますね」

「大丈夫。シンシア、……こちらこそすまないね」

 彼の優しい声音に抗えそうにない。だが、そういうものを信じて失うものがあるということを知っている。彼にも、この瞬間にも、期待してはならないのだ。

「いえ。それより博士、夕食は何が宜しいですか?」

「……そうだな、さっぱりしたものがいい」

「はい、ではそのようにご用意しますね」


 また、一日が終わっていく。



 博士が哲学的な話題を投げかけてくるのは、生前からのことであった。

「シンシア、君は愛とは何だと思う」

「愛、ですか」

 オリジナルはそのたびに家事を中断して、彼の問いの答えを真剣に探る。一年と十ヶ月前にも、彼が今のものと同じ質問をしたことを覚えている。その言葉が自分に向けてのものであったらよいのにと思ったこともあっただろうが、それを口にすることはなかった。

「そうですね、博士の愛とは、知帆さんではないのですか?」

 知帆の名に博士は動揺したように一瞬肩を震わしたが、どうにか取り繕って、咳払いをしてから首を横に振った。それが半ば肯定を意味していることに互いに気づきつつも、見ないふりをしていた。

 私たちは、同じ日のことを思い出して、同じ日の様子を模倣している。だからこれは、オリジナルのシンシアの言葉だ。

「……彼女は、君の言う愛ではない」

「忘れたくても、忘れられないものであれば、それは愛ではないのでしょうか?」

「……それは、僕の過去だ。思い出を愛したって仕方ないだろう」

 残ったのは矛盾だ。


 あの日の答えを、未だに博士は教えてくれない。彼自身も分かっていないのかもしれない。教えてもらったところで、私にとっての『愛』は文字に過ぎない。

 目に見えないものなのだから。信じたところで、報われないのだから。

 ただ、きっとあれを人は愛と呼ぶのだろうと、博士と知帆が寄り添い合う姿を思い浮かべる。どちらのシンシアもその様子を見たことはなかったが、漠然と『本当の愛』の姿形を彼らに重ねて夢を見ていた。それと同時に羨ましく思う。


 八月十二日。

 博士が初めて愛を喪ってから、あと数日で七年の月日が経つ。

 シンシア・ヴェラ・スタイナーは、今年もそれを傍観する。

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