向日葵畑の愛を捥ぐ

雨森透

模倣

「逃げるための理由を手元に何も用意できなかったから、どうしようもない苦痛と立ち向かうしか選択肢がなくて、最後は潰えてしまう。偶然ですが、私もその一部だったのです。偶然で、それでいて必然でした」

 女は静かに笑んで、向日葵畑の真中で死んだ。愛していた人間に振り向いてもらえないのならばせめて、と心に傷跡を残すつもりで綺麗に死んだ。よくある夏の空、逞しい陽の花に凭れ掛かりながら横たわるその死体は、彫刻さながらであった。

 しかし、彼女の愛した人間は世間一般の言う「普通」には当てはまらない者だということを、彼女は失念していたのであろう。悲しみの念に打ちひしがれるどころか、女の死を利用して、人の複製を作るという倫理に障るような研究を進めている。

 詰めが甘い。私のオリジナルはそんな人間だった。『記録』を見返す限り、その言葉が一番見合う。



 シンシア・ヴェラ・スタイナー。死んだ彼女の名を、容姿を、彼女の一切を被って、私は生活をしている。表向きでは彼女は死んだことにはなっておらず、私はその存命の証明のために作られた存在であるらしい。

「博士、朝ですよ。ほら、今日はよく晴れていますよ」

 彼女の愛した人間――私を作った鬼才は、見た目は気弱そうな青年であった。しかし、やることは容赦なしで、そういう意味では研究者にとても向いていた。彼女の幼少期から最期までの膨大な記憶を、一体どのような手段を用いたのか、複製して私の脳内に埋め込んだ。おかげさまで、「紛うことなき本人」として完成した存在になってしまった。

 時々、最初から私がオリジナルだったのではないかと錯覚する。

「……眩しいのは結構だ、早くカーテンを閉めてくれ」

「そう仰られましても、規則正しい生活というのは、まず朝日を浴びて……」

「僕は規則正しい人間にはなれないし、君をただのロボットとして運用するつもりも、まったくない」

 せめて君は聞き分けのいい子でいてくれ、と言わんばかりの視線を向けられてしまったので、黙ってカーテンを閉じた。

 窓から見える庭では、今年も咲き誇る向日葵で一面埋め尽くされている。博士が花を嫌うことは滅多に無かったが、向日葵だけは例外であった。オリジナルの記憶を辿っても、彼女が死ぬ以前から好んではいなかったようだ。しかし、それでも彼は毎年種を植えている。嫌いならば止めてしまえばよいものを。

「日差しは眩しいから、どうにも苦手なんだ」

 朝日を浴びずとも大丈夫だと告げた彼は重だるそうに体を起こして、まだ若干はっきりとしない様子で、じっとこちらを見つめている。

「シンシア」

 懐かしむように、愛しむように目を細めている。今更そんな顔をするくらいなら、彼女が生きているうちに見せてやればよかったのに。

「全てが今更ですよ」

「君は紛れもなくシンシアだ」

 正確には彼女の模倣品であるが、シンシア以外の名称を貰ったことはないから仕方ない。

 可哀想な人。自覚した頃にはもう手遅れなのだ。彼の抱えるものに、恋だの愛だので言い表せる程度の美しさはない。紛れもなく、執着の他なかった。

「朝日など無くとも、君さえいれば、今はそれだけで」

 彼のそのような旨の陳腐な言葉を聞かされたのは、これで97回目だ。縋るようなその言葉に何と答えるべきなのか未だに分からず、気まずさから逃げるように視線を彷徨わせた。

「いえ、博士、私は……」

「……今だけは、何も言わないでくれ」

 彼はこちらに身を乗り出して、その両腕で想い人を模した人形を抱きしめる。すまない、と果たしてオリジナルに宛てられたのか私に対してのものなのかも分からない謝罪の言葉が、静かに鼓膜を揺らした。散っていく花びらを描いて、何処にもない光を目指すような、どうしようもない虚しさが満ちていく。

「……はい」


 去年の真夏に彼女が死んで、それから私が生み出されるまで、一年ほどの空白がある。オリジナルも模倣品も無い頃の『シンシア・ヴェラ・スタイナー』にとって、当時の記録の補填は不可能である。だが、彼が一年を経ても正気に戻ることなく模倣品を作り上げたという事実を、己の存在が静かに証明していた。

 ならばあの向日葵畑が証明するのは、彼の献身だろうか。今では向日葵の水やりも私の仕事の内であるが、やはり空白の当時は博士自らが種を植え水やりを行っていたのだろうか。


 彼は、本当は向日葵を大切に思っているのでは。


 不意に浮かんだ憶測を掻き消すように、自分にさえ誤魔化すように、小さく首を横に振った。そんなこと、今の彼にも私にもどうだっていいのだ。

 胴に回された彼の両腕に、更に力が込められる。骨と皮だけのような脆そうなそれは、ほんの少し、小さく震えていた。

 彼はきっと、まだ物語を終わらせたくないのだ。カーテンコールにはまだ早いと、その時が来るのを恐れている。少なくとも今の私には分かりかねないものだが、それでも彼が望むのならばと、その臆病ゆえの抱擁を甘んじて受け入れていた。



 執着のお陰で精巧に再現されている体は、表面こそ人間の柔肌のような手触りであるが、その奥に隠されているのは無骨な鋼鉄の塊だ。幾ら鬼才と言えど、人体の錬成は絵空事に過ぎなかった。本物の人間に見劣りしない体躯と、博士の手が加わったことで他のものより並外れた人間性を持つ人工知能。それが正体だ。

 今となっては、彼が求める優しさも愛も何も、すべてが数式とコマンドで成り立つ贋作そのものであるというのに、それでも構わないからと縋ってしまうのだから、感情というのはどうにも難儀だ。

「博士、買い物に行ってまいります」

「ああ。気をつけてね」

 冷静さと狂気は共存できる。彼は己の身を以て証明していた。そんなことにも慣れてしまって、はい、と静かに返事をし、彼の部屋のドアを閉める。いつも通りだ。

 寡黙というのが、彼の通常であった。今朝のあの詩的に語る様子は珍しい方だ。たとえ相手が想い人であろうが、その模倣品であろうが、彼は多くを語らない。世間一般では自分の感情について沈黙を貫く方が好ましいと、そう評されているでも思っているのだろうか。こちらとしては言葉にしてもらったほうがコミュニケーションがスムーズで助かるのだが、博士に求めるには些か高度なものかもしれないと随分前に諦めていた。


 白黒のツートンカラーを基調としたインテリアの群を通り抜けて玄関に向かい、やや重めの扉を開けて庭に出る。

 肌を焦がすような夏の昼の日差しは流石に眩しく、日傘を差しつつも目を細める。

 小高い丘にポツリと孤独に建つ一軒家が、博士の家であった。玄関から市中へと道が一筋伸びており、それ以外の地面は向日葵で埋め尽くされている。

 言うまでも無いが、博士は社交的でない。界隈によっては名高い学者であるが、世間的にはあまり知られていない。住宅街から少し離れたところに住んでいる、学者であるらしい男とそれに付き添う妻というのは、多くの人にとってイレギュラーたる存在であろう。

 ゆえに、なのだろうか。オリジナルのシンシアは、毎日丘を下りて近隣の商店街で買い物をしていた。そんな非効率なことを、と当時の彼の言葉に私は全くの同意であるが、彼女の習慣を含めて隅々まで模倣をする必要があるため、今も毎日買い物に出掛けている。


 はたと丘を下る足を止めた。昨夜思案していたことを思い出したのだ。人間らしくあるため、わざと不完全性を付与されているのはやりづらい。忘れっぽいのはオリジナル譲りだ。

 そのまま家へと戻り、家主の部屋に直行した。ノックを四回して、彼の返事を聞いてからドアを開ける。

「どうしたんだい、何か忘れ物でも?」

「博士の好きな色を聞いておこうと思いまして」

 何の心当たりもないため意図が掴めず、彼は疑問符を浮かべている。

「好きな色? 僕の?」

「はい。商店街に花屋ができたようで、折角なので一輪と思いまして」

 そうか、と呟く彼の声は、今日聞いたものの中で一際優しさを帯びていた。

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