02:多分それなりに普通の逃走劇
目の眩むような光景が、視界いっぱいに広がっていた。
たとえば、雲を貫く一面ガラス張りのオフィスビル。
たとえば、上に行くほどフロア面積が広がる逆三角形の高層マンション。
地区一つを丸ごと飲み込む巨大観戦ドーム。壁も床も天井も全てダイヤモンドのみで作られた超大型ショッピングモール。敷地内に街が形成されている学園都市ならぬ都市型学園。
挙句の果てには、頂上部で知恵の輪のようなオブジェが自律浮遊する、謎めいた電波塔すら当たり前のように屹立している。
見渡す限りの巨大建築物の群れ。天も地も覆い尽くすような圧倒的質量。
そんな大都市の光景を、褐色肌に白髪の少年は、上空六〇〇メートルからボンヤリ眺めていた。
なぜそんな高所にいるのか。理由は単純だった。
少年は宙を舞っていた。
より正確には、『ぶっ飛ばされている最中』だった。
「お、ぁ―――――――――」
危機的状況に陥った人間の脳は、無意識に己の記憶を反芻して、何か打開策がないかを探し出そうとするらしい。その過程が走馬灯になったり、反芻作業中の莫大な集中力が、時間を妙に長く感じさせる原因になるのだそうだ。
……で。
妙に引き延ばされた一瞬の中で、少年の脳はこんな結論を導き出していた。
―――ダメだこりゃ。どうにもならねえ。
そう直感した途端、時間の流れが急速に元に戻り始めた。
視界がブレる。世界が回っていく。本来の物理現象が一拍遅れて襲い掛かる。
後はもうどうしようもなかった。
少年の体は、再び彗星と化した。
「―――――――――ぁ、ぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
凄まじい勢いで回転しながら、少年はそのまま全面ガラス張りのオフィスビルに真っすぐ突っ込んでいった。と思った次の瞬間には反対側までぶち抜いていた。
それでも運動エネルギーを消化し切れず、さらに近くの雑居ビルにも突っ込んでいく。床と壁と天井をピンボールみたいに跳ねまくり、直線上にある棚もテーブルも何もかもを薙ぎ払い、ついに雑居ビルすら突き抜けた。
バァン!! と窓をぶち破いて放り出された先は、都市一番の大通り。片側五車線のだだっ広いメインストリートだった。
もう行く手を遮る物は何もない。
白髪の少年は、高度一〇〇メートル付近から道路へ落ちた。
「ばあっっっ!?」
乗り捨てられた自動車の上に墜落し、大音響と共に五〇メートルも真上にバウンドする。
その後も何度も地面を跳ね、信号機に跳ね返され、手足が千切れ飛ぶような勢いで横に縦に回転し、最後はザリザリザリィィィィイイイイイイイ!! と火花を散らす勢いで顔面をアスファルトに擦りつけながら、少年の体はようやく止まる。
そして……パタリと。
無人の車が散乱する大通りの上で、少年はうつ伏せに倒れたまま、本当に動かなくなった。
当然だった。建物を二棟も貫き、何百メートルも地面を転げ回れば、普通の人間なら身元不明の肉塊になって死んでいる。仮に五体満足でも『中身』は全てグチャグチャだろう。
万が一にも生きているはずがない。奇跡が起きる余地はない。
もはやそういうレベルの大惨事。
しかし。
「くっそ……だらああああああああああああああああああああああああああ!!」
嘘みたいに元気だった。
がばあ!! と力強く起き上がった少年は、己の体を心配する素振りもなく、何かから逃げるみたいに一目散に走り出す。
傷は無い。
肌はもちろん内臓にも。
それもまた当然だった。今の時代、『
まして少年は、『世界最大の魔力量』を持つ稀有な特異体質。
肉体の強靭さに関しては、正真正銘の世界一。
あと何度ぶっ飛ばされようが、何棟建物をぶち抜こうが、掠り傷一つ付きやしない。死ぬ事なんてもっとあり得ない。まさに世界最強の肉体だった。
とはいえ。
魔力が多いだけでは、何の意味もないのだが。
「クソ!! もう来た!!」
背後を振り向き、少年は叫ぶ。何をされても傷一つ付かないはずなのに、焦るみたいに逃げ足を速める。
……そもそも少年は、なぜ宙を舞っていたのか。
その『原因』がやって来た。
直後、都市全体を揺さぶる轟音が炸裂した。
少年の遥か後方で、いくつもの建築物がまとめて吹き飛んでいた。
――――――滑走路と見紛うほどの巨大な十字路。
その向こう側から現れたのは、全長二〇メートルの『怪物』だった。
二本の足で地面を踏み、その上に胴・腕・首・頭の順に並ぶ、構成要素だけを見れば非常に人間に近い全体像。
だが、実際の姿は人間とは似ても似つかない。
建物三、四階に匹敵するその巨躯は、驚異的に膨れ上がった筋肉と、青一色の体毛に覆われていた。肩口からは四本の腕が生え、それぞれの指先からは飛行機の翼のような爪が鋭く伸びる。それが振り回されるたびに、空気を引き裂くような甲高い音が響き渡る。
極めつけに、頭部は人間のものではなくヤギのそれ。
まさに絵本に出てくる悪魔そのもの。いっそ人間に似ているのが不思議なくらいの異形だった。
怪物の名は、『魔獣』。
先程少年を天高くぶっ飛ばした張本人が、今度こそ確実に獲物を仕留めようと襲い掛かる。
頑丈な素材で造られたはずの建築物を、体当たりだけで薙ぎ払い。
大量のガラス片と瓦礫の豪雨を、辺り一帯に撒き散らし。
方向転換だけでアスファルトを抉り返し、路上の車を一〇台単位で巻き上げ、あちこちに鉄塊の墓標を突き立てて。
最先端が詰め込まれた大都市を、木端微塵の地獄に作り替えながら。
『ゴォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』
「ひっ!?」
魔獣の咆哮だけで体が数センチ浮いた。……気がした。
遥か向こうから、進行方向の全てを薙ぎ払いながら悪魔が突っ込んでくる。
「ど、どうすんだこんなん!!」
どうしようもないから、逃げるしかなかったのだ。
しかし逃げたところでこの体格差だ。すぐに追いつかれてまた吹っ飛ばされるだけだろう。そもそも逃げていれば魔獣が諦めてくれるという保証はないし、むしろ逃げれば逃げるだけ街への被害は広がっていくばかり。
よりにもよってだ。
魔獣が出ようものなら即座に飛んで来るはずの魔獣討伐組織『
「最悪だ!!」
泣きたくなるような不運の連続だが、嘆いてばかりもいられない。
これ以上被害を広げないためには、自分が
けど、具体的にはどうやって?
周囲の人に助けを求める?
―――魔獣発生時のマニュアルに従って、皆とっくに避難している。
どこかに隠れてやり過ごす?
―――標的を見失って余計に暴れられたらコッチだって堪ったものじゃない。
いっそ対話でも試みるのはどうだろう?
―――ここ数十年の魔獣研究が、「魔獣との意思疎通は不可能」だとしっかり結論付けている。
なら、どうするのか。
答えは最初から分かり切っていた。
魔力は、多いだけでは意味を成さない。
その膨大な魔力を『魔法』に変換し、魔獣を倒さなければ何も解決しないのだ。
「クソ……っ!」
分かっていてなお、少年は心の中で首を横に振っていた。
―――使うわけにはいかない。魔法だけは絶対に。
使ったら最後、どうなってしまうのかは少年自身にも分からないのだ。一度だけだろうと、一秒だけだろうと、使った時点で『最悪』が起こり得る。そして起きたら
だからできない。魔法を使う事だけはどうしても。
今の少年には、街が壊される事を承知の上で逃げ回るしかない。
「クソ!!」
悔しいが仕方がなかった。結局それが一番被害を小さく抑えられるのだ。
他にできる事があるとすれば、壊されるものが少なくなるような逃走ルートを選ぶくらいか。
そんな考えが過った時だった。
ズン……ッ!!!!!! という激震が走った。
真下から突き上げるような衝撃に、少年の体が本当に浮いた。
「は、」
疑問の声すら上げられなかった。
視線の先、一〇〇メートルくらい前方の道路がいきなり真下から爆発した。
アスファルトを水飛沫のように舞い上げながら、地中から『何か』が勢い良く飛び出して来る。
デカい。とにかくデカい。
全長はおそらく三〇メートルを超えている。飛行船のように丸く膨れ上がった体は『
全身を覆う土気色の鋭い鱗、体の真下から伸びる八本の尻尾、そして不自然なほど牙が丸出しの長い口と、体のあちこちから生える数十本の巨大な水掻き。それはどちらかと言えば、子供がグチャグチャに落書きした『
その異形。その規格外。常識では説明できない異常の姿。
二体目の魔獣が現れた。
すでに魔獣に追われている少年を、真正面から挟み撃ちにする形で。
「う……そ、だろオイ!!」
絶望的な状況に、少年は思わず叫んでいた。
それに呼応したのかもしれなかった。
天高く飛び上がった魔獣が、長い口を六つに割って腹の底から絶叫する。
『ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!』
いっそ空気の爆発だった。その強烈過ぎる音圧に耐えかね、周囲数十メートルの建物の窓ガラスが一斉に吹き飛んでいく。
その時少年は、両耳を塞ぎ、頭上を見上げ、咄嗟に足を止めていた。
というか止まるしかなかった。逃げたところでどうにもならなかった。
ゴオッッッ!! と。三〇メートルを超える巨体が、空気を押しのけながら少年目掛けて落下してきたからだ。
『ゴォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』
背後からも絶叫が聞こえる。
悪魔のような魔獣が、邪魔な車を薙ぎ払いながら一直線に突っ込んで来ている音だった。
互いに示し合わせた……とかではないのだろう。魔獣同士がコミュニケーションを取るなんて聞いた事がない。
だからこれは、本当に単なる不運。
偶然街に二体の魔獣が現れ、偶然挟み撃ちにされたという、ただそれだけの事。
そんな理不尽な現実に、
「な、ぁ―――――――っ」
少年の頭はとっくにパンクしていた。
どれだけ攻撃されても、自分には傷一つ付かない―――そう理解していても、突如として目の前を覆う現実に思考が圧迫され、冷静な判断ができなくなっていた。
だからこそ、咄嗟にこんな事を考えてしまった。
一瞬、だけなら。
一瞬だけならまだ、
考えてしまったらもうダメだった。
思考のストッパーが壊れた隙を突くように、考えた事がそのまま行動に変わる。
……少年の体感時間が、またもや無限に引き延ばされた。
落ちてくる魔獣がゆっくりになる。背後の轟音が聞こえなくなる。その代わり、身体の奥深くで『得体の知れない何か』が大きく一回脈打つのが分かる。
少年の中に眠る『世界最大の魔力』。
どんな攻撃も跳ねのけるほどの圧倒的総量。
眠っていたそれが、強く震える。徐々に熱を帯びていく。噴火寸前のマグマのように力を蓄え、今にも全てを吹き飛ばしかねないほど膨れ上がっていく。
止めるものは何もなかった。
少年が自ら望み、己の意思で踏み越えた。
何もかもが手遅れだった。
目覚めた魔力が。燃え始めた力の塊が。
―――――――――――――爆ぜる。
「そっ! こっ! まっ!! でえええええええええええええええええええ!!」
魔力が本格的に活性化する直前だった。
どこからともなく大きな声が聞こえてきて、少年はハッと我に返る。
そして、次の瞬間。
ズドッ!!!!!! という爆音が炸裂した。
唐突に放たれた『赤黒い閃光』が、二体の魔獣を一気に消し飛ばした。
それは、少年の背後に迫る魔獣の、さらに背後から放たれていた。
さながらレーザービームのような一撃。
その『赤黒い閃光』は、恐ろしい速度と圧力で悪魔の上半身を吹き飛ばすと、少年の頭上を突き抜け、今にも彼を押し潰すところだった鰐の魔獣を一瞬で蒸発させる。そのまま数万メートルも空気を貫き、遠くの雲を真っ二つに引き裂き、残像を焼き付けながら萎むように消滅する。
衝撃波は、一拍遅れて発生した。
周囲の全てが巻き上げられた。
瓦礫も、ガラス片も、路上に乗り捨てられた自動車も。何もかもが宙を舞い、クラッカーみたいに四方八方に吹き飛んでいく。
当然、魔獣の近くにいた少年もだった。
「だっ、あぁ!?」
ぶあっ、と爆風に持ち上げられた時には全てが遅い。少年は、数十メートルもぶっ飛ばされていく。
で、浮いた体は最後まで立て直しが利かなかった。
少年は再び顔面から道路に突っ込んでいく。
「ぶぼァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
まさか日に二度も顔面を擦り削る羽目になるとは思わなかった。
車や瓦礫が次々落ちてくる中、少年はヨレヨレと地面に手をついて、
「こっ、の……クソ!! 何なんだ!?」
何なんだ!? とは言いつつも、本当はなんとなく状況を察していた。
今の『赤黒い閃光』……
ヒリヒリ痛む顔を押さえ、少年は立ち上がって振り返る。瞬間、下半身だけになった魔獣の死体が目の前にズドン!! と落ちてきて、喉が「ひゅっ」と締まる。
だが、それよりもっと大きな問題がやって来た。
濛々と立ち昇る、粉塵の向こうから。
「あっちゃー! 火力ミスった!? 壊し過ぎると怒られるのになーもー。……まあいいや! 弁償なんて数億くらいっしょどーせ!」
適当な事を言いながら現れたのは、一人の『少女』だった。
彼女は自分が殺した魔獣の下半身にヒョイっと飛び乗ると、少年を物理的に見下して、ツーン! と偉そうにふんぞり返る。
相手を挑発するような目つき。憎たらしく上がった口角。
肩まで伸びる赤みがかった髪に猫耳カチューシャを付けた少女は、両手を腰に当て、そこそこ質量のある胸を強調するみたいに腰を反り、
「こんだけ壊したら後はもう一緒ッスよね! どーせならドバーッと魔法使ってー、ズドーッて壊しまくってー、ストレス発散しちゃいましょーよ!」
そして。
この街では有名な、青を基調とした『魔法学園』の制服を身にまとう少女は、
「てことで、遊んでくれますよねー! 『フェグルス』せーんぱい!」
上から目線の笑みを浮かべながら、少年の名を呼んだ。
世界中に魔法教育が行き渡り、全人類が魔法を使えるようになった時代。
そして、魔獣と呼ばれる怪物が跳梁跋扈し、人類を襲い続ける時代。
そんな魔法時代の、比較的平和な日のお話。
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