憧れではない何か

 遡ること十分前。ルルフィもまた、目の前の風呂に心を躍らせていた――。


「わぁ……!」


 目の前に広がる熱気に一瞬の驚きがあったものの、それはすぐに心地よさへと変わった。


 自身の家よりも広い風呂間に開放感とほんの少しの居心地の悪さを感じながら、私は中へと足を踏み入れる。


「確か、体を洗ってから中に入るんだよね」


 アルから「体を洗う前に風呂に浸かるのは絶対ダメ!」と、風呂に入る前に再三忠告を受けた。


 なのでアルに言われた通り、まずは近くに置いてあった小さめの椅子に座って体を念入りに洗っておく。


 今のところ水で顔や体を洗っているだけで、ただの水浴びと変わらない。


 だがアルが言うに風呂の最大の魅力は「湯船に浸かる瞬間」にあるらしい。


 どういうことなのだろうか。


 若干の疑問と期待を抱きつつ、私は片足を目の前の温泉に浸ける。


「!」

 

 湯の熱が私の足を通じて身体の中へと浸透していく。


 熱は身体の中で溜まっていた疲労を溶かし、擦り切れた活力を蘇らせる。


「気持ちいい~」


 一見ただの温水なのに、全身の力が抜けるようなフワフワとした感覚に包まれる。


 ――よし、まずはお前からだ。


 壁を隔てた先から、アルの声が聞こえてくる。


 同時にあの子の鳴き声も聞こえてきたから、きっと仲良く風呂に入っているのだろう。


「……アル」


 ――俺はルルフィと一緒がいい。


「ッ!」


 駄目だ。アルのことを考えると、どうしてもあの言葉が脳裏に過ぎる。


 たった一度言われただけの、しかも深い意味はないと分かっているこの言葉に私の心は穏やかではいられなかった。


 それだけではない。


 今日、私はアルと同じ部屋で一夜を過ごすことになる。


 昨日は馬車の中だったし、旅の初日ということもあって疲れて深くは考えなかった。


 だが二日目ともなれば自然と旅にも慣れて、少しは心に余裕が生まれた。


 そのせいか、どうしても余分なことを考えてしまうのだ。


 余る手で髪を巻きながら、私の思考は深い沼へと嵌っていく。


 アルは私にとっての「憧れ」。


 この思いは初めて会った時からずっと変わっていない。


 カッコよくて、勇気があって、強くて、それでいて優しい。


 あの時、魔物を前に私はアルを見捨てて逃げ出した。


 そのことを知っても、アルは顔色一つ変えずに今まで通り接してくれた。


 その優しさが私には眩しかった。


 彼のように強くなりたいと思った。


 だからお願いして、彼の訓練に混ぜてもらった。


 一緒の時間を過ごすようになって、私の「憧れ」は益々大きくなっていった。


 だが、いつからだろうか。


 アルと一緒にいると、言葉にし難い感情が湧き上がってくるようになった。

 

 側にいたいけど、何だか側にい辛くて。


 ずっと見ていたいけれど、つい目を逸らしてしまう。


 この感情は私が今まで感じてきた「憧れ」ではない。


 これは、この感情は、おそらく……。


 ――きゃあああああ!!!


「! 何!?」


 声がしたのはすぐ隣。つまり、アルがいる方の風呂だ。

『――もしかして、アルに何かあったのかも!』

 

 私の意志を身体が感じ取ったのか、私は瞬時に風呂を出て外に飛び出し、隣の男湯へと向かった。

 

 大急ぎで脱衣所を通り抜け、風呂の扉に手を掛ける。


「アル、どうしたの!?」


 扉の先にはアルの姿があった。体に異常は見られないことから、命の危機がある訳ではないことは理解した。


 だが。


「…………」


『アルと睨み合っている、あの女の子は一体……』


 そこから先は、完全に頭が真っ白になった。


   * * * 

 

「どうしてこうなったんだ」


 俺はさっきまで十年ぶりとなる風呂を堪能していたはずだった。


 だが今は俺とルルフィ、それに謎の女の子の三人で床に座り込んでいるという意味不明な状況に見舞われている。


 とりあえず、二人にはこっそりバスタオルを生成して渡しておいた。


 本当は外で話をしたいのだが、男湯から二人も女の子が出てくるのは明らかにおかしい。


 「今日はもう風呂に入りに来る客はいない」という宿主の言葉を信じ、こうしてこの場で話し合いをすることにした。


「えぇと、何でルルフィは男湯に来てるんだ?」


 まずは一番手っ取り早い問題から解決を図る。


「それは、アルの悲鳴が聞こえてきて……何かあったんじゃないかって思って」


「あぁ……、それは悪かった。余計な心配をかけて」


 こればっかりは仕方ない。流石に目の前で犬、もとい狼が女の子に化けて堂々としていられるほど俺の肝は据わっていない。


「だとしても、勝手に男湯には入って来るなよ。誰かに見られたらどうするつもりだったんだよ」


「ごめんなさい……」


「いや、俺を心配してのことだしな。これ以上は何も言わないよ」


 取り敢えず、ルルフィの方はこれで一旦置いておこう。


「問題は……」


 俺とルルフィの視線はもう一人へと注がれる。


「えっと、あなたは?」


 そう訊ねるルルフィの声がどこか震えているような気がするだが、気のせいだろうか。


「こいつは昨日拾ってきたい」


 ぬ、と言おうとしたところで口を止めた。


「……狼らしい」


 今回はちゃんと狼と言った。だから、その野性味溢れる眼光を向けてくるのは止めてくれ。


「そうか、この子獣人だったんだ……」


 獣人。読んで字の如く獣の人。


 そういった種族もこの世界に存在しているのか。


 意外だったのは、俺だけでなくルルフィも同じように驚いていることだ。


「ルルフィ、どうかしたのか?」


 気になって声を掛けると、ルルフィは不可解そうな表情を浮かべていた。


「獣人が動物の姿になるなんて話は聞いたことがなかったから、ちょっと驚いて……」


「そうなのか?」


 獣人なんだから、てっきり人にも獣にもなれるものかと思ったのだが。


「姿を変えることが出来るのは、多分私だけです。お父さんがそう言ってましたから」


「お父さん?」


「私は獣人と狼の間に生まれた混種なんです。だから獣人と狼、どっちの姿にもなれるんだってお父さんは言ってました」


「そうなんだ……。そういうこともあるんだね」


 物事にある程度詳しいルルフィが知らないってことは、彼女はこの世界においてイレギュラーな存在なのだろう。


「それで、俺達についてきた理由は? 勝手に離れたらお父さんも心配するだろ?」


「お父さんもお母さんも、もう死んでます」


 その瞬間、場の空気が一瞬で凍り付いた。


「え……っと、それって…………」


 ルルフィは女の子の唐突な言葉に声を失っている。

 

 俺もどう話を進めたらいいのか分からないでいると、女の子は淡々と自分の口から話し始めた。


「お父さんは七年前に病気で、お母さんは五年前に狩りに出て死にました」


「なので、もういません」


 まるで他人事の様に話す女の子。


 彼女の言葉を聞いて、俺は拭いきれない違和感を感じていた。


「……なぁ。お父さんとお母さん、どっちが狼だ?」


『頼む。杞憂であってくれ』


「お母さんです」


 そう思う俺の気持ちとは裏腹に、女の子の口からは出た言葉は俺の違和感、その正体を明らかにした。


 五年前、狩り、狼、赤毛。


 これらは全て、忘れもしないの出来事に繋がっていく。


「?」


 女の子は不思議そうな顔をして俺を見てくる。


「……お前のお母さんを殺したの、俺だ」


 罪の意識に耐えきれなくなり、俺の口からその一言が零れ出した。

 

 

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