化物と女の子に出会った

 岩のさらに奥、木々の隙間から全長三メートルは優に超える赤毛の巨体が姿を覗かせる。


 目に光はなく、口からは荒々しい息と涎を気に留めることなく吐き出している。


 俺は咄嗟に動きを止めた。この場合、動けなかったという方が正しいのか。


 幸いこちらに気づいていないのか、謎の化物はそのまま素通りして木々の間に消えていった。


「あ、あっぶねぇ……!」

 

 見た目からしてどう考えてもやばかった。熊とか虎とかなら凶暴さの中にある種の親しみを感じるのだが、奴にはそれが一切なかった。純度百パーセントの恐怖だ。

 

『早く、ここから離れた方がいい』


 いつさっきの化物が戻ってくるか分からない。が、いまならアイツのいる方角が分かっている。時間を掛けすぎてバッティングしたりしない内に、急いで森から抜け出すのが賢明だと本能が語りかけてくる。


 ――きゃあああ!!!


「!」


 森中に響き渡る悲鳴。その鳴り処は、やはり化物が向かった方角だった。


『誰かが、襲われてる』

 

 この時、俺は確信した。


 俺はバカだ。 


 既に一度、何も考えずに突っ走って意味のないエゴを振り回し、本来一つしかない命を落としたというのに。


 それを一度は後悔したというのに。


 折角与えられた二度目の生命いのちを、またも投げ出そうとしているのだから。

 

 自然の障害物を反射で躱しながら、全速力で声のした方へと向かう。


 化物を目撃してから悲鳴が聞こえるまでに二分もかからなかった。となれば、まだ近くにいるはずだ。


 不安定な足場に体力を取られつつ巨木の根を三つほど跨ぐと、開けた場所へ出てきた。


 中央にある大樹の根元には声の主であろう女の子が化物に睨まれ、座り込んで動けなくなっている。


 一歩、二歩、三歩。


 徐々に距離を詰める化物。その眼差しは標的が少しでも動こうものなら全力で狩り伏せると言わんばかりに見開いている。


風球リーセ!」

 

 その一声で掌から風の球体を生成し、声に反応した化物へと叩きつける。球体が化物の皮膚に触れた瞬間、中に閉じ込められていた風が衝撃となってビリヤードのように弾き飛ばした。


 化物は首を一振りした後、すぐに俺の方を向いて感情任せに声を上げた。

 

 グルァァァァァ!!!

 

 森中に響き渡る咆哮。その迫力には、木々に止まる野鳥たちも一目散に飛び去って行く。


 グルッ、グラァ!

 

 化物の大きく開かれた口から灼熱が姿を覗かせ、見る見るうちに口内を埋め尽くしていく。


 溢れた炎は一点に集められ、あっという間に巨大火球が完成した。


 狙いは間違いなく俺。だが、こうなることはわかっていた。


 化物が打とうとしている火球は、当然俺の目にも入っている。


 ならそれを見たまま、に出せばいい。

 

「そっくりそのまま返してやる!」


 記憶をベースにし、体内の魔力を使って化物アイツの技をこの手で完全再現する。


 全く同じ大きさの火球が場にもう一つ生み出され、それらはほぼ同時に持ち主の手から放たれた。


 火球は空中でぶつかり合い、混じり合い、最後は一つになって爆発した。


 爆風は木の葉を散らし、幹を揺らす。


 怯む俺を他所に化物はすぐさま体勢を立て直し、風を切るように全速力で向かってくる。


 奇襲で作り出した間合いはものの三秒で潰され、化物の前足がこちらへ踏み込んでくる。


 これ程距離を詰められては、回避しようにもアイツのリーチからは抜け出せないだろう。だがそれでいい。


 元より回避出来るなんて微塵も思っていない。


 俺は地面に手をつき、ありったけの魔力を注ぎ込む。俺の魔力は大地に流れる魔力を伝って化物の足元に到達する。


 化物は王手と言わんばかりにもう片方の前足を振り上げ、俺の身体を八つ裂きにしようと迫る。

 

「今!」

 

 流した魔力を全て風に変換し、化物の腹へ思いっきりぶつける。奴の鋭爪が頭を掠るが、それより下へは決して届かせない。


 打ち上げられた巨体は遥か上空を舞い、自由を失う。如何に暴れようと口を開こうと、その全てが虚空に溶けて消えていく。


 俺は風の剣を創り出し、空の彼方へその矛を向ける。


「いっけぇぇぇ!!!」

 

 振り下ろした剣から生まれた風刃は空中で化物と交わり、その身体を真っ二つに斬り裂いた。


 体の中のありとあらゆる物を撒き散らし、零しながら息絶えた化物の亡骸が落ちてくる。


 気持ち悪いとか怖いとか、そういった感情は一切湧かなかった。ただ「勝った」という実感だけが胸の中で確かに存在していた。


 手も足も震えが止まらない。現実と夢の境目が曖昧になるのを感じる。


「あ、あの!」


 いつの間にか、化物に襲われていた女の子が戻ってきていた。見たところ襲われたような痕はない。それを見て俺は胸を撫で下ろした。


「助けてくれてありがとう!」


 その一言で俺の思考は現実へと帰ってきた。


 女の子は涙目になりながら、しかしこちらの目を見て感謝の言葉を述べる。


 彼女を見ていると前世の失敗が脳裏に蘇る。あの小学生も、丁度この子と同じくらいの年だった。


 あの時生きていたら、この言葉を聞けたのかと思うと今になって悔しさが溢れ出す。


 だがそれ以上に、生きて彼女を救えたことがこの上なく嬉しかった。


   * * *


 もうダメだ。


 自然と頭の中でそう思った。


 足音が段々こっちへ近づいてくるのを、私は目を閉じてじっと待つことしか出来なかった。


 けど、自分が迎えるその最期を受け入れたくはなかった。だから目の前の恐怖からひたすら目を逸らし、身を縮めて来るはずもない誰かの助けを待った。


『誰か……』


 存在しないはずの相手へ私はひたすら祈り続けた。


 足音がすぐそこまで迫り、いよいよ目を逸らすことが出来なくなったその時、誰かが颯爽と姿を現した。


「リーセ!」


 その一声と共に聞こえた破裂音が化物の足音をかき消した。


 恐る恐る目を開くとさっきまで目の前にいた化物が遠くまで下がり、私から目を逸らしている。


 釣られて私も化物が見ている方へと振り向く。


 そこに立っているのは騎士でも英雄でも神でもない、たった一人の男の子だった。自分よりも幼いであろうその子が、私を助けてくれたのだ。


 だがその事を理解した時にはもう、私は一目散にその場から逃げ出していた。せっかく私を助けてくれた男の子を、体のいい餌にして。


 ――ダメだ。それだけはしちゃいけない。


 わたしは、もう一度あの場に戻る決心をした。


 すぐに男の子の元へ戻ると、今まさに魔物がその爪を突き立てようと襲いかかっていた。

 

 ――どうしよう、どうしようどうしよう!

 

 必死に考えるが、何も出来ない。何もしてあげられない。


 自分の無力さを前に膝をついて、彼が襲われるのをただ見ることしか出来なかった。


 魔物の爪が男の子の体を抉る直前、強風が私の視界を奪った。


 何が起きたのかすぐに目を開くと、男の子は無事だったが魔物の姿が消えていた。周囲を見渡しても、その巨体は影も形もない。


 直後、魔物の叫び声が耳へと入ってくる。その方角は右でも左でもない、真上である。


 まさかと思い空を見上げると、青空を背に魔物の姿がはっきりと映し出されていた。


 驚きのあまり咄嗟に男の子の方を振り向くと、彼もまた空を見上げていた。先程と違うのはその手に一本の剣が握られていること。


 彼は剣を天に掲げ、空を切る。その一刀は巨大な風の刃を生み出し、あっという間に魔物を倒してしまった。

 

 一人でも魔物を倒す強さ。


 物怖じしない心と冷静さ。


 それに、見ず知らずの他人を助けようと驚異に立ち向かう勇気。


 私には、彼が御伽噺に出てくるどの英雄よりも輝いて見えた。



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