第1話
第1話
「…や!…うや!蒼也ったら!!」
名前を呼ばれグラグラと体を揺すられる。
冒険していた頃は野営ばかりだったし、宿屋にいても油断ならなかった。領主になってからは考え事をすることも多く、こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだ。
「こんなところで昼寝して!てゆーか、始業式の後ゲーセン行こうぜって言ったの蒼也でしょ!」
見覚えのある廃教会のベンチに横たわっていた蒼也は女神の言うとおり元の世界に帰ってきたらしい。
目を開けるとこれまた見知った顔が眉を釣り上げている。
「紅音…か?」
「そうですけど?!」
いかにも怒っています!といった顔で叫ぶのは二宮紅音である。中学から入った水泳部のおかげですっかり赤茶色になったボブカットが特徴の宍戸蒼也の幼馴染である。彼女とは幼稚園からの幼馴染で親同士の仲も良く家も近所なため、もう1人の親友と合わせて何かと一緒になることの多い所謂腐れ縁であった。
「おばさんがそろそろ夕飯だから呼んできてって頼まれたの。多分ここにいるだろうからって。」
「母さんが…。ありがと、紅音。」
忘れもしない高校2年が始まる春休み開けの始業式の日。始業式が終わり紅音と親友とゲーセンに行く約束をして別れ、一旦帰宅する前に蒼也のお気に入りスポットであったこの廃教会で休憩しようとベンチに寝転びうつらうつらと目を閉じた。そして次に目を開けたらあの、蒼也からしたら忌々しい女神の前にいたのだ。そこから始まった怒涛の日々。大変なことも多かったが、それ以上に得たものも多かった。
とはいえ、久しぶりに幼馴染に会えたことは喜ばしい。何かと口うるさく、当時はよく口喧嘩もしていたが、兄妹のような距離で育ったこともあり、それなりに大切な存在でもあるのだ。
「…蒼也、なんか変。」
「なにが。」
「なんとなく?」
蒼也からしたらもう会うことのないと思っていた人物との数年越しの再会だが、当の紅音からしたら数時間前にあったばかりである。抱きついて頭をこねくり回したい衝動に駆られながらも、いかにも何でもありませんよ、という顔をしている蒼也だが、幼馴染様からしたら違和感を生じるものであったらしい。
よっ!と声を上げながらベンチから立ち上がる。
「そんで、ゲーセンは?」
「もう日暮れるっての。黄太がゲーセンは今度って。伝言!」
黄太は蒼也の親友である。中学からの付き合いだが紅音ともそれなりに仲良い。
黄太からの伝言を伝え満足したのか、紅音はパタパタと廃教会から出ていく。蒼也ものっそりとついて外に出れば、異世界とは何ら変わらない空が真っ赤に焼けていた。
外に止めてあった自転車に跨って紅音は振り向く。
「じゃ、私お母さんからお使い頼まれてるから!蒼也も真っ直ぐ帰んなさいよ!また明日ー!」
蒼也が返事をする前に紅音はチリンと音を立てて自転車を漕いでいく。
蒼也も大人しく帰路につくことにした。
廃教会からゆっくり歩いて20分。住宅街の中の一軒家。建売で同じような形の家が並ぶ中の1つに宍戸家は存在した。自分の中では数年前、全く変わらぬ我が家に本当に帰ってきたのだと改めて実感する。
春とはいえ夕方はまだ肌寒い。というのに歩いた疲れとともに蒼也の額にはじんわり汗が浮かんでいた。異世界にいた頃は女神から押し付けられた勇者のスキルと鍛錬のお陰で大剣を振り回しても涼しい顔をしていられたのだが、こちらに帰ってきて体も成人から高校2年の少年のものに戻り、体力も一般高校生のものに戻っていた。何とも悲しいものである。
「…ただいま。」
もう帰ることのないと思っていた実家のドアを開ける。見慣れた玄関には蒼也の学校以外の時に履くスニーカーと母のものであろうパンプスが置いてある。制服に合わせて履いているローファーを脱ぎ、家の中に入ると、異世界では嗅ぐことのなかった日本風のかレーの匂いと懐かしい母の後ろ姿が見えた。
「かあ、さん。」
「あ、蒼也。おかえりなさい。アンタ、紅音ちゃん達との約束ほっぽいたんだって?どうせまたあの廃教会に行ってたんでしょう。紅音ちゃんにちゃんと謝りなさいよ。ご飯できちゃうから、制服着替えてきなさい。」
体感数年ぶりに再会した母はいつものように蒼也にそうまくし立て、夕食であろうカレーライスの仕上げに取り掛かる。父はまだ仕事から帰ってないようだが、一生会えないであろうことがずっと気がかりであった親にもう一度会え、思わず涙が出そうだが、学校に行って帰ってきただけだと思われているためそうもいかぬと、グッと涙をこらえて自室へ向かう。
最後に見た時と何ら変わらない自室。小学生の頃から使っている勉強机にベッド。勉強があまり好きではなく成績も平均少し下であった蒼也の部屋の本棚には少年漫画とほんの少しだけライトノベル。必要最小限の教科書が並べてある。異世界の自室の本棚には領地経営のための書物や勇者時代にお世話になった魔物討伐のための図鑑、妻オススメの小説が少々並べてあったのを思い出してほんの少しだけ笑みがこぼれた。
制服を脱ぎ捨て、スウェットを着る。これも異世界にはなかったものだ。ぼふりとシングルベッドに倒れ込んだ。
「…リリ。」
気がかりなのは異世界に残してきた妻のリリアナのこと。翌朝気がついたら隣で寝ていたはずの夫がいなくなれば彼女や屋敷の使用人達は大慌てだろう。女神のせいとはいえ悪いことをしてしまったと思う。同時に、何としてでも異世界に帰らなければ、と蒼也は思う。母や幼馴染に会えて嬉しかった。父や親友にも会っておきたいし、久しぶりに見たい顔や行きたい場所がないわけではない。旅行を兼ねての里帰りであれば喜ばしいことだが、異世界に放り込まれて、用が済んだからと元の場所に放り出されたようなものである。
蒼也の今の居場所はあの異世界なのだ。
ムクッと起き上がり頬をバシッと叩く。くよくよしていても仕方がない、とりあえず妻とコンタクトを取ること、それが現時点の蒼也の目標である。
リビングから母の呼ぶ声が聞こえ、返事をしつつ蒼也は自室を出た。
リビングに入れば母の顔、そして懐かしい日本料理、それも母の手作りカレーライスである。
「うわぁ、カレーだ。」
「そんなにカレー好きだったっけ?」
ごく普通のカレーライスに破顔する息子を見て、母は不思議そうに首を傾げる。
「あ、いや、カレー久しぶりだったから。」
「そうだったかしら。まあいいけど。」
付け合せのサラダを配膳しながら母はまたしても首を傾げている。
蒼也からしたらもう食べられないと思っていたこちらの世界の味、母親の味である。感動で泣きそうだ。年を取ると涙腺が緩くなって困る。
早速手を合わせて食べようとしている蒼也だが、母は残りの料理の配膳に台所の片付けにとまだまだ忙しそうである。バタバタと走り回る母に「後手伝うから、先に食べたら?」と問いかけ「それもそうね。」と席につこうとした彼女だが、リビングに置いてある固定電話がリリリと鳴り、それは叶わなかった。
「はい。宍戸です。」
異世界の料理の嫌いではなかったが、故郷の味、母の味はまた別格であるな、と蒼也は思う。母のカレーライスは市販のルーにじゃがいも人参玉ねぎ豚肉が具で白米にとろりとかかっている、所謂普通のカレーライスであるが異世界じゃどう頑張っても再現できなかったのだ。今度作り方でも教わっておこうか、と口いっぱいに頬張りながら思う。
「え!そんな…。分かった、蒼也にも聞いてみるわ。うん。また連絡する。」
険しい顔で話す母が受話器を置くのと同時に問いかける。
「紅音ちゃん、まだ帰ってないみたいなの。電話も繋がらないみたいで。蒼也何か聞いてない?」
「いや、お使い頼まれてるってだけ。自転車だったし、そんなに遅くなるはずないと思うけど。」
蒼也と別れてから3時間は経っている。お使いに行ったであろうスーパーは自転車で紅音の家から片道10分ほどだ。買い物する時間を入れてもそうかからないはずだ。そもそも紅音は帰りが暗くなりそうな時は家に連絡を入れるタイプで、電話が繋がらないなんてことは学校以外ではそうない。
「どうしちゃったのかしら、紅音ちゃん。心配だわ。」
同じことを知っている蒼也の母は心配そうに顔を歪ませるし、電話をしてきた紅音の母も変に思ったからわざわざ宍戸家に連絡したのだろう。
「母さん、ちょっと俺、紅音のこと探してくるわ。」
「え、ちょっと蒼也?!探すって言ったってどこ探すのよ?!」
「ちょっとこの辺り。なんかあったら連絡するから。」
片手にスマホを掲げ、私服用のスニーカーを履く。「蒼也?!」という声が聞こえる。母には悪いが聞こえないフリだ。
勇者の勘が何やら嫌な予感がすると、そう言っているのだ。
現実世界勇者〜異世界から帰還しても勇者は聞いてない〜 みみみ @komeko4290
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