第19話 犠牲者

 しかし、目を瞑っても瞼の裏に焼き付いた残像が離れない。全身の皮膚が黒く爛れた人。実験台の上で拘束された人。どの写真も苦痛の表情で満ちていた。

 ──頭の中で雑音がする。キーン、という甲高い耳鳴りと、ゴオォォォ、という風のような音。次第に音は勢いを増していき、僕は堪えきれずにその場にしゃがみこんで頭を抱えた。そして、そのノイズはやがて人々の苦痛の叫びとなり、僕の脳内を支配した。この場所で犠牲になった者たちの苦痛が、土石流のように一気に僕の体になだれ込んでくるような耐え難い感覚だ。怒り、悲しみ、苦しみ、痛み、犠牲者の全ての感情がまるで自分のものかのように感じられ、心が激しくかき乱される。そして永遠にそれが続くのではないかという恐怖が僕を襲う。

 呼吸は浅くなり、視界がちらついて、頭の中心が冷えていく。徐々に手足の力がなくなり、しゃがみこむようにしていた体勢すら維持できなくなってぐらりと体が傾いた。その勢いで頭が床にたたきつけられそうになるのを、自分の右腕を下敷きにしてなんとか回避する。その瞬間に左足のつま先が木製の椅子にぶつかって、がらんごろんと音を立てて転がる。

 その音の余韻が空間にまだ残っている間に、研究室のドアが開かれる。ドアの前で待機していた護衛が確認の為に部屋に入ってきたのだ。

「ひ、日ノ山さん?!大丈夫ですか!す、すぐに業さんに知らせてきますので少し待っていてください!」

 そう言い残すと、大慌てで研究室から出ていった。どうやら向かいの研究室で捜査をしている業さんのもとへ助けを呼びに行ってくれたようだ。

 廊下から二人分の足跡が聞こえてくる。護衛が業さんを連れて部屋に戻ってくるまで、ほんの数秒だった。

 業さんは一瞬だけ動揺したような表情を見せたが、すぐに精悍な顔つきに戻り、横たわる僕の脇を抱えて上体を起こして自らの膝に僕をもたれかからせた。

「祐希君、大丈夫かい?何があったのか話せるかい?すまない、僕の判断ミスだ。護衛を付けていたとはいえ、一人にさせるんじゃなかったね。怖かったろう」

 制服越しに伝わる業さんの体温が僕のひりついた心を鎮めていく。真っ暗になりかけていた視界も徐々に色を取り戻し、体にも少しだけ力が入るようになった。僕は重たい腕を持ち上げて机の上に置いてある赤いファイルを指さした。

 まだ少しぼやける視界に、護衛の一人が業さんにファイルを手渡すのが映った。業さんはそれを受け取ると、僕を支えたまま片手でファイルを確認する。写真に写っている人を見たのだろう。業さんの表情が明らかに曇る。

 業さんにもたれかかって休んでいるうちに、あれだけ強く感じていた恐怖感はどこかに消え失せ、その代わりに我慢できない程の眠気がやってきた。業さんが何か僕に話しかけているのが聞こえたが、瞼を開いておくことができずに、そのままゆっくりと目を閉じた。



 気が付くと側には碌君がいた。凝り固まった体をゆっくり起こす。頭が少し痛かったが、それ以外は何ともなかった。

 ふと手に硬い布のようなものが触れる。見れば、それは善盈団の制服のジャケットだった。枕替わりにする為にぐるぐるに丸められていて、僅かに甘いムスクのような香りがした。

「あ!良かったあ、目が覚めたね。体調はどう?」

 目覚めた僕に気が付いた碌君が心配そうな表情で問いかける。

「うん……。大丈夫そう。急に倒れてごめんね。業さんは?」

「業さんなら隣の部屋にいるよ。呼んでくるね」

 そう言うと扉を出てすぐ右の研究室へと消えていった。

 ──そうだ。さっき見つけた赤いファイルを見ていたら、急に目眩がして倒れたんだ。そういえば、前にも一度同じような症状が出たことがある。あれは確か桜田さん一家が殺害された日、つまり空に会った時だ。あの時も同じように耳鳴りがして立っていられないほどの目眩に襲われた。人間の強い念のようなものを感じとった時、それによる精神的ダメージの許容範囲を超えると起こる発作のようなものだ。これが僕のアビリティだと罰さんは言っていたけれど、一体こんなものが何に役立つのだろうか。

 きっと、業さんや他の皆ならこんなことぐらいで倒れたりしないのだろうな、などと一人静かに自分の不甲斐なさを嘆いていると、碌君が業さんを連れて戻ってきた。

 業さんは部屋に入るなり足早でこちらへ駆け寄ると、僕が寝かされていた長椅子に腰かけるのと同時に口を開いた。

「祐希君、体調はどう?しんどかったらまだ横になってていいからね」

「すみません。もう大丈夫です。ほんとに、ご迷惑をおかけしました……」

 椅子から立ち上がって頭を下げようとしたが、足元がまだおぼつかないせいでふらりと体がよろけた。そのまま前に倒れそうになったが、業さんの見かけによらずしっかりとした腕が僕の体を支えた。両脇を抱えられてそのまま椅子に戻される。

「本当に大丈夫?熱でもあるんじゃないかい?」

 そう言って僕の前髪を指で後ろへ梳いて、もう片方の手で額に触れる。ひんやりとした手のひらが心地良い。

「やっぱり熱っぽいね。無理せずにもう少し休んでいた方がいいよ」

 ──自分の両親が業さんのように優しい人間だったならば、幼い頃に沢山こんな経験をしたのだろうか。ふとそんな考えがよぎって胸が締め付けられる。こんな風に優しくされた記憶なんて一つもなかった。

「僕の分の護衛も付けておくから安心して休んで。僕と碌君は捜査に戻るけど、何かあったら僕に連絡するように言っておくから」

 業さんは自分の護衛に僕の側に居るようにと伝えてから捜査へ戻った。碌君も、まだ調べていない研究室へと向かった。

 護衛の一人が扉の外に、もう一人が扉の内に配置され、こんな厳重な警戒態勢のひりつく空気の中でおちおちと寝ていられるか、と内心思った。だがそれ以上に、自分だけがまるで役に立っていないことが悔しかった。ここへ来てから皆に迷惑をかけっぱなしだ。ようやく手がかりになりそうなものを見つけたと思ったらこの有様だ。僕はいつも誰の役にも立てないし必要とされない。昔、僕を必要としてくれた唯一の友も今はもう遠い存在だ。それどころか、対立する存在になってしまった。

 ふとした瞬間に、底のない暗い感情に心を支配されそうになる。そして悲しいことに、それは思い込みではなく事実なのだ。幼い頃から嫌という程痛感している。こんなことなら始めからいない方がましだ。なぜ僕は生まれてきてしまったんだ。この世が地獄と分かっていながらなぜ僕は生まれてきたんだ。もういっそ──。

 ──駄目だ駄目だ、こんなことでは駄目だ。一人でいると良くないことを想像してしまう。次々と湧き上がるネガティブを振り払うように、僕はブンブンと頭を横に振った。

 とにかく今は何も考えずに休もう。今こんな状態で皆の所へ戻っても余計に迷惑をかけるだけだ。まずは体調を回復させることを最優先に考えよう。そう思いなおしてもう一度横になる。

「あ、ジャケット返すの忘れてた……」

 枕替わりのジャケットから甘いムスクの香りが漂ってきて思い出した。さっき業さんが来た時、上に着ていたのはシャツとベストだけだった。だからこのジャケットはきっと業さんのものだ。返そうと思っていたのにすっかり忘れていた。目が覚めて皆と合流したら返そう。そんな事を考えているうちに、だんだんと意識が微睡み、そのまま眠りに落ちた。

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