第8話 帰還
——優しい歌が聴こえる。真っ白な空間に、痛みのない優しい声だけが響いている。それと、脈拍のように一定のリズムで体が揺れる感覚。全てが心地いい。このままずっとこうしていたい。
『——祐希君』
誰だろう。僕を呼んでる。男の人の声だ。
『祐希君、起きて』
真っ白な世界に現れた裂け目から、誰かの影がこちらを覗いている。さっきとはうってかわって、規則性のないリズムで体を揺さぶられる。
「ん……」
「よかった、目が覚めたね」
今まで聴こえていた心地よい子守唄はもう聴こえなくなっていた。代わりに目の前で安堵の表情を浮かべる男の人の声が聞こえた。
「あれ……僕はどうして……」
ぼやけて霞む視界を振り払うように両の瞼を擦って、声のする方をもう一度見た。
「
「今朝の殺人事件の現場付近で急に倒れたって。罰さんが医務室まで運んできてくれたんだよ。アメリアさんにも一応診てもらったんだけど、特に異常はないみたい」
——そうだ。あの時公園に向かう道で空に会って、それで急に目の前が暗くなって……。
僕が寝ているベッドの両端には見知った顔があった。右側には僕を心配そうに見つめる業さんがいた。業さんは、僕が一年前に善盈団に入団した時から面倒を見てくれている頼りがいのある優しい先輩だ。ベッドの左側には、医務班班長のアメリアさんが座っていた。落ち着き払った表情で静かに椅子に腰かけているだけなのに何故か様になる不思議な人だ。そういえば、さっき聴こえていた子守唄の声の主はアメリアさんだろうか。
僕はしっかり状況を整理しようと、重たい上体を少しだけ起こして辺りを見回した。
「ここは……善盈団本部ですか?」
見たことがない広い病室のような場所だ。壁や天井は真っ白で、床は大理石でできているように見える。白い壁の邪魔にならないように白で統一された窓枠には二重窓がはめ込まれていた。防音のためだろうか。
「そうだよ。本部の医務室さ。中に入るのは初めてだったかな?」
「はい……あの、なんだかご迷惑をおかけしたみたいで……」
「ううん。罰さんから連絡があった時は驚いたけど、祐希君が無事でよかったよ。ね、アメリアさん」
業さんに同意を求められたアメリアさんは、すました顔のままで僕にグッと近づいた。
「ええ、無事でよかった。それに、あなたのこと初めて診察できて嬉しかったわ」
少し青みがかった赤い口紅を塗った唇で僕にそう囁くと、感情の読めないアルカイックスマイルを作った。一気に距離を詰められたので思わずドキッとしてしまった。
「あ、ありがとうございます……」
恥ずかしくてむやみに話すと言葉に詰まりそうだったので、取り敢えずなんの飾り気もないただの感謝の言葉だけを伝えた。
「楽になるまで休んでていいからね。罰さんには僕から伝えておくよ」
そう言ってにこっと僕に微笑みかけると、業さんはそのまま医務室から出ていってしまった。
——正直、アメリアさんと二人きりは気まずい。ハイレベルな医療術を使えるすごい人だということは知っているけれど、何を考えているのか分からないし、そもそも女性に対する耐性が悲惨なくらいない僕には辛いものがある。業さん、いつもはすごく気がつくし優しいんだけどこういうときだけは気が回らないというか、なんというか……。
「あなた、変わった力があるのね」
「はっ、はい?」
突然話を振られたせいで、声が裏返って変な返事をしてしまった。
「強い念が込められた物や場所の記憶を視ることができる。どう?違うかしら」
普通なら何を言ってるのか分からないとなるのだろうが、僕には心当たりがあった。
「何で、そのこと……」
「わたくしには分かるわ」
意味ありげにそう言うと、白くて長い指でサイドテーブルに置かれていたカルテをなぞって、しばらくそのまま黙読してから口を開いた。
「あなたのアビリティは、過去の残影を見ることができるものね。いわく付きの場所で嫌な気配を感じる人はよくいるけど、それよりも遥かに強力で精度も高いみたいね。素晴らしいわ。感じるのは映像だけかしら。音はどう?感触は?」
落ち着いた表情と口調はそのままで急に口数が増えたかと思えば、答える暇もない程の勢いで僕を質問攻めにした。
「あ、えっと……」
「あらごめんなさい。わたくし興味のあることに関しては全てを知りたくなってしまうの。また今度、あなたが元気になったら詳しく聞かせてちょうだい。その時は手作りの焼き菓子でも持ってくるわね」
じゃ、と言って僕に小さく手を振ると、組んでいた長い足をほどいて椅子から立ち上がり、ベッドの足元のほうを通って廊下に通ずるドアへ向かった。
「あの、何で僕のことそんなに……」
僕がそう尋ねると、アメリアさんはドアの前で立ち止まり、こちらを振り返ってもう一度控え目に手を振ってから静かにドアを開けて去っていった。
「はあ……」
アメリアさんが部屋から出ていって数秒後、無意識に僕はため息をついた。緊張して呼吸が浅くなっていたのか、大きく息を吸う感覚に新鮮さすら感じた。
そういえば、アメリアさんは何故僕のことを詳しく知っていたのだろう。診察がどうこう言っていたが、何か関係あるのだろうか。僕のアビリティのことは罰さんと半田さんしか知らないはずなのに。
──いや、そんなことよりも空だ。何故急に現れたのだろうか。空が言っていた救済という言葉が殺し自体を指しているのだとしたら、今回の事件では終わらないはずだ。恐ろしい想像に思わず息が詰まる。
だめだ。考えても分かるはずがない。一人で考え事をしていると良くないことばかり浮かんでありもしない悲劇のシナリオを脳内で再生してしまう。
僕は無理やり思考を停止させて、壁にかかっている質素な時計に目をやった。時計の針は午前十時半過ぎを指しており、昼食の時間にしてはまだ早い。幸い、スマートフォンがズボンのポケットに入ったままだったので、二時間後に目覚ましを合わせてもう少しだけ眠ることにした。
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