第7話 生贄
(ここは……ああ、学校か……)
授業終了のチャイムが鳴り響き、クラスメイト達のガヤつく声が耳に入ってきた。どうやら気づかないうちに机に突っ伏して居眠りしていたらしい。顔を上げて前の黒板を見ると、見覚えのない数字の羅列が大量に残されていた。
「うわ、やばい。ホームルームまでに写せるかな……」
僕は大急ぎでノートを開いてシャープペンシルを手に取る。カチカチカチ……芯がない。こういう時に限ってだ。僕の周りには他の人よりも少し多めに小さな不幸が散りばめられている気がしてならない。
「ええと、替芯……」
小学生の頃から使い続けてかれこれ四年になる薄汚れた筆箱を漁った。
「あったあった……」
筆箱の底の方でうずくまっていた替芯のケースを見つけて取り出そうとした瞬間、誰かが僕の机を思いっきり蹴飛ばした。その衝撃で体の重心が前に偏り、思わず倒れそうになる。
「あ、すまんすまん。存在感なさすぎて見えなかったわあ」
——くだらない。僕は亡霊ではないしちゃんと現世に存在している。寧ろ、存在感を限界まで薄くすればこの世から消滅できるのならそうしたい。全く笑えない冗談を披露してくれたのは、同じクラスの山岡修二郎だ。他人をいたぶることに生き甲斐を感じるような哀れな人間だ。こういう人間には死んでもなりたくないなとつくづく思う。
山岡の周りで惨めな僕を嘲笑う取り巻き三人衆の薄汚い声を聞きながら、一瞬にして散らかってしまった文房具やら鞄やらを無言で片付けていると、教室の隅の方から送られてくる視線に気づいた。そこには申し訳なさそうに少し俯いてこちらを伺う男子生徒がいた。——彼の名前は空。宗平空だ。中学三年の初めの頃に僕のクラスに転校してきた。父親が大きな会社の社長だそうで、本社移転の為にこんな田舎にやってきたらしい。何故こんな田舎に移転してきたのかは分からないが何か事情があるのだろう。空は細身で色が白く、長い睫毛は綺麗にカールしており、まるで西洋の人形のような顔つきをしている。体が生まれつき弱いらしく、体育の授業や学校行事などは殆ど参加しない為、変に注目を集めることが多い。先生たちにも割れ物を扱うように接されているからか、ついこの間まで山岡達のいじめのターゲットにされていた。なんとも理不尽で身勝手な話だ。
そして何故僕が今、山岡達の新しい玩具になっているのかというと、理由は一つ。空に声をかけたからだ。クラスメイト全員で空を無視するように山岡達が仕向けたようだったが、僕は構わず声をかけた。もちろん自分が次のターゲットになることぐらい予想はできた。それでも、空の消え入りそうな後ろ姿を見ていると、どうしようもなく手を差し伸べたくなった。誰に何を言われても何も言い返さないし、抵抗しようともしない。まるで自分を見ているようだった。僕自身家ではゴミのような扱いを受けているし、他人から酷いことをされるのには慣れている。自分が生贄になって空が救われるなら、それでいいと思った。
「はい、帰りのホームルームです。席に着いてください」
疲弊しきった表情の担任がだらしなく教室のドアを開け、踵を踏んだままで履いたスニーカーをパタパタと鳴らしながら教壇へ上り、号令をかけた。それと同時に黒板の文字を消し始める。
「あ……」
先生、まだ写してません。のセリフを言う間もなくどんどん消されていく黒板を見て、僕は書き写すことを早々に諦めた。自分で言うのも気が引けるが、成績は毎回学年トップ5に入っているし、ノートを一ページ分書き写し忘れたぐらいでどうってことはないからだ。
「あと一ヶ月で夏休みが始まります。みなさん夏休みは学校がないからといって学業を怠っては────」
ここ数日この話しかしていない。一ヶ月前から夏休みの過ごし方について熱弁されても聞く気が起きないし、夏休みなら勉強に追われずにゆっくり休みたいと思うのが普通だろう。でも結局家に帰ってもすることがない僕は、夏休みも変わらず部屋にこもって勉強ばかりすることになりそうだ。
担任の話を聞き流しながら、全開にされた窓の外に目をやった。ここは田舎だ。目の前に広がる青々とした田畑を窓枠越しに眺めていると、外の暖かい風が教室内に吹き込み、薄いベージュ色のカーテンをふわりと揺らした。そして、カーテンで隠れていた窓ガラスに反射して映る空が見えた。何故だか分からないが、僕のことを教室の隅からじっと見つめていた。ガラス越しに僕と目が合ったことに気づいたのか、空は恥ずかしそうに目を逸らすと急いで前を向いた。
空は、自分のせいで僕が山岡達にいじめられていると思っているのか、山岡達が教室にいない時を見計らっては僕に話しかけてくる。お互い会話があまり得意ではないので、大して盛り上がらない世間話をして休憩時間終了のチャイムが鳴る。でも、僕はこの時間が好きだった。空と話していると、形容し難い不思議な気持ちになる。外界から僕と空だけが切り離されたような、時間の流れがゆっくりになるような穏やかな感覚だ。長い睫毛の奥で静かに輝く色素の薄い虹彩を見ていると、僕が生きてきた痛みばかりの世界が嘘なのではないかと思わせてくれる。そんな時間が永遠に続けばどれだけ幸せだろうか。
そんなことをぼーっと考えていると、帰りのホームルームがようやく終了した。何も写していない白紙のノートを閉じて鞄にしまう。山岡達が教室から出ていくのが見えた。僕は鞄とスマホを持って、教室の後ろに設置されている明日の予定を書く為のホワイトボードを確認しようと席を立った。
「そういえば、明日校外学習か……」
特に楽しみにしていなかったせいか明日の校外学習のことをすっかり忘れていた。数人の班を作って班ごとにキャンプをするらしいが、友達もいないならアウトドア派でもないので行きたくないというのが正直な感想だ。行ったとしても一人仲間外れにされることぐらいは想像に難くない。
「あ、あの……祐希君……」
突然後ろから声をかけられたので驚いて後ろを振り向くと、スクールバッグの持ち手を両手でぎゅっと握りしめて立っている空がいた。
「びっくりした、空か。どうしたの?」
ろくに目も合わせず俯いてもじもじするだけの空を見て、僕は何を話そうかとしばらく考えてから明日の校外学習について聞いてみることにした。
「明日校外学習だね。僕こんな感じだからキャンプとかあんまり得意じゃないんだよね。空は今回も参加しないの?」
「それなんだけど……」
空は何か言いたげにもごもごと語尾を濁したあと、意を決したようにパッと顔を上げて正面から僕を見据えた。
「あ、明日実は僕も行こうと思ってて……だから、その、一緒に……行こう」
——またあの感覚だ。空に見つめられると時間の流れが一瞬だけゆっくりになって、温かい空気に包み込まれるような感覚になる。
「もちろん。一緒に行こう」
僕がそう答えると、空は太陽のように明るい笑みをこぼした。
明日という長い一日にどっしりと待ち構えていた憂鬱は、気がつけば跡形もなく消え去っていた。
「じゃあまた明日、祐希君」
体の横で小さく手を振る空の瞳に午後の陽の光が射し込んで、丁寧に磨かれた宝石のように美しく輝いていた。
「うん、楽しみだね」
僕は、小走りで教室から去っていく空の後ろ姿を最後まで見送った。つい先程まで他のクラスメイト達が残っていたはずの教室は誰もいなくなっており、風で揺れるカーテンと僕だけになっていた。
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