吉野荘

風早れる

吉野荘

 明瞭な煤竹色、という矛盾にも思えるような、艶のある色に塗られた境界線を越えるだけで、その場所が由緒ある旅館である事がすぐにわかった。残滓という言葉の存在意義を失わせる程、その部屋は完成しきっていた。


もはや生活感を感じない程綺麗に並べられた下駄が、私を出迎えてくれた。そんな非日常どもを無視し、備え付けられていたスリッパを足に嵌めこむと、非日常が広がる。


アトランダムに配置したかの如く何本もの柱が不規則に立ち上がっており、艶やかさで誤魔化された老朽化の進む屋根を支えている。木々は多種多様に色づいており、亀の尾の如く年の功を感じ取れる。決して太い樹木が根付いている訳ではないが、どれだけ撫でても揺らぐ気配もない。日本人らしい、零細な一家の大黒柱にはシンパシーをも感じてしまう。そんな柱に、防火基準達成の証、大浴場案内、市長からの表彰状等の看板らが所狭しと並んでいる。その姿は宛ら、親に甘える子供達のようで、少し微笑ましい。


斜め右手に見える受付横には、かなり立派な草が、白くて、ハクション大魔王でも封印されていそうな程大きい壺の中に生けられていた。品種の名前は正直解らないが、遠くから見ても鮮明に映る程太い根っこを持ち、抹茶のように繊細な緑色を放つ、その美しさから、そこそこメジャーな品種であるのではないかと推察している……後ろからLEDと思しき後光で照らされているお陰なのかもしれないが。


それだとしても、まるで夢みたいな美しさはライトを消した所で色褪せる事もないだろう、と思える。この世の中はで一番美しいものは、気取らないものである。詫び・さびである。


そのまた左側に、この宿が立地する吉野町のポスターが、怪しげな新興宗教のカレンダーのような酷いデザイン性を保持して飾られていた。これほどダサいポスターは久しぶりに見たかもしれない。通り過ぎるだけの人々の目には何の印象にも残らないだろうが、私みたいな穿った双眸を放つ、性格の悪い人間には滑稽さが際立つ。理系学部出身者に作らせたのだろうか。


どれだけ待てど、人の気配は無い。まるで、この世の中に居るのが私だけになってしまったような、孤独な気分になる……が、一応部屋に薄明るい蛍光灯が灯っていることから、他の人類が存在している事を知り、少し安堵する。でも、私の後ろを付きまとう影は、何度見ても一つしかなかった。


「あの……」


 気が付くと目の前には、見知らぬ女性が立っていた。すったばかりの炭みたいに黒い長髪が、頭上にあるエアコンの風に靡いている。風が僕の方に届く頃には、仄かに甘い香りを纏っていた。


「あぁ、予約した戸崎です」


「あっ、ご宿泊のお客様でしたか……これは失礼しました」


 皴やほうれい線などのない美しい肌から、身てくれは僕と同じくらいに見える彼女。予約簿帳を取り出す仕草や、笑顔の硬さを見るにあまり接客馴れしているようにも見えない。声も、今にも消えそうな蝋燭の如く小さなモノだった。というか、人間と話す事自体を忌避してきたようにすら感じる。


「すみませんが、こちらに記帳を……あっ」


 彼女はテーブルの中から取り出したボールペンを僕に渡そうとするも、指からツルっと音を出さんばかりに滑り、そのまま床に落ちた。


「あっ、すみません……」


「いえ、お気になさらず」


 今日、僕は後何回すみませんを聞くんだろうと思いつつ、ボールペンを拾い上げると、フロントの人間が2人に増殖していた。もう一人は男と言えど顔がよく似ていたので、分裂したのかと思った。


「すみません、うちの者が……。宮子、もういいよ」


 男が諭して肩をポンと叩くと、彼女は分かり易くしょんぼりとした表情を見せたまま、後ろにある木製のドアを開け、そのまま捌けていく。


「私の妹なんですが、どうも昔から鈍くさくて。ご迷惑をお掛けしました」


 ひょこりと頭を下げる男。兄妹なのはやはり確かなようで、目元の二重幅の美しさ、親しみやすさを覚える、少し太めの眉、スラッと縦に伸びる鼻筋は非常にそっくりだった。


「いえ、迷惑だなんてそんな……私も似たような事、よくしますし」


 そう冗談めかして笑って見せると、何故か目の前の男から表情筋が失われた。人の気持ちに基本疎い僕でも分かる、明確な侮蔑の表明。直後、背後から背筋を凍らされるような、嫌な感覚が僕を襲う。



「お前に何が解るんだあああああああああああああああああああああああああ」



 振り返ると、さっきの彼女が僕の方にナイフを持って迫っているのに気が付いた。



「お前に私の何が解る! ものの数秒で解った気になるな!」


次の瞬間、僕は臨終した。

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吉野荘 風早れる @ler

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