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 講義内容についての質疑応答が済んだ後、猫蚤は興味深そうに研究室を見回した。

 雑然として、文字の洪水となったそれらに存在価値を見出してやるのは持ち主以外に可能なのだろうか。

「何か、面白いものはあるかね」

 猫蚤は声をかけられたことを認識するまでに一秒ほど視線を向けていた白い壁を二度見した。

 ああ、それに目が行くか。

「なぜ、この一面だけは整然としているのですか」

「壁に黙ってほしくなくてね」

 訝しげに壁に近づく猫蚤を止めることもせずに眺める。

 客人が来た時は無機質に成り上がるこいつをどのように見るのだろう。

 長く白い中指をそっと這わせる。

「喋るんですね、これ」

「滑稽だろ」

「いえ。小煩い同居人はいいものではないですか」

「そうだ。君にはユーモアというものがあったな」

「エッセイ書評のことですか。秀期待しますよ?」

「自惚れるな。頭のネジを一本足してから咆えろ」

「ユーモアというのは頭のネジ一本抜けて入る物」

「他の奴らがそのネジ穴に押し込むのは常識かな」

「よりつまらないものであって欲しいと望みます」

「君は随分と性格もネジが曲がっているようだな」

「一気に不可まで落とさないでくださいね、教授」

「そんなことはしないさ、猫を被った蚤は珍しい」

「名前遊びには慣れておりますよ、竹林の草教授」

「っはは、根だけは自慢の強度と誇りつつも情弱」

「ご謙遜を」

「君もわかっているだろう? 私の狂った脳の話」

 軽快な音の交錯が突然に途絶える。

 猫蚤は手を体側に下ろし、寂しそうな笑みを浮かべた。

 それは、松篠が辞めた時のように。

「この現代に記憶の価値がどこにあるのですか?」

「理解できるまい。四割も生きていない君如きが」

「詰め込めば二百年を見てきた脳に仕上げますよ」

「虚構だ。電子信号になぞ何がわかると言うんだ」

「教授は竹林の御伽噺をいつまで諳んじるのです」

「すでに人類は月へと手を伸ばしたというのにか」

 自虐的に呟くというのは敗北宣言だ。

 四割も生きていない若造に。

「定年がない職場でこんなデメリットに会うとは」

 目頭がじわりと熱を帯び、とうとう衰えが涙腺にまで支障をきたすとは、と情けなく眉間を歪ませる。

「もうすぐ、俺も消えますよ。竹葦教授」

 壁に記憶が溶け込んだ。

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