15.逃げる妻


 夫が帰る場所がひとつだけになった。


 坂の上のカフェの引き継ぎは、シェフと夫がしてくれることになった。

 シェフのホテル厨房修業時代の後輩が、独立を兼ねて引き継いでくれることに。こちらの後輩シェフは奥様と一緒に切り盛りをしていくとのこと。


 もう美紗は店には顔を出さない。樹にも杏里とも、いつまでも顔を合わせない。あの日の別れで最後という心積もりだったようで、引き継ぎをするシェフがあと数回やってくるだけになっていた。


 樹と美紗が長く一緒に過ごしたマンションも引き払われた。

 夫が帰る場所は、妻と子供たちと、同居の弟が待つ家だけに。

 だから毎晩、あの人と顔を合わせる日々が始まる。


 どうしてだろう。息が詰まるのだ。夫はどう思っているのか。

 契約妻は、これからなにをすればいい? 愛人が受け持っていたことを、これからは私が? 契約になかったことをしなければいけない?


 樹のことを嫌いかといえば、まったくそうではない。

 この前、伝えたように、夫として尊敬しているし、家族としても社長としても信頼している。

 だが毎晩、彼がそこにいるだけで、もの凄い圧迫感を覚えた。


「杏里。次の週末、子供たちとスキーに行こうと思っているけど、どうかな」


 息子と義弟と囲む夕の食卓。向かい側の席で白飯をほおばっている夫に聞かれる。


 息子たちが笑顔に輝く。『パパ、ほんとに?』『ぼくとソリしてくれるの』と――。いままでだって、週末に子供と遊びに行くことは何度もあった。愛人の家に通っていても、できた愛人だったから、子供たちのために週末パパになるように送り出してくれていたし、パパとママ、叔父ちゃんと一緒におでかけすることも、お泊まり旅行に行くこともよくよくあることだった。


 なのに。この日の夜。杏里は樹の顔を見つめるだけで、口を開いただけでなにも答えられなかったのだ。


「義姉さん?」


 訝しむ優吾の声に、子供たちもママがおかしいことに気がついた顔をする。長男の一颯はとたんに不安そうになっている。ママはまだみーちゃんと『さよなら』をして元気がないと、ずっと心配してくれているからだ。


 夫も気がついた。


「どうした。杏里」


 夫の問いに、また声が出ない。

 持っていた茶碗を手放し箸も置き、杏里はテーブルから立ち上がりそこから去った。


『ママ?』、『ママ、どうしたの』

 子供たちが戸惑う声に、すぐに優吾が『大丈夫だよ。ママはちょっと気分が良くなかったんだよ』と誤魔化してくれる声が背後に聞こえた。

 自室に入り、杏里はコートを羽織り、いつも仕事で持ち歩いているバーキンのバッグを引っつかんだ。車のキーも握りしめる。


 すぐに部屋を出たところで、夫に遭遇する。

 この日の夜も、彼はスリーピースのベストとシャツとスラックス姿のまま。何年も変わらないその人が、杏里の前に立ちはだかった。


「どこに行く。子供たちを置いて」

「あなたもいない日があったでしょう」


 さっきは声が出なかったのに。今度ははっきりと言い返していた。


 違う。こんなことが言いたいわけじゃない。契約だったのだから、それもわかって夫不在の日も許していたのに。


 だが樹は怯まなかった。杏里の腕を掴んで引き留めようとしている。


「俺が疎ましいのはわかっている。いまさら夫面おっとづらしても、夫じゃないことも。出て行くなら俺が出て行く。だから子供たちから離れないでくれ」

「だから! 子供たちにはあなたも必要なの。そばにいてあげて。今日は、お願い。ひとりにして!! 今夜だけでいいから!」


 その手を振りほどこうとすると、夫は致し方ないように手放してくれた。

 そのまま杏里は家を飛び出す。いつも運転している黒いアウディに乗り込んで、白く硬く凍り付いている冬の道路へと発進する。


 行く当てなんてない。私にはあの大澤の家しかない。居場所はあそこだけ。気ままに過ごして、子供たちと笑って、大好きな仕事に精を出して、親友のような気負わない義弟がいる家で、もう何年も満足に過ごしてきた。夫がたまに帰ってくるぐらいでも、それが心地よかった。

 その居場所の空気が変わってしまったのだ。


 妻という立場が、いままでと違う重さでのしかかってくる。

 夫の綺麗な横顔がどこにいてもちらつく家、彼の目線をいつも感じる家。話しかけられそうなのが嫌で、素っ気なく知らぬ振りをして彼を避ける家。いまになって毎日毎日帰宅してきて、毎晩毎晩、一緒に夕食を食べて、気を楽にして眠ろうと薄着で歩いているそこに、夫と目が合う。その緊張感も堪らない。


 今日は月も出ていない。街灯が少ない高台の住宅地を抜け、暗い坂を下りるが、それでも夜の海が遠く見える。ほんの少しの漁り火が浮かんで見える。


 初めて頭に浮かんだ『離婚』の文字。


 だってもう契約は崩れたのだ。これからあの人と毎日過ごす約束など結婚の時にはなかったのだから。

 だが子供たちは? パパは社長さんだから忙しい人。だからおうちにいない日も多い。ただそれだけのことだと信じている。パパの弟の優吾叔父ちゃんは、忙しいパパとママの代わりにおうちの家事をしてくれる。パパとママと叔父ちゃんに見守られて、健やかに過ごせる家で伸び伸びと育っている。なのに。そんな息子たちに、離婚するからパパとママはもう一緒にいられないのと、いきなり突きつける?


 勝手すぎる。杏里はハンドルを握りながら、信号待ちのところで項垂れる。


 頭を冷やそうと、杏里が辿り着いたのはガラス工房だった。

 まだ灯りがついていた。



 誰がいるかもわかっていた。ストーブの火がまだ入っている事務所のドアを開けると、その音に非常に驚きおののいた男の目がこちらに向いた。


「杏里さん。ど、どうしたんですか。こんな時間に」

「ごめんなさい……。少し、ここにいさせて」


 どんな顔をしていたのか。遠藤親方が杏里の顔を見て、息を呑んだのがわかった。涙を流した覚えもないのにだった。それだけやつれた顔をしてたのだと思う。

 だが遠藤親方は、いつもの穏やかな笑みを見せてくれると、いつもの応接テーブルのソファーへと促してくれた。


「紅茶。入れますね」


 席を立った親方がなにをしていたのかと、テーブルを見ると、そこにはいくつものガラスの大皿に、切子のボウルにグラス、箸置きなどが並べられていた。彼が弟子たちが作ったものを『検品』していたのがわかる。


 紅茶を入れてくれた彼が、ティーカップを置くために、テーブルにあったガラス製品を片付けた。


「仕事中でしたか。お邪魔しました」

「いえ。なんといいますか。だいたい、ここに居るわけですよ」


 親方である彼が、夜遅くまで工房にいることは誰もが知っていることだった。だから。来てしまったのだろうか。それでも誰かにそばにいて欲しいと杏里は欲していたのだろうか。


「親方は。結婚したい女性はいらっしゃらなかったのですか」


 唐突な問いに、また彼が面食らっている。

 どういう意図の質問で、どんな気持ちでここに飛び込んできたのか。かなり訝しんでいるようで、彼が返答に考えあぐねていることが伝わってくる。

 その時。いつも穏やかな彼の表情が、すっと冷たくなった。ガラスを吹いている時、また弟子達の動きを観察している、職人の時の厳しい顔つきだ。


「美紗さん、小豆島に行くのだと先日、挨拶にきてくれましたよ。シェフと一緒に。私も知っていましたから。美紗さんと社長のご関係。愛人がいなくなって、お困りなのですか」


 優しい親方らしくない、棘のある言い方に、杏里は胸を貫かれる。

 彼の冷たい目が杏里を軽蔑しているように見えた。

 そんなあなたも、美紗さんが愛人であることで恩恵をうけていたのでしょう? その恩恵がなくなって自分一人が夫を受け止めることになって逃げているのかと聞かれたような気もしたのだ。


「結婚を甘く見ていた。そんなお顔をされていますね」


 まったくその通りだった。しかも衝動的とはいえ、息子たちの安泰の日々を揺るがす『離婚』なんて言葉すら浮かべてしまったのだ。

 一気に顔が熱くなる。杏里はいまになって恥じているのだ。結婚を甘く見ていたことも。離婚を容易く思いついたことにも。


「私の結婚ですか。私は二度と結婚はしませんし、女性も愛さないと決めています」


 その時になって、親方の表情がやっと、杏里が知っている温かなものへと緩んだ。


「一度、結婚はしておりました」


 知らなかったので杏里は目を見開いた。


「し、知りませんでした。外商の知り合いからも『芸ひと筋の職人さん』だと聞いていましたので」

「約束なんです。亡くなった妻との」


 杏里はまた言葉を失う。伴侶を亡くされていたと知りもしなかった。そのうえ、その妻との約束だから『芸ひと筋』なのだと聞こえもした。

 穏やかな親方がさらなる過去を教えてくれる。


「妻は事故で亡くなりまして、その時、お腹に子供がいたんです。女の子でした。ちょうどわかったぐらいの時でした」

「そ、そう……だったのですね……。それはお気の毒に……」

「私も妻も慎ましい生活でしたがしあわせに過ごしていました。私が職人であるようにと支えてくれましたし、ガラス職人として成功することを誰よりも願ってくれた人なんです。いちばんの心の支えだった」


 もう杏里は逃げ出したくなった。最愛の妻に、会えることもなかった娘を、いまも彼は愛してガラスに向き合っているということだ。想いだけが存在していて、触れあえるぬくもりや実体は無い。自ら孤独を選んで貫いている。でもそこに永遠の愛がある。

 対して自分は? 歪んだ関係を自ら選んでおいて、バランスが崩れて向き合うこともしないで逃げてきた、自分の都合ばかりの女で妻――。


「ガラスを吹いていると、竿の先で冷めていくガラスが綺麗に透き通っていく様子を見るたびに、そこに妻が浮かびます。だから、少しでも納得できなければ残したくないんです。そこに真摯に丁寧に真剣に向き合って納得できたものだけが、私と妻の真実です。それが生き甲斐なんです。結婚はしません。他の女性も目に入りません。これでよろしいですか? お聞きになりたいことについての返答ということで」

「は、はい……。辛いことをお話しさせてしまいました。申し訳ありません」

「いえ。いつもの杏里さんに戻られたようですね」


 にこっと遠藤親方が笑ってくれ、杏里も乱れ荒れていた胸が穏やかになっていることに気がついた。


「好きなだけここにいてもよろしいですが。さすがに余所様の奥様とおなじ場所で一晩というのは憚ります。ご主人に、私から連絡しておきますね」


 いまの杏里は樹と言葉が交わせそうにないので、遠藤親方から連絡してくれることに甘えてしまった。


 そんな遠藤親方は、もう深夜手前なのに、いまから工場こうばでガラスを吹くのだという。


「ここが私もいちばん落ち着く場所なんですよね。寝泊まりもしょっちゅうです。もちろん、自宅にも帰りますけれどね。まあ、溶解炉の火の番ついでです。あと、ひとりきり集中できる時間でもあるんですよ」


 親方もコンクールに挑戦する年もあるので、創作活動に励むのはこれくらいの時間なのだという。

 工場でガラスを吹くので、杏里は事務所で好きなだけ過ごしていいと言われる。

 いまから作業をするからとエプロンをして腰紐を結びながら親方が最後に呟いた。


「花南も一緒なんだなと思うことが最近多いです。あの子もそう。竿の先に『なにかを』問うているようなひたむきさを感じるんですよ。お姉さんなのかな。ちょっと違う気もするような。なんだか……。そう。あの若い女の子に最近ひっぱられるような感じなんです。もし、娘が生まれて育っていたとしても、年齢は少し花南のほうが上ですけれど。でも『娘とは』花南のような感じだったのかな、なんて――。あ、聞かなかったことにしてくださいね。これで、プライベートのお喋りはお終いです。私も杏里さんの見たことないお顔、忘れますから」


 また申し訳なくなって。杏里は平謝りで親方を工場に送り出した。

 遠藤親方の連絡に、樹は『お願いします。妻の好きにさせてやってください』と答えたとのことだった。

 長椅子のソファーで横になれるようにと、親方が毛布を貸してくれる。

 昔ながらのダルマストーブが暖めてくれる部屋で、杏里は紅茶をゆっくり飲み干す。

 少し横になって眠る前にと、杏里は工場へと足を運んでみた。


 星が映る窓が見えるその下で、遠藤親方が吹き竿を持って、橙色にとろけているガラスに息を吹き込んでいるところだった。

 吹き竿を見つめるその目に、いつも穏やかな彼の優しさは見られない。そこに自分の中の『嘘偽りない純真さ』を伝導させるように、そこに己の真実のみを残そうとしているかのように。または、彼が誓う愛を吹き込むその行為は、亡き妻と愛しあっているひとつの行為なのかもしれない。


 今夜そこには、杏里が知らない『遠藤という男』がいた。

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