14.愛人のしあわせ


 どういうことなの? 杏里は恋を捨てたから、あとは契約通りに生きてきた。それで満足だった。

 だがその裏で、本当の夫妻のように過ごしてきた樹と美紗には不可欠の『愛の営み』が喪失していたとは。杏里と同じように情愛には枯れた生活をしていたと?


 男と女の愛をずっと育んでいたと思っていたのに。

 だから、カフェ経営と女友達?

 だから、子犬ちゃんと、それを守れる男?

 だったらどうして別れない?

 いや二人が別れたら、どうなる? 杏里もどうなる? 誰とどうなる?


 そこまで考え至り、杏里は思い改める。

 どこの夫婦だって、熱愛が過ぎたら『それ』ばかりの家庭で生きていくわけではない。なくなったらなくなったで、家族として生きていく。簡単には別れない。セックスレスが原因で別れることもあるだろうが、どこかで折り合いをつけてふたりで年齢を重ねていく。樹と美紗が本当の意味で夫婦だったのなら、熱愛の嵐が過ぎ去って、『倦怠期』を過ごしていただけかもしれないのでは。


 あの二人が終わっている。そんなはずはない。ひとりで絶対にそうに違いないと思い込もうとした。


 だが杏里が一生懸命に夫と愛人の揺るがない愛を信じていたのに。憑きものが取れて、すっかり落ち着いた様子を取り戻した樹が、毎日、杏里と子供たちと義弟が待っている自宅に帰ってくるようになった。

 これまでは、週の半分は美紗の家に、そして子供たちがいる夫妻の家へと平等に過ごしていた。


 なのに、毎晩、杏里と優吾が作る夕食を食べに帰ってくる。パパとママと、息子ふたりと、同居している叔父ちゃんと、食卓を囲んで家族団らんをする。こんなこといままでなかった。次男の一清はまだ無邪気だが、来年は小学校にあがる一颯は『パパ。毎日帰ってくるようになったね』と不思議そうにしていた。


 優吾も落ち着きがない。こんなことは、杏里と契約の結婚をしてから初めての変化なので『もしかして……』とよからぬことを思い浮かべ不安そうにしている。


 それは杏里もだった。なんだろう。この胸騒ぎは。

 あれから、就寝前のほんの少しのブランデーがやめられなくなった。

 自室のベッドルームでほんのすこし口に含んで、チョコレートやドライフルーツにナッツを頬張る。窓辺に音もなくしんしんと降る雪をひたすらみつめて、無心にみつめて、眠気を待った。

 すぐそこの寝室に、毎晩毎晩毎晩毎晩、あの人がいる。静かに落ち着いたあの人が、この家に当たり前のように毎晩帰ってくる。



---❄



 年が明けた頃だった。すっかり雪深くなり真っ白に染まる小樽の湾港。

 陽射しが雪に反射して眩しい晴天の日。美紗が大澤夫妻の自宅までわざわざ訪ねてきたのだ。こんなことも初めてだった。

 その時は前もって連絡もあったのか、姑の江津子も息子夫妻の家まで訪れていた。


「おじゃまいたします」


 いつもの華やかな服装を心がけていた美紗ではなく、シンプルなカシミアのセーターに黒のフレアスカートとかなり控えめな姿で現れた。その隣には背が高いシェフも一緒だった。


 新年のご挨拶にと思いたいところだが、カフェの開店をした時でさえ、シェフと訪ねてきたことはない。


 晴天でたくさんの陽射しが降り注ぐリビングのテーブルとソファーに一同が会する。


 美紗とシェフが並んで座り、その向かい側に樹と杏里、杏里のとなりに姑が座った。また今日も優吾が神妙な面持ちで、お茶を準備してくれる。子供たちは子供部屋にいるように叔父ちゃんに言いつけられて、いまはそれを守って遠くにいてくれる。


 優吾がお茶を配っている途中だったが、余計な前置きは要らないと決めていたのか、美紗から切り出した。


「いままでお世話になりました。小樽を出て行くことにいたしました」


 やっぱり。そう思いながらも、杏里は茫然としていた。

 すぐに見たのは隣にいる夫、樹の顔。彼はただ美紗をまっすぐに見つめ黙っていた。その顔を見てやっと杏里も認める。『破局していたんだ』と。ふたりはもうずっと前に別れを済ませていたのだ。


 義母はいつもそう。どんなことが起きてもいちいち驚かない人だ。人生の荒波をここにいる誰よりも乗り越えてきた女性だ。今回もただ黙っているだけ。いつも以上に義母の心のひだが読み取れないほどに無表情だった。

 優吾は杏里と一緒か。おかしいなと思って不安になりながらも『そんなはずはない』と信じていたのに、覆された驚きでいまここにいる。


 対して美紗は清々しい笑みに輝いている。


「シェフの生まれ故郷の小豆島で、新しい店をしていくことにしたんです」


 そして、また杏里は衝撃を受ける。一緒に頑張って育ててきた坂の上のカフェを辞めて、新しい場所で新しい店を持つと? 裏切られた気持ちにもなった。


 なのに……。どうして……。

 涙が滲んだ杏里の胸を覆ったのは『彼女と会えなくなる寂しさ』だった。


 そして、彼女が『ここから抜け出して、彼女の本当の人生が始まろうとしている』ことへの祝福。


「お、」


『おめでとう』。言いたいのに、言えない。言えば今度は隣の夫に深い悲しみを与える。

 だって。夫にとって妻のように最愛の女性だったのだ。だが……そう思っていたのは杏里だけだった。


「おめでとう。ここから旅立つんだな。やっと……。祈っているよ。今度こそ、本当のしあわせの日々を」


 樹からそう告げた。その言葉をすんなりと言えた樹の目は、いままでのどんな時よりも優しく澄んでいた。


「ありがとう、樹。いままで、ほんとうにありがとう。私のために日々を費やせてしまってごめんなさい。だからこそ、私、行くね」

「うん。俺は大丈夫だ。俺こそ、長い間、そばにいてくれて感謝している。美紗がいてくれたから、いまの俺がある」


 夫ではない。杏里が号泣していた。涙が止まらなくて、夫のように言いたいことが伝えられなくて。そんな杏里にも、美紗は綺麗な笑顔を見せてくれる。いつも親しく楽しく女だけで過ごしてきた時に、杏里を明るくさせてくれた大好きな笑顔だ。


「杏里ちゃん。この世界で、誰よりもあなたに感謝をしている。樹よりも、何百倍も。あなたのこと、うんと尊敬している。あなたと出会えたから、私、ちゃんと出て行けるのよ」


 いまここでいちばん取り乱しているのは杏里なのだろう。

 優吾がいまにもそばに来て杏里を抱きしめたいような心配顔でおろおろしている。そんな義弟のかわりに、杏里を抱きしめてくれたのは姑の江津子だった。彼女もなにも言わず、無言に。取り乱す嫁を抱いてくれている。


 だから杏里は素直に叫んだ。


「なんで、なんでなの。行かないで……。どうして。わたしたち、三人一緒じゃないと駄目でしょ。約束でしょう。ずっと、ずっと一緒じゃなかったの? ねえ」


 杏里は彼女より社会的にはしっかり者のキャリアウーマンだったかもしれない。でも、本当は女が肩肘を張って社会に切り込んでく毎日を、優しく包んでくれていたのは、ほんの少しお姉さんの美紗だった。

 その彼女がまたお姉さんの顔で杏里に微笑む。


「大丈夫よ。杏里ちゃん。歪んでいたけれど、あなたと樹はちゃんと夫と妻だったわよ。私が見届けたからね。これからもずっと、夫と妻でいられる。そしてあなたは、かわいいあの子たちのお母さんなの。樹もお父さんなの。あの子たちが素敵な男性になる日を楽しみにしているからね」


 涙に濡れて嗚咽を漏らす杏里をそばに、樹は落ち着いているそのまま、向かい側のふたりに頭を下げた。


「シェフ。彼女をお願いいたします」

「はい。そのつもりです」


 シェフのご両親も小豆島で飲食業をしていて、引退をするためその店を引き継ぐとのことだった。改装をして、またおなじようにイタリアンカフェにしてリノベーション開店をする。美紗はそこで同居をすることが決まっているらしい。つまり、それは。


「いままで苦労をした彼女が、しあわせになるよう努力します」


 シェフから美紗の手を握った。優美な微笑みでシェフの顔を見上げる美紗。そんな顔など見せたことがない。もしかして樹にも? 彼が切なそうに美紗を黙って見つめている。でもそこに悔しさとか憎しみとか、情けなさなど微塵も見えない。彼もそう、愛した彼女が決めたことを見届けているのだ。


 抱きしめてくれている姑も少しだけ涙を滲ませていた。そして杏里にそっと呟いた。『見送ってあげなさい』と。そこで声を上げて泣いてしまった。



---❄


 もうどうしようもないまま、ついに美紗が玄関に立ち、去ろうとしている。

 そこに子供部屋にいた息子たちが、優吾に連れられて出てきた。


「みーちゃん、叔父ちゃんが……、みーちゃん引っ越しちゃうって」

「みーちゃん、遠くに行っちゃうの? もうお店にごはん食べに行ってもいないの」


 笑顔だった美紗が、長男の一颯と次男の一清を見た途端に、その目を潤ませた。

 小さな息子たちの目線へと彼女が跪くと、ふたりをその胸に一緒に抱きしめた。


「うん。四国の小豆島というオリーブがいっぱいの小さな島に、シェフと新しいお店を作りに行くの。大きくなったら来てね。みーちゃん待ってる」


 六歳の一颯が、美紗の後ろにいるシェフへと見上げた。


「シェフのレモンジェラート、もう食べられないの」

「ぼくは、みーちゃんのナポリタン、まだ食べたい!」


 樹と杏里の目の前では笑顔を努めていたのに。愛しい男の息子だからと可愛がってくれた長男と次男の言葉に、美紗が泣き崩れた。シェフの目にも涙が――。


「後に来る新しいシェフが作り方を知っているんだ。シェフの後輩だからおなじ作り方を知っている。それに、小豆島で待っているよ。四国はレモンがいっぱいあるから、作ってあげるよ。船に乗っておいで。港にすぐに迎えに行くよ」


 シェフも美紗と息子たちを包むように抱きしめてくれた。

 大きくなったら遊びに行くよ。その約束を息子たちと交わして、美紗が今度こそ玄関に立つ。


「あなたたちも、お母様も、いつかいらして。お母様も、私を何度も助けてくださって、ありがとうございました。このご恩は忘れません」

「美紗と待っています」


 肩を寄り添わす二人が見つめ合い、揃って頭を下げ別れを告げて去って行く。


 美紗の背中を見送り、杏里は自室へ駆け込んだ。

 そこで存分に泣いた。素直におめでとうが言えなかった。すぐに心に浮かんだのに。正妻がおめでとうと言うことに、一瞬の躊躇いが生まれた。愛人に言いたくないではない。愛人に甘んじていた彼女に、清々しくおめでとうなんて言ったら、それこそ正妻が喜んで追い出しているみたいで。夫の最愛の彼女なのに、その別れを祝っている妻みたいで。本当は樹のように『おめでとう』と心から言いたかった。笑顔で送り出したかった。


 でも。やっぱりあなたのこと、私も敬愛していた。夫の愛人でも――。


『ゆご君、ママ、泣いている』

『だめだよ、そっとしておこう。みーちゃんは、ママの親友で仲良しだっただろう。遠く離れていくから寂しいんだよ。哀しんだよ』

『僕だって。みーちゃん、ずっと一緒だと思っていた』

『ぼくも……。ぼくも……。みーちゃんすき』


 部屋のドアの外、すぐそこで子供たちが戸惑っている声が聞こえる。

 優吾が子供たちを慰め、ママをそっとしておくように言い聞かせてくれている。


 ママの親友。子供たちにはそう教えている。

 みーちゃんがパパの恋人で愛していた人だなんて微塵も知らない。

 これからも、息子たちにとっては、ママと仲が良いお友だち『みーちゃん』。でも、それは嘘でもなかったのよ。そう、親友でもあった。

 杏里は離別の時にきて、やっと認める。だから泣いている。




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