13.恋以外は、すべて


 花南が倉重観光グループ社長の令嬢だとわかった夜、遠藤親方から貸してもらった発注書を手に帰宅する。


 夫が帰宅した22時。食事を終えたところを見計らって報告した。

 優吾も実家住所から家族構成と、姉が事故死した状況のほうが持っている情報収集ルートの特性で先にわかっていたが、家業まではまだ掴んでいなかった。

 だから、ふたりとも、おなじようにネットのWEBサイトを確認して茫然としていた。


「うわー。あのあたりで事業を結構持っている実家だね。どうりで、生まれた時からお嬢様だったわけだ。それで堂々としているのか。母さんが言っていた『おなじ格の人間がそばにいて慣れている』は正解だったね。お父さんが社長、お姉さんの夫だった義兄さんがそのまま残って副社長。甥っ子が将来の跡取り息子で孫ってことか」


 優吾の感嘆の声、夫も驚きはしていたが、もう落ち着いていた。

 仕事をしているときとおなじ、冷めた目で『倉重観光リゾートホテル』のサイトをあちこちクリックして眺めている。


「そうか。優吾、もう調べなくていい」

「え、そう? ほんとうに? お姉さんが夜中にひとりで運転していた車で、萩の海に転落ということまでわかったんだよ。居眠り運転で事故処理されているけど、人妻が幼子と夫を自宅に残して、なんのために夜中に一人でそこまで運転していたかが俺には気になるんだよね。そこも、小樽に来ることになった事情と関係あるのかと俺は考えているけれど」


「そんな事情があったなら余計にだ。ここで探るのはお終いだ。こちらのお家でも様々な事情があるのだろう。大きな事業をもっているお家に『しがらみ』は付きものだ。彼女がひとり、遠く離れて生きていく訳もあるのだろう。うちがこれ以上知ったところで首も突っ込めないし、突っ込んだらいけない」

「わかったよ。兄さんがそう言うなら」

「だが、杏里。これまでどおりに、間違いがないよう、こちらのご実家のかわりによくよく注意をして見守ってやってくれ」

「わかりました。そのつもりです」


 今回は苛立たなかった。夫の意向が今度は同調するように飲み込めた。

 若いお嫁入り前のお嬢様といえば言い方は古いが、由緒あるお家柄からくる資産家のようなので、やはり間違いがないように預かるという意味だ。そこは大人で事業主である自分たちの義務で責務だ。


 不思議だ。夫から憑きものがとれたように、彼の目の奥で波立っていた水面が、とても穏やかに静かになったように見えた。


「あと、いい取引先になるかもしれないから、そちらの対応も念入りに頼む。ガラス工房の製品が、ホテル営業の本場、現場で通用するかしないかの正念場になると思う。気に入られたら宿泊客の食事、宴会や式場などで利用してくれるはずだ」

「はい。遠藤親方も心得ていました。今回はお義兄様が数点のみ取り寄せられたようで、そちらをまず、厨房の料理人に使わせてみるとのことでした」

「気に入られたらでかいな。いいルートを繋いでくれたよ、あの子。テーブルウェアの製品をいくつか考えておいたほうがいいかもしれない」


 杏里がよく知っている『彼』に戻っている。


 杏里も残務を自室でやりおえ、入浴を済ませてキッチンで水分補給をしようとした時だった。

 まだスーツ姿の夫がいる。いつも杏里より寝るのが遅いし、最後の最後までワイシャツにスラックスでいる。

 そんな彼がブランデーグラスを手に持っていた。


「付き合ってくれよ」


 ヘネシーのボトルも片手に杏里を部屋へと誘ってきた。

 彼が今日はどんな心境なのかわかっているから、杏里も承知する。


 彼の寝室に入ることは滅多にない。週末に寝坊をしている夫のところに子供たちが無邪気に突撃して暴れて戯れる姿を見たり、諫めたりして入室するぐらい。

 契約したとおりに、次男の一清を宿してからは一切の交渉はない。すべて美紗のものとしてきた。逆に彼も杏里の寝室には入ってこない。子供たち用の部屋も別にあり、杏里はそこで添い寝をすることが多い。逆に子供たちと添い寝をしてくれる優吾のほうが頻繁に子供たちのベッドに出入りしているぐらいだ。


 その夫の寝室に誘われたが、杏里は今日は素直に従った。


 彼の寝室、窓際にある小さなソファーとテーブル、そこにグラスとボトルがおかれた。彼が長椅子になっているほうに座り、杏里は向かい側の単体になっているソファーに座らせてもらう。

 間接照明だけになっているベッドルーム、彼の背後にある窓には小樽の冬の海が月明かりに浮かんでいる景色が見えた。


 彼からグラスに、ほんのすこしのヘネシーを注いでくれる。

 しかも、おともに、杏里が好きな店のチョコレートを出してくれた。

 前もって、そのつもりだったことが窺えた。


「結婚して七年か。まだ十年でもないんだな」

「そうですね」

「情けないところをみせてしまったよ」


 迷い道で肥大させていた歪な姿を、真っ直ぐ生きようとしている花南に真っ向からカウンターパンチを食らったことを言っているとわかっていた。

 特に杏里には『実家家族のしあわせです』という言葉が突き刺さっている。彼女は遠い北国に援助なしでひとりきりでやってきたのに。遠い家族を思う健気な心。父親が祝ってくれた品を唯一の宝物のように大事にする心。その生き方を『質素だから助けてやる』とのたまう、迷い道で歪んでしまった大人の男の姿たるや。


 いつも威風堂々としていた樹が、二十四歳の女性にこてんぱんにやられる。妻の目の前で、弟の目の前で、母の目の前で。訳がわからずとも小さな息子たちの目の前でも、だった。

 いままで持っていたプライドを粉々にされたのだろう。


「でも。私は妻で、あなたのパートナー。どんな姿もあなただと思ってる」


 乾杯もなしに樹から、やるせなさそうにグラスを呷っている。


「女としての人生を狂わせた」

「私に居場所を与えてくれたし、今日まで守ってきてくれた。充分です」

「恋人を作っていいと言ったこともあるだろう」

「恋などしたくないと言ったはずです。焦がれる相手にも出会わなかった。それだけです」


 そうは言ってみた杏里だが。ときめいた男はひとりだけ。

 それは口が裂けても言わない。一生――。あなた以上に素敵に見える男性がいなかっただけだ。


 彼がグラスを片手に持って項垂れる。小樽湾の月が、こんな時に彼を明るく照らしている。

 こんな情けないあなたを見るだなんて。でも、これは杏里がさせている姿でもあるのだから目を逸らさない。


「恋以外なら手に入れました。愛はありますよ。あなたにも」


 そこから、夫はうつむいたまま動かなくなったし、喋らなくもなった。


「私が好きなもの。知っていてくれて嬉しい。少しもらっていきますね」


 彼と半分になる量を残して、杏里はチョコレートをいくつかつまむ。

 グラスを持って、夫の寝室を出る。ドアを閉めるときも夫は項垂れたままで、ただただ月明かりが彼を包んでくれているだけだった。


 灯りが消えたダイニング、暗がりのなかでひとり、杏里は夫が注いでくれたブランデーを口に含みながら、チョコレートを味わう。杏里の心も泣いている。でも涙は絶対に出すものか。

 杏里も悟った。あの人と美紗はもう上手く行っていないのかもしれない。だからって、妻をどうにかしようともできない。彼は優しい男だ。なのに胸が痛い……。『女としての人生を狂わせた』なんて言って欲しくなかった。どんな人生であれ『杏里という女が選んだ生き方だから、俺は認めているよ。夫だからな』と言って欲しかった自分がいることも自覚した。それを言ってくれないことを哀しんでも、自業自得じゃないか。それがわかっているから泣くに泣けない。


 そう。わたしたちは、歪んだ関係を三人一緒に選んだ時から『自業自得』なのだ。あのときはどうにか逃げたいことがあって、三人一緒に手を繋いで逃げ出しただけなのだ。


「義姉さん、大丈夫?」


 子供たちと一緒に眠っていたはずの優吾がダイニングに現れた。

 一人悶々としている杏里を知ってか、彼も灯りをつけずに杏里のそばに座ってくれた。


 杏里の隣でもじもじしている。それが気になって、杏里は義弟の顔をやっと見上げる。一緒に子育てをするようになってから、優吾は長い髪を切り落とし、短めに整えるようになった。子供たちにひっぱられないため。とことん甥っ子たちを愛してくれ、いまの優吾にとってのいちばんは子供たちだった。夫よりも一緒に彼と子育てをしてきたと思うほどだ。

 そんな彼が、杏里に対して気後れしている様子が気になる。


「に、兄さんの寝室に入っていったから、もしかしてと思って。でも、違ったんだね。ちょっと安心した。なんかいまの兄さん危なっかしいかんじだったから。その、無理矢理とか……」


 あ、その心配をしてくれていたのかと、杏里もハッとする。

 逆に契約妻だから、安心しきっていた。


「義姉さんが、それで良ければ別に心配しないけど」

「まさか。契約しているんだから、美紗さんがいる以上絶対に一線は越えないわよ。裏切りになるじゃない。樹さんもそれはわかっているはずだもの」


 そこで優吾がふっと、いつにない深いため息を落とした。彼も疲れたように、やるせなさそうに。


「あのね、兄さんがあんなに崩れ落ちて見ていられないから、もう俺も遠慮するのやめておくね」


 遠慮する? なんのことかと訝しみながらも、杏里はあと一口のブランデーを含む。最後に胸に広がった熱でどんなことも溶かして、聞いたらすぐに眠ろうと思いながら、なにげなく耳を傾ける。


「義姉さんと兄さんがセックスをしたのは、一清がお腹にできるまでだよね」


 最後のひとくちを吹き出しそうになった。どんなに親友みたいな義弟でも、夫妻のセクシャルについて踏み込まれたことはなかったからだ。


「え、なに急に。そうよ。だって、そういう約束だし」

「だったら。兄さんとはほんの数回だよね」

「う、うん……」

「兄さんと美紗姉もきっとそうだよ。一颯が生まれた後はまだ残っていたと思う。でも、杏里義姉さんと一緒で、兄さんと美紗姉も、一清が生まれてからはずっと『レス』だったはずだよ」


 ヘネシーの香りが、杏里の胸の奥で燃え上がった感覚。青天の霹靂のような衝撃だ。


 だったらもう。何年もあのふたりは愛しあっていないと?

 杏里の脳裏にまた、日傘を片手に思い詰めた顔で立っていた美紗が浮かぶ。そして、子犬ちゃんを執拗に探し始めた夫の姿もだった。



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