12.花ひとつの力
彼女は……。男のこともよく知ってる。無垢な女性ではないことが杏里にはわかった。男が女になにかを欲するときの獰猛な輝きを見抜ける力を持っている?
夫は、この若い彼女は磨けば磨くほど輝く特級の原石だと見抜いて、『この手で育てたい』という欲求を抱いたのが杏里にもわかった。
「せっかくだ。勉強のために、なにか美味しいものでも食べに行ってみないかな。北海道にきたばかりだろう。ご馳走するよ」
そう言われたら、二十代の女の子は喜んで付いてくる。……子が多いのだろう。
「小樽や
花南が黙ったまま。いつの間にか、ダイニングテーブルにいる優吾も姑の江津子も神妙な顔つきで固唾を飲んでいるのがわかる。
「いえ。実家に帰れば、父が年に一度、食べさせてくれるので充分です」
「ああ……、山陰も海の幸が多いのか。では、美術館巡りのドライブとかどうかな。いろいろ見聞を広めると役に立つだろう。なんなら旅行に行ける援助もするよ」
「北海道に来たこと自体が、私には大旅行の途中です。札幌と小樽を見て回るだけで充分です。休日はそうして、あちこちでかけています」
杏里も優吾も、義母も。ここ数年の樹の『趣味』を知っている。
なんだか読み取れない不思議な女の子を、樹が『援助するおじさん』の権利を得ようと必死に口説き落としているところを眺めている。
普通は止めるのだが。樹がどうというより、花南が堂々と言い返していることに唖然としながらも、興味をそそられて見入ってしまっているのだ。
夫はまだ続ける。
「だったら。小樽と札幌を案内しようか。交通機関を使って移動するのは料金もかかるだろう。乗り心地の良い車で、好きなところを案内してあげよう」
「それでは情緒がありません。カメラを持って撮影するのが好きなので、車だと景色を見逃しがちです」
「カメラ? カメラがガラス以外で好きなことなのかな。だったらいいカメラを――」
「父が二十歳のお祝いにと買ってくれた一眼レフを大事に使っています。一台で充分です」
真っ当すぎて、大人の男が持つ財力で押し切ろうとした樹がついに黙った。
樹の負けだ。ほんとうに、彼女の家族はどのような方たちなのか。杏里は興味が湧いた。格式高そうな品格を垣間見せるのに、父親がお祝いにくれたカメラ一台だけを大事に使うと言い切れるその『お育ち』だ。
夫も、初めて余裕のない苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
なんとか気を取り直した樹が最後に絞り出すように彼女に問う。
「それなら。君が欲しいものはなにか聞いてみたい。ほんとうに、応援をしたいと思っているんだ」
なにも欲しがらない無欲な女の子の本音を知りたい。これは彼の本音か。
花南は誰の目も見ず、黒いドレス姿で遠くを見据えて答えた。
「私にしか作り出せない芸術と、実家家族のしあわせです」
完敗だった。芸術は彼女の力のみでしか手に入れられない。彼女の家族のしあわせも、樹には無関係のこと。手など出せない。
金でも手に入らない。金が関わるとしたら、彼女が生み出した芸術品ができた時、向こうから『欲しい』と差し出してくるものだ。与えられるものではない。
「すまない……。悪ふざけがすぎたね」
「いいえ。いろいろと気遣ってくださって、ありがとうございます。私も生意気を申しました」
杏里がよく知っている、物腰の良い夫に戻っていた。
毒気が抜かれるとはこのことか。
子供たちはただただシュークリームに夢中で、パパがなにをしているかなんて気にしていない。優吾がひたすらふたりの頭を撫でて気を逸らしてくれていた。
義母も溜め息をついていた。息子が迷い道にはいってやっていることをわかっていて、好きなようにさせて、痛い目に遭った瞬間を見守っているだけだった。
彼女にドレスを持たせて工房に帰した後、樹が優吾に告げた。
「あの子の素性わかるか」
「うん。履歴書があるから、実家住所から探ってみる」
「家族構成だけではなく、どうして小樽に来るに至ったかも知りたい」
「そこまで必要かな。ま、いいけど。俺もちょっと興味ある」
実は杏里もだった。優吾が調べてくれるなら確実だ。便乗して知りたいと思う。それは義母もだった。
「私も知りたいわ。すごいわ、あの子。ただのお育ちじゃないわよ。うちの長男を言い負かすなんてね。私にもちっとも怖じ気づかなかった。あれはね、私や樹のような格の大人をよく知っているし、そばにいるのよ」
そんな格の子が、なぜ質素にガラスの修行に来ているのか、だった。
---❄
優吾の調べより先に、倉重花南の正体が判明した。
これまた遠藤親方からだった。
無事にパーティー参加も終わって、花南が会場で男性に言い寄られたりなどしていたことを案じて、また杏里は工房へと顔を出していた。
ついに雪が降り積もり、花南が兄弟子たちと雪かきをしているそこに、杏里は訪れる。
また事務所で、遠藤親方が行ったり来たりしながらうろうろ。杏里の顔を見つけると、また飛びついてきた。
「杏里さん。お時間いただけますか」
「え、ええ。もちろん。あの、パーティーのあと、花南さんは大丈夫? 男の人に言い寄られていたみたいだけれど」
「ああ、洋菓子・札幌ネージュのご長男さんのことですか。私が間に入って遠慮してもらうようにしておきましたけれど」
「ああ、よかった。ま、花南さんなら大丈夫とは思っていたけれども」
夫をやり込めたほどの女の子。まだ親の傘下で修行中の跡取り二代目さんぐらいなら、なんなくあしらっていたことだろう。それでも、目に付くほどに花南にひっついていたので確認しにきたのだ。
「それで親方はどうかされましたか」
はっと思い出したようにして、親方にまた応接テーブルに案内される。
テーブルにはすでに発注書が置かれていた。
「え、なにか注文がはいりましたか」
「はい。すこしですが。発注元の法人名なんですけれど」
法人名? 個人注文ではなく会社として注文をしてきたということらしい。この札幌と小樽周辺でおつきあいで注文をいただくことはよくあることだが、手に取った発注書の住所を見ると、山口県豊浦町とある。
「え、山口――」
法人名は『倉重観光グループ 倉重リゾートホテル』とある。
倉重!? 発注書の用紙を両手で持っていた杏里は、驚きのあまり左右に引っ張り破りそうになる。しかも担当者名が『倉重耀平』とある。
「昨日のことなんですけれど。注文主は、そちらの副社長で……、花南の義理のお兄さんだそうです。亡くなったお姉さんの夫さんです。義理の妹がどのようなところで修行しているか気にされたのかなと。お電話で少しお話しできたんですけれど、義妹には黙っていてほしいとのことでした」
「あの、パソコンを借りてもいいかしら」
「自分もそう思って、どうぞ」
テーブルに既に置かれていたノートパソコンを遠藤親方が差し出してくれる。そこにはすでに『倉重リゾートホテル』のWEBサイトが開かれていた。
『会社概要』のリンクからページを開くと、役員名の筆頭が花南の履歴書にある父親の氏名であって、そして副社長に義兄の氏名。事業内容のページを開いて絶句する。リゾートホテル以外に、料亭温泉旅館、瀬戸内海ブライダル結婚式場など様々な事業を展開させていた。おそらく大澤倉庫より規模は上。
「ご、ご令嬢様……じゃない」
「そうだったんですよ~。腰が抜けました。でもなんだかしっくりしたといいましょうか」
「なんで、あんな援助もなしに、質素に??」
「たまにいますよ。逆に実家が裕福だからこそ、己の力だけでやってみたいという若さといいますか。それに。裕福だからこそ芸術に没頭できる。富裕層出身の芸術家が出ることは、わりと自然なことで、よくあることです」
杏里も腑に落ちたが、もの凄く興奮している。
ああ、なるほど。夫がやられるわけだ。彼女も『資産家パワーフル搭載のお嬢様』だったんじゃないか。
なのに『ご馳走は年に一度父が』、『父からのお祝いの品を大事に使っているから』と言えるお育ち。財力を武器にしていた夫をなぎ倒して当然。感服だった。
若い女の子を助けることは悪いことではない。いいこともあった。だが誰もが力がないわけではない、また助けを求めているわけでもない。声をかけた女の子が、今回は金銭では手に届かないものを常に見据えている子だった。
それと同時に罪悪感が襲ってきた……。
夫にあんな情けないことをさせて、申し訳ない思いがわき上がってくる。
あれほどの男を迷い道に放り込んで、ここまで惨めな思いをさせたのは、妻の私ではないのか……。涙が滲んできた。
夫が埋めようとしたのは、きっと寂しさだ。己の存在価値を映す鏡が子犬ちゃんたちだったのだ。
妻でも愛人でもなく、いや、妻も愛人も映してくれなくなったのだ。
ただ、子供たちだけが救いだったのかもしれない。だからまだ家に帰ってきてくれる。
ほんとうの意味での浮気、不貞行為に耽るにも至らず。それができない男の欲求昇華する歪んだ姿を、杏里の目の前に曝け出させてしまったのだ。あの人の迷いと苦しみ、いちばん見られたくなかったのは妻だったはずだ。
そんな情けなさを、若い女の子からまざまざと突きつけられる三十代半ばの妻と夫……。
※2017年書き起こした花はひとりでいきてゆく番外編『凛と咲く』で描かれた(大澤夫妻)人物像の設定から多少変更されています。
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