11.花香る
「花南さんはなにも望んでいません。他の子を助けてあげてください」
今回だけは、せっかくの女性職人と変な『しがらみ』を生みたくなく、夫にはっきりと杏里は告げた。
自宅の書斎で、就寝までの仕事の見直し作業をしていた夫が、まだスーツ姿のままで腕組み首を傾げた。
「なあ、あの子。なんであんなに質素なのに無欲なんだ。あの年頃の子はもっと欲があると思っていたんだけれどな」
「はっきり言わせていただきますね。お金をちらつかせれば、若い女性は皆、あなたに感謝して喜ぶとお思いでしたか」
言いたくなかった。樹は表は気高い様相に固めてクールに振る舞える男だが、怒った時は背後に炎を舞い上がらせることは妻としてわかっている。だがここは妻として言わねばならぬことで、時でもある。
さすがに樹も痛いところを突かれたのか、大きなため息を吐いた。
「わかった。もう以後、なにもしようとしないから。ただ、女性職人としてどうにかしてやりたいだけだったんだ」
それは杏里もわかる――と同意してしまった分、ふっと気構えていた力を抜いてしまった。
「わかりますよ。女性のセンスを秘めていて、技術が追いつけば良い品を作り出す原石です。どこかで挫けないよう、修行に没頭できるよう、金銭面で困らないようにしてあげたかっただけですよね」
「そうだよ。でも、いまは俺の力はいらないみたいだな。『まだ』その段階ではないとわかった。あとは杏里に任せる」
はあ? 私に任せると。最初から『私の工房の職人です』と吠えたくなった。
なんだろう。こんなイライラするの、初めてかもしれなかった。
自分が最初から承知していた女性、美紗とは違うから? 花南が若い女性だから? 夫が女性優位で、女性達を助けようとしている心意気はまだ飲み込めるし理解できるし、若い子犬ちゃんたちは恩返しをしてくれて、良い子ばかりだったのも事実だ。彼女たちにはイライラしなかった。
そうしてしばし杏里も夫の顔を見ないようにしておこうと、自宅でもおなじ空間にいることを避けるようになる。
子供たちと楽しそうにお喋りをしている夫を見ても、杏里はその場から『仕事が残っているので』と部屋に籠もったりした。優吾も気がついているだろうなと、わかりつつも。
そのぶん、杏里はいつも以上に工房に足を運ぶことになった。
若い花南が無事に過ごしているか、夫がまた変な接触をしていないかと確認するためだった。
もうすぐ雪が降ろうかという紅葉が終わる時期だったか。
その時に、遠藤親方がまた嬉しそうにして杏里を待ち構えていた。
昔ながらのストーブに火が入り始めた季節で、あたたかに整えられた事務室でそれを見せられた。
花南が造ったというグラスみっつだった。
「どうですか。形をシンプルにして個性を出してみろと指示をしたらこれを造り出したんですよ」
持ち手のない、ワイングラスだった。
無色透明が基調だったが、絵筆ではらったような色ガラスの筋がさりげなく入っていた。グラスはみっつ、絵筆ラインの色は三色。ワインレッドのグラス、ペリドット色のグラス、アクアマリン色のグラスだった。ライン付近にはこれまたさりげない気泡が入っていて、ここに日本酒を注げば炭酸水のように気泡がいつまでも舞い上がっているようにも見えるデザインだった。
形はシンプルだからこそ綺麗に整っていて、デザインは彼女の良さが出ていた。
ころんとしたデザインは手にも取りやすい。持ち手はないが飲み口がすぼまっているので、ワインを入れた後の香の広がり方も考慮した形になっている。
「いいわね。素敵だわ。すぐに売りに出せるわよこれ」
「ですよね! 花南も喜ぶと思います」
「よく思いついたわね。持ち手のないワイングラスという気軽さもセールスポイントになりそう。本来はワインの温度を保つために、指で触れないように持ち手がついているわけだけど。ちょっと気取りすぎなところがあるものね。あと洗浄する時もすごく気を遣う。持ち手がないだけで扱いやすそう」
「美紗さんのカフェで思いついたそうなんですよ。あちらの店も気軽さがウリでしょう。グラスにサングリアをぽんと出してくれる気軽さを見て、思いついたそうです」
なるほど。美紗の店で感性を刺激されてきたのかと納得だった。
あちらも前衛的な考え方でイタリアンを広めたいというシェフのコンセプトがある。それを理解して美紗が引き抜いてきたからだ。
そんなシェフの肩肘張らない食事の提案と、美紗のお洒落センスが、花南にも影響したとわかった。
「合格ですと花南さんに伝えてください。すぐ売りに出しましょう」
「わかりました。できれば、ラインのない無色透明のものをほかの職人につくらせて、こちらはグラスを薄くする技を駆使して量産したいんですけれど」
「いいですね。お願いいたします」
夫の援助などいらない子犬ちゃんで良かったと、何故か杏里は安堵したのだ。
その夜のうちに、今回の報告も夫に嬉しげに杏里は告げた。
しかし夫はまだ諦めていなかった。
持って帰った花南のグラスを見て、満足げに笑むと、いつもの書斎のデスクで杏里に言い放った。
「間違いないな。数年後、彼女のための工房を造る計画でもするかな」
……なんですって。数年後の子犬ちゃん計画を立てていた。
だから彼女はあなたの力など。いや、もうやめよう。
そうこの人にムキになってはいけない。そう思って結婚したのではないのか。
なのになんで、初めてイライラしてるのだろう。
---❄
女三十半ば、社会で戦い抜いてきて、私は気が強くなっているのかもしれない。夫は、ただの外商販売員だった杏里に経営のイロハを教えてくれた人なのに。支えてきてくれた人なのに。理解してくれた人なのに。
今度の杏里は落ち込んでいた。生意気な心を夫に見抜かれていないか、恥じるほどに。
雪が降り始めると、今度はパーティーが多くなる。
年末にさまざまな取引先と集まる社交界的な慰労会が増えるのだ。
夫の樹の代から始めた観光飲食業の関係で、札幌・小樽近郊の飲食関係会社が集うパーティーに参加することになった。
そこで、ガラス工房の商品をセールスするために、展示をすることを許してもらえることになった。
飲食関係の会社ならば、自社のレストランにカフェを持っているところが多い。そこで利用してもらえばという杏里の目論見で、こんな時は夫が手を尽くして交渉を上手く取り付けてくれるのだ。
そこで杏里は、少し前の自分の不満を再び恥じて反省をする。
やっぱりこのやり手の夫なしでは、自分などまだまだ若輩で力もない中年犬なんじゃないかと思えて……。
セールスをするには、職人自らが行うべきだという姑・江津子のアドバイスにより、工房から幾人かの職人を連れて行くことにした。
当然、遠藤親方なしでは行えないセールスで、いちばんよい品質を作り出す長兄弟子と、今回は女性の雇用もアピールしたいため、花南も連れて行くことになった。
困ったことは、花南がほんとうに質素で安価な服しか持っていなかったことだ。だからとて買わせるわけにもいかず、だが、こちらが買ってあげると言い出すと、また花南が遠慮して『では行きません』とか言い出しそうな雰囲気を遠藤親方が察知していた。親方から『杏里さんのお洋服をお借りできませんか』との提案を受けた。
それなら幾らでも。背格好も似たようなもの。ただ若い子に似合う愛らしさとか華やかさを持つ服は持っていないんだよなあと杏里は思い悩む。だったら美紗の――と思ったが。いや花南のイメージとかけ離れているな、むしろ彼女は『私、杏里』と同類のオーソドックスな雰囲気を持っている。
貸してあげるからと、花南を初めて、杏里が住まう大澤家へと連れて行った。
若いお姉ちゃんがやってきて、子供たちがはしゃいで迎え入れてくれた。
その時、彼女が六歳の長男を見てふと微笑んでくれたのだ。
え、この子。こんなふうに優しく笑うんだと、杏里もギョッとした瞬間だった。
「小さい子、お好きなのね」
「はい。姉が遺した甥も、一颯君ぐらいの年頃なんです。小樽に来る前は、突然逝去した姉の代わりに、母と一緒に子育て奮闘をちょっとだけ手伝っていました」
あ、面接の時に『学生のころから姉がいろいろと応援をしてくれた。亡き姉のためにもそれに応えたい』と言っていたことも思い出した。
花南が言う『兄』は、その亡くなった姉の夫のことを言うようだった。
姉は交通事故で他界したようで、当時三歳だった男の子がお義兄さんと遺されたのだとか。ちょっと子育てを手伝う――は、取り残された幼児を家族全員で落ち着くまでサポートしてきたという意味らしい。
もしかして。実家が大変だから、あまり頼らないようにしている?
雇い主杏里はやっとその思いに至る。花南が若くして落ち着いているのも、姉が逝去しているせいもあるのかもしれない。
リビングに通すと、優吾が上等なお茶を煎れて待ち構えていた。
まずはリビングのソファーでゆったりくつろいでもらう。
子供たちが始終花南にまとわりついていたが、嫌な顔ひとつもせずに、優しく息子たちに対応してくれる。
その合間に、優吾が準備してくれたお茶を花南が味わう。
ティーカップを持つ仕草、そっと口に運ぶ仕草――。ふわっとそこに広がった花のような芳しさ。それに気がついた杏里は見とれていた。それは優吾もだった。品格ある仕草だった。ただ無骨にガラスだけを吹いてきた女の子が自然に持っているものではないと感じたのだ。
「あら。お客様? ぼっちゃんたちにシュークリーム買ってきたんだけど」
またふらりと、姑の江津子が訪ねてきた。
だがグッドタイミング。花南にまとわりついてばかりいた息子たちが『お祖母ちゃん、お祖母ちゃん、しゅーくりーむ、くりーむ』と飛びつき先を変更してくれたからだ。優吾もホッとして、子供たちをダイニングへと連れ去ってくれた。
「もしかして、そちらが噂の花南さんかしら」
いまは副社長に控えている義母が、今日もエレガントなスーツ姿で花南の前で胸を張った。なにげに人に威厳を張る義母の威嚇というか、もうこの人の癖みたいなものだから、杏里は苦笑いをこぼす。
助け舟を出そうとしたが、花南は怯える様子もなく泰然と姑に挨拶をした。
「お邪魔しております。副社長」
姑もなにか感じ取ったようだった。
「あなたの作品を見せていただきました。マグノリアのキャンドルホルダー、惜しいわね。いつかあれが製品と認められるようになったら、このおばばも欲しいくらいよ。頑張ってね」
「ありがとうございます。精進いたします」
「認められたワイングラスも素敵ね。今度、ひとつほしいわね」
花南が困ったように杏里へと視線を向けた。
「わかりました。親方に依頼して、お母様用に彼女に吹いてもらいますね」
「あら、うれしい。楽しみにしておくわね」
ダイニングから子供たちが『ばあば、ばあば』と大合唱を始めたので、義母もすっかり表情を崩して、孫に呼ばれる方向へと消えていった。
なんか堂々としていたな。あの義母を目の前にして、おどおどしない二十代の娘さんなんて初めてみたかもと思った杏里だった。
紅茶でひと息の後、杏里の部屋で似合いそうな服を試着させた。
白やベージュなど、明るい色で若々しく見せようと思ったのに。杏里が『これは……』としっくりしたのは、黒いドレスだった。そう派手な装飾もなく、露出もない、胸元は艶があるサテン、スカート部分はフレアラインで総レエス、ボリュームが出ているものだった。
急に彼女が上品な空気を纏った。その驚き――。
いちおう姑にも見てもらおうと、着せたまま花南をダイニングに連れて行った。
そこに。日中なのに何故か夫がいた。
「樹さん、どうして」
意味深な笑みを浮かべる夫が、ドレスを着込んだ花南を見つける。
夫もはっと驚き、茫然と立ち尽くした様子がわかった。
夫も気がついた。この若い彼女が、ただの若い女の子ではないかもしれないことを。
それはそこにいる姑も、優吾もだった。
彼女はこんな服を着慣れている。上等な紅茶も飲み慣れている。それがわかる者たちがここにいる。
フォーマルな黒ドレス姿になった花南に、夫が目を輝かせて歩み寄る。
「これはこれは。お似合いだ」
子犬ちゃんを見つけた目だった。
工房オーナーの夫だからと、花南は楚々と『ありがとうございます』と頭を下げたが微笑んでいなかった。彼女が警戒しているのが杏里に伝わってきた。
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