10.子犬ちゃん、ほしいものある?
ススキノの子犬ちゃんと面会してからしばらく。
美紗にも変化が生まれた。
「私も働きたいな」
美紗は二十代のころ、一時期、地元のかまぼこ工場で働いていた時期がある。PTSDと流産を繰り返してから、療養をするために樹を支える専業主婦のような生活に切り替えたという。
甲斐甲斐しく彼を夫のように世話をする穏やかな日々は幸せだったという。自分がなれなかった『大澤家の妻』になった杏里が、姑が望むままに仕事に奔走していることを知りながら、やはり気にしないようにして、杏里があまりすることがなかった『家で待つ妻』の役割を彼女がしてくれていたのだ。
愛する彼女が帰る家で待っていて、激務の日々を癒やしてくれる甘い日々は、夫の樹にとってもかけがえのない日々だったことだろう。
そんなことは契約妻である杏里にはわかりきっていたことだった。
だが、三十を超え『ただ広く遠く淡い愛』に穏やかに変わっていく中、美紗も中年になり、愛だ恋だと追い立てられる二十代を通り過ぎた者たちが、地に足をつけ社会に貢献していく姿を見ると不安になったのではないだろうか。女は恋をして結婚をして子供を産み、また新しく社会に出て行く。自分だけが可哀想な生い立ちだから仕方がないのだと、男の庇護の元、優雅に生きている。追い立てられた不安を募らせ、美紗は日傘を差して、あの公園に立っていたのだと杏里は思う。
そこまで彼女の心情を読み取ったからこそ、杏里は美紗の新しい望みに問いかける。
「なにをしたいの」
「私もお店をしたいな」
「どんなお店。本気なら樹さんにサポートしてもらったらいいじゃない」
だが、美紗がどうしてかそこを断固拒否した。
もう樹には助けてもらいたくないのだと。子犬ちゃんとおなじ扱いなど嫌だと妙なプライドを発揮したのだ。
そこで杏里も気がつく。あ、私を頼っているのかと――。
「わかった。だったら、どんな方法でもいいから、やりたいイメージを教えて。夢を見すぎるぐらいのものでもいいから。白い紙にイラストを書いてもいいし、考えていることを箇条書きでもいいし、好きなものを雑誌から切り抜いて貼り付けても良いから」
美紗は目を輝かせ、杏里の指示通りにすぐに『夢の提案スケッチ』を仕上げて持ってきた。
それがあの『坂の上のイタリアンカフェ』だった。意外としっかりとイメージ出来ていて、雑貨選びのセンス、店の間取りもプロが描けばすぐに形になりそうなものだった。ガラスのショップとガラス工房を経営している杏里なら、その気になったらすぐに準備できそうなほど、光るものがあった。
しかも美紗は『気になるシェフもいるの』とそこまで目星をつけていた。変な言い方だが、樹に連れられてあちこちレベルの高いところに長いこと通っていたことが、美紗の肥やしになっていたようだった。
美紗のプライドも大事にしたかったが、今度の杏里は動く前に、社長である夫に許可をもらうため、きちんと報告することにした。
美紗の気持ちを告げスケッチを見せ、自分が作った企画書を渡して判断してもらうことに。結果は『やってみたらいい』だった。
出資は杏里がして、数年は杏里がオーナーとして開店をした。
シェフは美紗が一発でスカウトしてきたので驚いた。
小樽の海が見える坂の上。そこでイタリアンのカフェを美紗が主導で営むことになった。杏里の指導の下、美紗は仕事をすぐに覚えていった。
杏里が見守ること数年、経理についても美紗に任せても安心できるほどまでに習得したので、彼女にオーナーの権利と名義を譲渡した。
その頃から。夫と美紗に距離が出来た気がしている。
夫は子犬ちゃん拾いと援助に精を出し、愛人はカフェ経営に夢中になった。
そして杏里は、子育てと大澤の事業に邁進する。
「倉重花南です」
本人と面接する日が来た。
シンプルなカットソーとジーンズだけの質素な女の子だった。
化粧気もなく、髪型もただ伸ばしているだけ、自分でカットしているのではと思うぐらいに洒落っ気がない。なのに、妙に色香がある……。杏里はそう思った。
面接として、オーナーの自分と親方の遠藤が並んで対面したが、遠藤親方はずっと楽しそうにしていた。
大学で何をしたのか、どんな創作活動をしてきたのかと、いままで面接でそこまで聞かなかっただろうと思うぐらいに彼女に興味を持っていた。
では。今日は実技試験もということで、コップをひとつ工房で作ってもらうことに。
細身の彼女が130センチのステンレス製の吹き竿を手にして、溶解炉の中にある溶けているガラスを巻き付ける。
竿を口元にくわえ息を吹き込む。下玉を作りまた溶解炉に竿を入れ、次は上玉。新聞紙で転がして形を作って、焼き戻し炉で形を維持させ……。手慣れていた。
無表情に淡々とこなす姿に、彼女の本気と、ガラスを見つめるひたむきな眼差しに純真さを感じた。
「親方。採用でいいですね」
「はい。育てあげます。必ず――」
履歴書を見た時よりも、親方と気持ちが揃い、ともに確信をしていた。
女性の職人としての感性を見てみたいと、杏里の胸に期待が広がった瞬間だった。
彼女はすでに住まうアパートも自分で見つけて手配をしていた。
なんでもひとりでこなしていて感心する。
住んでいるアパートを確認したが、かなり質素で安い物件で、女の子の独り暮らしなのに、ここでいいのかと杏里は心配になった。北国での暮らしも初めてだろうに、氷点下の真冬を乗り越えられるのかとさえ。とにかく親方に『若い女の子だから、気をつけて見てあげて。なにかあったらすぐに私に報告をして』と伝えておいた。遠藤親方も、彼女になにか感じるものがあるのか『大事に育てたい女性職人』として、かなり気遣うようになってくれた。
それでも、人柄が良い遠藤親方が、職人としてはどれだけストイックか。気に入らない仕上がりのガラスは残さない主義で、すぐに叩き割って破棄する潔さを持つ人だ。花南の最初の洗礼はそれだった。
やってみろと言われた課題で吹き上げたグラスをすべて、親方に叩き割られたそうだ。
それだけ厳しい親方だということを杏里は知っていたため、日々彼女が厳しく叩き込まれていく様子も、はらはらしながら見守っていくように。それでも杏里の予想を裏切って、花南は黙々と師匠の教えに沿ってガラスを吹いていく。そこに彼女にも『引くわけにはいかない』決意が見え隠れする。そのうちに技術が目に見えて向上しはじめた。
遠藤親方は、業務外の時間に職人たちには好きな創作をさせるようにしていた。できあがったらそれを見せるようにとも。そして杏里もその自由創作は必ず目を通すようにしていた。
やはり狙ったとおりだ。花南は女性ならではの柔らかで華やかなセンスを見せるようになってきた。こういうものは男性職人では滅多に出さない。そういうものだ。女性が見たら心躍る美しいものがなにかわかっている。
その製品を、同じようにガラスが好きな姑がどう評してくれるか知りたく、自宅に持って帰ってみる。
数日に一度、孫の顔見たさに訪ねてくる姑に、倉重花南の作品を見せた。
「まあ、不格好な作品ね」
「まだ思うように表現ができないようですね」
「これ、なんのつもりなの」
テーブルに並べられたのは、七つでワンセットの作品。
杏里もその拙さに惜しい気持ちが止まない。
「マグノリアのキャンドルホルダーだそうです。大小中、それぞれ大きさが違う木蓮の花の中にキャンドルを灯して、部屋の照明をおとすと、幻想的に浮かび上がるというデザインだったようですね」
それを聞くと姑の顔つきが変わった。
「まあ、素敵じゃないの。あー、もうちょっと上手に作れたら、確かに最高だわ」
「あとこのアンティーク調の磨りガラス仕立てな小皿も見てください」
「あら~ほんとうだわ。センスがいいのに、なんて不格好……。はあ……、ともかく技術があればってことなのね」
「センスはいいですよね」
「それが揃う日はいつかしらね。女の子でしょう。途中で結婚するとか言いだして、職人を辞めちゃうんじゃないかしら~」
まあ、そうなる女子がほとんどだと杏里も思う。
ただ、なんとなく、彼女に関しては違和感。あの倉重花南という年若い女の子は、妙に達観している雰囲気があって、ガラスを吹くことに鬼気迫る迫力も感じるのだ。どことなく、思い詰めているというか……。あの年ごろなら、もうちょっとはしゃいだり、若い故の誘惑に負けるような娯楽を楽しんでいる様子もない。ガラスだけが自分の生きる道と思わんばかりの入れ込みようだった。
遠藤親方に気に入られたのも、その強い思い入れが伝わったからだとも思うが、そんなストイックな親方でさえも『もうちょっと肩の力を抜いて、息抜きができないか』と案じている時もある。
それでも技術が追いつけば、姑でも素敵と言ってくれるほどのセンスがあることはわかった。
「母さんが来ていたのか」
「おじゃましていますよ、社長さん」
母親が訪ねてくるのも日常的なので、樹はなんとも思わず母に背を向けて書斎へと去ろうとしていた。だが、ちらっと見たテーブルにあるガラス製品に気がつく。
「なんだ、それ。遠藤親方のところの弟子の創作か」
「そうです。例の山陰からやってきた女の子が作ったものだけれど、お姑さんから見て、どう感じるか知りたくて持ってきました」
「ふ~ん。まだまだって感じだな。大きさが異なって七つもあるそれはなんだ」
「木蓮のキャンドルホルダーです。夜、七つ幻想的に浮かび上がるようなデザインになっているようですよ」
「へえ……」
夫の目の色が変わったのを見た気がした。嫌な予感しかしない。
それから少し日が経ちしばらく。ガラス工房にも定期的に訪問している。今日も煉瓦造りのガラス工房の事務所に入るなり、遠藤親方が困惑した様子で杏里に飛びついてきた。
「え、夫がここに訪ねてきて、花南さんを援助したいって言いに来たの?」
「はい。彼女の助けになることで、いちばん役に立つことはなにかと仰せでした」
杏里は額を抱えて若干ふらっとよろめきたくなった。
事務所の応接テーブルにて、詳しく事情を聞いてみる。
突然、夫がアポなしでガラス工房に訪ねてくると、職人たちがガラス制作している工場を見学して、しばらくすると、事務室にて花南のことについていろいろ聞かれたとのこと。
『彼女、何も持っていなさそうだよね。アパートも質素で安いところみたいだし。もうすぐ冬になるけれど、もっといいところに移したほうがいいんじゃないかな。あと、職人になるための最良のサポートはなにか教えてほしい』と聞いてきたそうな。
遠藤親方の返答は。
「アパートに関してはそれはそうなんですけれど。職人になるための最良のサポートとなると、工房が存続すること、安定した生産が維持できる職場であること、製造したものを販売するルートが安定していること、あと給与ですかね。ですが花南だけ給与を上げるわけにはいきませんから、それは他の先輩職人の手前、絶対にやってほしくないと断固お断りしました。特別扱いされた花南の立場も悪くなります。これが最高の腕を持つ職人を引き留めるための給与アップならわかるんですけれど。未熟な新人ですよ」
「……親方のいうとおりです。ほんと、『夫』が申し訳ありません」
「いえ。なんとなく、奥様であるオーナーと、時々遊びに来る美紗さんから、最近の『社長のお楽しみ』を聞いていましたので、『これかあ』と納得しました」
子犬ちゃん1号だった『ススキノネイルちゃん』は、約束どおりに腕とセンスを磨いて、いまは独立開業。ススキノで札幌の若いOLさんやキャバ嬢を相手に安定した経営を成功させていた。
それと同様にと思ったのかもしれないが、花南はすでに美大で基礎を学んで卒業しているので学費サポートはいらない。職人の腕を上げるについても、大学の教授とともに創作活動をしていた時期もある。『職人になるためにサポートできる資金援助』となると、ひよっこでも職人だからなにもないし、ひたすら彼女がガラスを吹くだけが腕を磨くこと、お金は必要ない。彼女の環境をよくしてやるならば、親方が言うとおりにこの工房の職場環境を良くすることしかない。あとは若くて生活水準が低いようだから、そこのサポートならまだなんとか。
「花南さんには伝えたの」
「まさか。私もまだ直撃されたばかりで混乱しておりますのに」
「アパートについては私も心配していたのよ。わかった。私から彼女に『女の子だから会社の住宅手当として』、いいところに移れるからどうかと聞いてみる」
遠藤親方も『そんなことで社長が満足するのか、または、花南はべつに望んでいるわけでもないし』と心を乱していた。
そして杏里は思いきって、花南に『女の子が住んでも安心な物件に』と勧めたところ。『必要ありません』ときっぱり断られた。とくに良いところに住もうとも思っていないし、男を入れるつもりも一切ないらしい。ご実家のご両親はどう思っているのかと聞くと『私の自由にさせてくれるので、なにも言われません』だった。
「なにか、してほしいことはある?」
なんで私、夫の変な趣味のためにこんなこと聞いているのと杏里は自分でも呆れながら問うていた。
だが杏里も興味が湧いてくる。なんで、なんでこの子、こんなに無欲なの――と。
今日も無地のシンプルなTシャツに作業ズボンという質素な服装に、工場エプロンをしている彼女が、無表情に返答した。
「ありません。ガラスさえ作れたらそれだけで満足です」
これはあり得ないが何度も聞かないために杏里は踏み込む。
「将来、あなたのための工房を作ると言ったら?」
なんとも言えない、もの凄い顔をされた。無表情な彼女が初めて露わにした変化だった。嫌悪されているとも喩えられるし、こちらがただただ困らせているようにも見える顔だ。
「私に工房ですか。遠藤親方に毎日、出来上がりを割るように判断されていますのに? 何年も後になりますし、いまなら一ヶ月で潰れますよ。たぶん、実家の父や兄はそう言うと思います。なんのためにそこまでしてくださるのですか。私、ここにいることになにか不都合が……あったの、でしょうか……」
あ、この工房から追い出すように聞こえた? 紅一点の職人だから、男世界である工房の輪に馴染まないと思われた? まずい。杏里も焦った。
「違うの。この前、あなたのキャンドルホルダーを見て、こちらの会社側であなたの将来性に期待して、ちょっと話が飛躍しているだけなの。気にしないで。この話はここでお終いにします。安心して、ここで精進してくださいね」
ああ……。二十五歳にもなっていない女の子に、振り回される社長と工房オーナーと、ベテラン親方。
不思議な子。杏里は一歩引いて花南を見守りながら、彼女に真っ当な発言を自然にさせた『父と兄』がちょっと気になりだした。
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