9.夫の子犬ちゃん


 女ふたりが連絡を取り合うようになると、杏里の仕事の合間に、一緒にランチを取るようになった。

 子供と一緒に公園に行くことも。日帰り温泉に行って、贅沢にエステを堪能して杏里のリフレッシュ休暇の相手をしてもらうことも。


 そんな女たちのことを気づいていたのかどうか、そうすると男の生き方も変わってきた。



---❄



 優吾に子供たちを預けて、美紗と食事に出かけたときだった。


「ねえ、最近。樹がおかしいことをしているの。杏里ちゃん、気がついている?」


 一人では焼き鳥屋に入るのが恥ずかしいという美紗のリクエストに応え、今日は女ふたり、冷酒を囲んで遠慮なくがつがつ食べている。いつもフェミニンで上質な服装を好む美紗が、またため息をついて冷酒のグラスを口元で傾ける。

 対して杏里は仕事帰りで、紺のワンピーススーツ。ふたりとも品格を保つために品質重視の服を選んでいるが、対照的なファッションだった。


 杏里もレバーの串を頬張りながら首を傾げた。


「なんにも。いつもどおり、仕事をして、あなたの家で数日過ごして、こっちにも子供と過ごすために帰ってくるというかんじだけれど?」

「なんかね。あいつの携帯に女の子からメールが届いているんだよね。携帯を開いて見ているところを遠いところからじっと見ていたら、絵文字使いが派手なの。ハートもいっぱいあった」

「え……!?」


 杏里にとっては寝耳に水。大澤倉庫の威厳ある社長で、自宅では頼りがいあるお父さん。杏里には仕事の相棒で、いつだって落ち着いて凜々しくそこにいる。女の影なんて、美紗しかちらつかない。いや、仕事をする妻として結婚したから、そもそも自分は女の勘が鈍いのか。そう思ってしまった。


「別に。いいんだけどね」

「いいの!? だって樹さん、そんな人じゃないのに」

「たぶん。私と杏里ちゃんが内緒で会っていること、気がついたと思うんだよね」

「そ、それは……。報告する、べき、こと、?」

「そうだね。報告しづらいよね。私も言うべきかずっと迷ってるの。正妻と愛人だから互いに邪魔をしないという約束だったのに。でも、私、いまはもう、杏里ちゃんは親友というか」


 親友か。杏里はまだその言葉は言い切りたくないなと思っている。

 言い切ってしまえば。美紗が愛人ではなくなるような気がしている。彼女が愛人であることで、樹と美紗の愛が続いているからだ。

 ほんとうは良い頃合いで杏里が離婚をすればいいのだと思いもする。離婚しても、いまの杏里には『大澤倉庫の専務』という肩書きをもらっている。以降は仕事関係だけ残して、大澤家と付き合えばいい。いや、やはりダメだ。息子たちが成人するまでは、大澤家の嫁、妻、母でいなければ……と思い至ると、離婚も容易ではないと思い至って今になる。

 

 そうか。夫に言うべき時かな。美紗とのこと。女同士で通じて意気投合してしまったことを。妻と愛人でも、友人になってしまったことを。


 美紗が『若い女の子からメール』と正妻の杏里に報告してくれたのも、『きちんと知っておいたほうがいい』という意図からなのだろう。


 その日、美紗との食事を終えて帰宅すると、夫の樹はもう帰宅していた。

 意を決して、美紗との関係をまず報告しよう。

 ダイニングテーブルで、優吾が作った食事を食べている夫のところまで、杏里は歩み寄る。


 今日も変わらず、上質なスリーピースのスーツを着こなしていて、でも、帰宅したのでネクタイは外している。腕の黒い時計は杏里が結婚記念日にプレゼントしたもので、最近よくつけてくれている。

 いまも端麗な横顔を見せてくれる樹は、三十代半ばになってますます男ぶりが増している。彼がその気になれば、どんな女性も手に入るほどの財力に容姿を持っている。

 その男が、妻でも愛人でもない方向を見始めている? そう思いながら、杏里は思いきる。


「あの、お話しが……」


 キッチンで片付けをしている優吾がいたので、ダイニングで言い出すことを杏里は躊躇う。

 優吾が察したのか『寝かしつけた子供たちの様子を見てくる』と、気を利かせてダイニングを出て行った。


「なんだ。今日は外で食事をしていたみたいだな」

「はい。……実は、」

「美紗と?」


 やっぱり。知っているんだと杏里は驚愕しつつ硬直した。しかも、杏里がそろそろ報告するだろうことも察知していた?

 彼がため息を吐いて箸を置いた。


「隠していたつもりも、ほんとうはないんだろう。どうせ優吾が先に気がついて『これは兄さんに言っても大丈夫、これは言わないほうがいい』とより分けて、俺に報告してくれるから」


 と、いうことは元警官で探偵の優吾君の判断は『報告して大丈夫案件』ということだったらしい。


「黙っていて申し訳なかったです」

「いや……。かえって女同士で、そんなふうになれるんだという驚きがあったと同時に。美紗に相談相手が出来て安堵した部分がある。受け入れてくれてありがとうな」

「そんな……。隠すように会っていたのに」

「俺が、正妻と愛人としての関係を、いちばん最初に無理矢理に押し付けてしまったんだ。そのことについての『義理』は、もう果たしてくれたよ。とくに美紗は人には凄く警戒をして近寄らないし、当たり障りない付き合いだけにして心は開かない。俺と優吾だけだったんだ。同性という意味で、杏里のことを信頼していたんだと思う。俺も優吾も、母も信頼する女性という意味で、美紗も杏里のことは間違いがない人間と思い始めていたのだろう」


 彼女がもの凄く思い詰めた顔で、日傘を差して現れた日のことを杏里は思い出していた。


「勝手に。子供たちと美紗さんを会わせていました」

「俺から会わせるわけにはいかなかったから。正妻の杏里が許せるなら、いいのではないか。それで、今日はどこに食事に行ったんだ。札幌まで出て行ったのか」


 杏里は首を振りながら『焼き鳥』と答えると、樹が非常に驚いた顔を見せる。


「は? あの美紗が。焼き鳥? 嘘だろ。いつもラグジュアリーを求める女だぞ」

「女一人では行けないからと言っていましたよ。樹さんと一度も行ったことがないのも不思議なんですけれど?」

「俺も焼き鳥とかは、一人でいくか、取引先の付き合いでいくかだな。なんだよ。焼き鳥屋に行きたいと言ってくれればいいじゃないか」

「女性でいたかったのではないですか。あなたに似合う上等な女性であることを努力してきたんだと、私は思っていますけど」

「うーん。ま、若い時はそうだったかもな。というか、若くなくなって、焼き鳥屋に興味を示したとしか思えないんだけどな~。なんだよ、俺も行きたくなっただろ」


 じゃあ、三人で行きましょう――も、言えない仲で、杏里はその言葉をなんとか飲み込んだ。


「でも。俺と行こうというと、美紗は『私はそんな煙くさいところに行かない』とか言いそうだな」


 なるほど。愛する男性の隣で、煙の匂いの付いた髪でいたくないのかもしれない。ほんとうに『女性でありたい』ことを追及してきたのかもしれない。


「それはいいよ。女同士で好きにしてくれ」

「ありがとうございます」

「俺も杏里に話がある。というか、専務に――」


 なんだろうと杏里は首を傾げる。食事を終えた彼がテーブルを立った後、杏里も彼の後をついて書斎へ向かう。




 樹の自宅での仕事場にしている書斎に入ると、デスクに座った彼に、ひとつの書類束を出された。

 束の先頭、いちばん上は女性の写真が貼られている履歴書だった。

 まだ二十代でも幼さを残している女の子だった。茶髪で少し派手な雰囲気が見て取れる。なんのための『採用』かと、杏里はその書類をめくった。


「ススキノで拾った子なんだけどさ。その子に援助をしているんだ」


 援助? なんの援助。杏里は眉をひそめる。


「美紗のような生い立ちで、必死で抜け出そうとしている。夢はネイリストだ。なんとか学校に行くために、ススキノのキャバクラで稼いでいる。その援助だ。いまはスクール代を援助している。プロフェッショナルコースに進級するところで、資金が尽きそうだとかでね。でもこっちも、ただ金を貸すわけにはいかない。契約をしたうえで、出世払いだ。よくある『口約束の出世払い』ではなく、きちっとした契約にしてほしい」

「……社長は、この子なら成功すると見越してのことなのですね」

「ああ。上手く立ち回るんだよ。胸がスカッとすることがなんどかあってね。そのかわり、将来、うちの稼ぎになることを約束させたんだ。うちの観光グループのどこかに、ネイルサロンを置くことができないかなと。俺はネイルはしないから、そこのところ、専務が見極めてくれないか。将来に関する援助はそれからだ」


 こんなことを始めていたのか。

 そこで、杏里はふと思ったのだ。この夫は、力ない困っている女性を見ると放っておけない性分を持っている?

 美紗は悪環境の家庭から抜け出せた。杏里も毒親から逃れてキャリアを積む環境をもらった。今度は、この若い子?


「頼むよ」

「かしこまりました」


 杏里は『専務』として答えた。

 ずるいな。男として怪しいと思わせながら、ビジネスとして『ちょっと面白い』と興味をもたせて、杏里に女として『私たちと同じように抜け出るように』と心をくすぐらせるだなんて。


 専務として引き受けた以上、杏里も動かねばならない。

 その夜。杏里も仕事用にと持っている自室で、美紗に連絡をする。


「一緒に会ってくれる?」

『わかった。私も行く』


 ネイルなんて杏里もしない。

 美紗のほうが見る目があるだろう。


 この時からだ。夫が若い女の子を拾っては援助をするようになったのは。世間で騒がれ始めた『援助交際』と思われそうだが、れっきとしたビジネスを正式に挟み込んで、最後は正妻であって専務の杏里に判断させるということをやりだすようになった。


 このことを、美紗は後に『樹が拾ってくる子犬ちゃんたち』と喩えるようになった。



---❄



 樹が拾った子犬ちゃんと札幌で面会することになった。


 ホテルの一室に呼び出し、そこで美紗にネイルをしてもらう。


 緊張した面持ちで、まだ勉強中という拙い手つきで若い彼女がネイルを施す。茶色の髪だが、この日はナチュラルなメイクをして、ビジネススーツを着てやってきた。常識は弁えている。


 だが美紗の爪を整えている子犬ちゃんが、ふと呟いた。


「大澤社長、素敵な男性ですよね。奥様もご友人も思ったとおり素敵な

方、お似合いのご夫妻にお知り合いなんですね」


 若い彼女から話しかけてきたのは、キャバクラ嬢という仕事柄、空気をほぐそうとした気遣いにリップサービスかと杏里は思った。

 だが彼女にも多少の狙いはあるようで……。


「その気があるようで、ぜんぜんお堅くてなびいてくれないって、私のお店の女の子たちは毎回悔しがっているですよ。……私も、うっかり夢中になりそうになるくらいには、ちょっと罪な方だなって。でも、大人の魅力ある男性だから、そうして上手く付き合って、大人として上手くあしらっているだけなんですよね。私は諦めて、お力だけ借りたいなと思いました」


 正直な子だなと杏里は少しだけ笑みをこぼした。『胸がスカッとする立ち回りをする』と夫が楽しそうに語った彼女の姿が想像できた。男に熱を上げて我を忘れて自ら心を壊すような女の子じゃない。だから樹に選ばれたこともわかった。


 だが美紗はちょっと違うことを、子犬ちゃんに言い放った。


「こちら、大澤倉庫の専務さんで、奥様なんだけれど。私は愛人ね」


 若い子犬ちゃんがさすがにギョッとした。


「もし、大澤君とどうにかなりたいな~って思う子は、愛人二号になるからね。それも考慮するように。あとね、こちらのお母様、仕事が出来る女性じゃないと嫁として認めないの。お母様自身がビジネスマンだから厳しいわよ。その姑に嫁に来いと請われて大澤家に来たのが、こちらの専務さんで正妻さんね。新規参入する場合は、第三号としてもぜんぜんOKということが条件だからね」

「ちょっと。美紗さん!」


 杏里と一緒にいるときは、儚げな愛人のように見えていたから杏里も仰天している。

 子犬ちゃんもぽかんとしていた。だが、この子はやっぱり賢いのかな。すぐにおかしそうに笑い出した。


「心得ました。大澤社長にお熱すぎる子にそう言っておきます」

「よろしくね」

「……そうでしたか。知りませんでした」


 だからやっぱり店でも言えない。その子には『お姑さんの条件が厳しい』とだけ言っておくと約束してくれた。


 できあがったネイルを美紗がしげしげと確認をする。


「う、ん。及第点かな。だってまだプロじゃないもんね。ネイルチップとか作っていないの」


 ネイルチップって、あの魔女の爪みたいなやつかなと、杏里はネイルに関してはそれぐらいの関心しかない。


「いま通っているスクールの課題で作ったものと、自分で創作したオリジナルのものです」

「うん、素敵なものいっぱいね! いいんじゃないかな。これから、ネイルの修行一本に絞ったら。サロン開いたら私にまたやってちょうだい」


 愛人の美紗に認められたとわかって……。何故か子犬ちゃんが派手な茶髪の中でうつむいてしまった。涙がぽとりと落ちたのがわかる。


「が、がんばります」

「私、どうしようもないシングルマザーの母親から逃げてきたの。あなたも頑張って逃げ切って」

「……はい……」

「応援しているからね。困った時は、この専務にすぐに連絡するといいわよ。ね、いいわよね。杏里さん」

「もちろん……」


 だめだ。また樹と美紗に巻き込まれたと、杏里は諦めた。

 この後、樹の子犬ちゃん拾いが何度もあって、美紗は黙認したり偶に若い彼女たちの手助けをするようになった。でも最後に、子犬ちゃんたちを『どこでどう据えるか』は杏里の仕事になる。


 しかし数年後。その子犬ちゃんたちの恩返しも大澤を助けてくれることに。それでも夫の子犬ちゃん拾いには、杏里はいつも骨を折って立ち回ることになってしまっていた。


 そして、七年後、現在。

 美紗が坂の上のカフェを持つようになり、夫が久しぶりに拾おうと狙っている子犬ちゃんが、ガラス工房に新しく入ってきた『倉重花南』だった。


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