8.穏やかに淡くなる
小樽の淡い海が広がる高台の公園。午前の爽やかな風が吹いてくるそこで、女ふたり並んでベンチに座った。
なにを話せばいいのかわからない杏里が、ご無沙汰ですという挨拶も躊躇っていると、美紗はすぐ目の前に置かれているベビーカーに笑いかけていた。
「かわいい。樹に似てる」
すぐに、杏里の膝の上にいる長男にも目線を落とした。
「お兄ちゃんも、パパにそっくり」
彼女の目がすぐに潤んだのがわかって、杏里は青ざめる。
長年愛した男の子供を産めず、彼のために『産む仕事』は泣く泣く正妻を迎え任せた。そんな叶わぬ愛の結晶をどんな気持ちで見つめて、どんな気持ちで会いに来たことか。おなじ女として、なおかつ母になった杏里にはわかるから。
「写真も見せてくれないものだから。どんな男の子たちか気になってしまったの。突然、連絡もなしに待ち伏せなんかしてごめんなさい」
美紗が涙を拭って、哀しげに眼差しを伏せた。
それは知らなかった……。二人の関係については無関心を決めていたから余計にだった。でも、それもそうか。愛人に他の女に産ませた子供の写真を嬉しげに見せる男なんて、嫌な男でしかないだろうし、樹もわかっていたのだろう。
でも長男の時も、次男の時でさえ、『杏里に産んで欲しい』と懇願したのは美紗でもあった。
だから……。
「だっこ、してみます?」
「え、でも」
長男の一颯は少しずつ他人と親を見分けて感情を出すようになったので、美紗のすぐ隣、ベンチの上にちょこんと座らせる。ベビーカーに寝そべって、ただ手足をぱたぱたとさせて外の空気を感じ取っていた次男の一清を、杏里はだっこしてベンチに戻った。
「いま、四ヶ月ぐらいかな」
「え、え、え。私、あんまり触ったことなくて」
「大丈夫ですよ。もう首も据わっていますから。こう、こことここ、この手でここを持って」
怖々している美紗に、半ば強引に次男を腕の中へと移した。
その瞬間、怖々していた美紗の腕がしっかりとして、次男がふわっと優しく包まれた感触が杏里にも伝わってきた。
「やわらかい……、あったかい、いいにおい」
目尻にまた涙を光らせ、でも今度の美紗はとても幸せそうに微笑んだのだ。それこそ聖母じゃないかと見紛うほどに清らかだった。
「美紗さんが望んだから、産まれた樹さんの子です。私、産ませてもらった。そう思っていますから」
杏里のそのひとことに、また美紗が
こんな純粋な女性なのに。どうしてこの幸せが彼女の腕に舞い降りなかった。杏里は神を恨みたくなる。すべての子供に真っ当な親を与えてくれない神にも文句を言いたくなる。
樹から、美紗の生い立ちについては大方教えてもらっていた。
小樽の片隅にある小さなスナックでチーママとして母親は働いていたという。
だが素行が悪い。男にだらしがない。店の客とすぐ親しくなって家に連れ込む。娘に対しては適当にあしらい、食事もろくに与えない。よくきく『給食だけで充分だろ』というネグレクトな母親。小学生のころに、美紗はすでに家事を自ら行い、洗濯も掃除も率先してやって、なんとか身なりを保っていたらしい。
樹と美紗は同級生で、地元の中学校で出会った。どちらも多感な年頃の時に、毒親に苛む日々を送っていた。
これも同級生にはよくあることだが、クラスの美男と美女はすぐに惹かれ合うものだ。周りもあたりまえのようにして、容姿が釣り合うふたりは彼氏と彼女になるものだといつのまにか認めていく。
樹も美紗も当然、お年頃同士、意識をして距離を縮めていく。会話をかわすようになると、互いの親が普通の親ではないことを知る。苦渋の日々を十三、四歳のふたりで慰め合い、励まし合い、助け合う日々が始まる。
美紗と樹は自分たちのことを『腐れ縁』だという。
だが杏里でも生い立ちを聞けばわかる。子供が子供らしくいられる時期に心をズタズタにされて、子供ながらに気持ちを寄せ合って耐えてきた戦友だということが。そのうちに、成長に伴い、ふたりが男と女として若いままに惹かれ合うのも自然なことだったのだろう。
樹は札幌市にある高校へ通うために市内中心街へと小樽を出て、美紗はそのまま小樽市内の高校に進学。週末にJRの列車に乗って、互いに会えるよう行き来していたという。
美紗は高校生のころから、既に男の目線を集める容姿になっていたらしく、彼女が望まないトラブルも起きるようになると、樹も気が気ではなくなっていったそうだ。
特に酷かったのが、母親がとっかえひっかえ自宅に呼び込む男たち。よく聞く話だが、母親よりも年頃に成長した初々しい娘へと、男達は目移りをしてその隙を狙う。美紗はいつも警戒し、恐ろしい目に遭う度に樹に連絡をしていたそうだ。いつもギリギリに逃げ切る。だがこんな毎日にすり減ってきた美紗の精神が疲弊して、徐々に逃げる気力を失ってくる。
そんな時に、ついに娘に嫉妬した母親が、恋人ではない男に娘を売ろうとした事件が起こった。
そこで救済に乗り出したのが、樹の母親だった。すぐに保護をして警察に通報、児童相談所にも通報。彼女の母親は買春行為で逮捕されたとのこと。
やがて二人は高校を卒業する。樹は道内の大学へ進学。美紗は就職をした。そのころ、成人を目の前にして大人の熱愛を交わすようになった二人に子供ができた。
結婚を決意したふたりは、大澤の父へと許しを請いに挨拶に出向く。
だが、大澤の父は許してはくれなかった。
美紗が樹との結婚を許されなかったのは、母親に前科がついていること。美紗の生い立ちだった。当時、まだ精力旺盛な大澤の父だったから鬼の如く激昂し『容姿がいいだけで嫁になれると思うな。知性もない母親がいる娘など認められるか』と、大澤の家から手荒に叩き出されてから近づけもしなくなった。それどころか、父親が『俺の愛人になれば不自由ない生活をさせてやれるぞ』と樹がいないところで迫ってきたのだとか……。
それから美紗は怖くて大澤家に近づけない。
嫁になるなど、足が震えて、大澤の家に近寄れないほどのPTSDを起こすようになった。そして、このショックで流産を起こす。
それでも樹は美紗を支えて別れなかった。樹にとっても、美紗は自分を理解してくれる唯一の女性と信じていたからだ。
またふたりに子供が出来たが、この時も、流産となる。ここで二度と産めない身体だと美紗は診断をされる。
だから義母の江津子は『嫁には無理』と判断を下した。いつか妻を娶るのならば、美紗と綺麗に別れる。父親が元気なうちは結婚は諦めろ、子供も諦めて、樹が家長となった時に娶れば良い。ただし、大澤倉庫の嫁としての務めは努力してもらう。という条件だったそうだ。
以後、樹は結婚を拒んで、美紗を恋人としてそばに置き二十代をそうしてふたりで過ごしてきたのだそうだ。
樹がどれだけ美紗を大事にしていたかが伝わる話は、優吾からも聞かされていた。
『支えあってきたんだよ。兄さんにも必要な人。俺も美紗姉にはだいぶ助けてもらった。だけど、三十歳を目の前にすると、いつまでも愛しあっているだけではどうにもならない岐路に二人で立ってしまい、二人揃って決意したことが正妻を迎えて子供を産んでもらうこと。美紗姉は愛人として控えるということだったんだろうね』
優吾はここで、呆れたようにひと言。
『追い詰められた男と女が見出したのは、歪んだ形で正解にしようとする選択だったんだね』
優吾が知ったときには、もう杏里が『わかりました。結婚します』と決意をして、兄の樹と一夜の契りを交わしたあと。『親族顔合わせの食事会があるから来るように』と呼ばれた時で、止める間もなかったそうだ。
杏里からいつか怒って逃げると思っていたのにそうではなく。ほんとうに兄と契約したとおりに、家業を支えるべく仕事に邁進する妻になっている姿を見せられ、『義姉も本気なんだ』と悟ったようだった。
兄と義姉と幼馴染みの女先輩、それぞれ足りないものを補って、納得済みでバランスを取って、『見た目は正常な異様な関係』を築きあげていった。
見た目正常な夫妻には、男児ふたり授かった。
見た目正常な一家は、ちいさな子供を囲んで、祖母と父と母と叔父が健やかな家庭を育んでいる。大澤家の姿は、誰が見ても『つつがない家庭』にみえることだろう。
しかし、その影には、誰もが手にしても当然の幸せを諦めた女性がいる。その彼女のことを、忘れてはならない。杏里は常にそう思ってきていた。
邪魔はしない。美紗も徹底してくれていた。
杏里が、長年の恋人である夫と彼女の生活に無関心で通したように。美紗も夫妻になった樹と杏里には無関心でいてくれた。
樹が美紗を大事に愛していく日々が続けば、それが彼女のしあわせだと……。杏里は信じていた。
でも。今日、日傘をさして待ち構えていた彼女の姿を見たとき。そうではなかったのかもしれないと杏里は初めて感じ取った。
過ごしやすい陽射しの中、ベビーカーに戻った次男がすやすやと微睡み始める。それすらも美紗は愛おしそうに見つめてくれている。
長男の一颯にも『お菓子、おいしいの』とベビー煎餅をほおばってご機嫌な姿を見て嬉しそうに話しかけてくれる。杏里が差し出したストローマグを手にしてごくごくと麦茶を飲む姿も、微笑ましく眺めてくれている。
緑の葉がさざめく木陰のベンチで、美紗に聞かれる。
「杏里さんもお父さんで苦労したみたいね」
こちらも樹や優吾から大方聞いているのだろう。
「行く高校も父が勝手に決めました。女は大学に行かなくていいと言われ学費が欲しければ自分で稼げと言われました。生意気な女は嫁には行けないと散々言われながら、奨学金で意地で行きました。百貨店に就職した時も鼻で笑われました。どうせ就職するなら国家公務員か看護師か銀行員だと言われていましたので。その就職を阻止するように、見合いをねじ込まれました」
「あ、……北熊ドラッグのお嬢さんとお見合いをしていたってクズ男のこと」
やっぱり樹から聞いていたんだなと思いながら、杏里も苦笑いをこぼしながら頷く。
「そうです。私の処女を下手くそに奪って、手酷く捨ててくれた男です。父に凄く怒られましてね。どんなことをして機嫌を損ねたんだって」
「やなヤツ。なにそれ。お父さんも酷いわね。だからなのかな。樹、すっごく怒っていたのよ。なんだあいつ、自分が見合い中の時に、自分の前の見合い相手に声をかけるとか馬鹿じゃないのかって。そいつ自分から地雷ふんでいたからさ、俺が爆破させたとか。ずーっとぶつぶつ言っていたのよ」
俺が爆破させた。当時を思い出し、杏里は吹き出しそうになった。
クールに華麗にスマートにやり込めていたのに。樹の中では大爆破させ、彼の背には大炎上の業火が舞い上がっているほどに熱くなっていたと言いたいらしい。似合わないなと、夫の珍しい様子に笑いたくなってきた。こんなところも妻としての余裕が出てきたのかもと感じたりもする。
「そんな男と結婚しなくて良かったわよ」
「そうですね。ほんとうに、よかったです。その後も、意地になって仕事ばかりの二十代を過ごしてきましたけれど、それがいま役に立っています」
それがあったから、義母の江津子が見初めてくれた。
大澤家の『妻』という役割を穴埋めする要員のようにして選ばれた。でも杏里には好都合だった。契約にしても、夫になる男は出来た男で、義母も義弟も手助けをしてくれる。杏里にないのは『情熱的に熱烈に恋に落ちて女になること』。それを一生得ないかわりに、ほかのことに関してはすべて安泰の形で手に入れた。妻の座も、母としてのしあわせも、嫁としてのつつがない生活も、大事にしてくれる義実家も、女だがキャリアを積める環境も。
対して美紗は、最愛の男ただ一人と愛を重ねる日々を手に入れていた。
それでバランスが取れていると、この時の杏里は信じていたのだ。
だが『仕事をする妻』として『仕事に邁進した二十代が役に立った』と呟いた途端、美紗がまた辛そうにうつむいたのだ。
「美紗、さん……」
「私は、恋と愛に意地になってばかりの二十代だった……」
それぞれ苦心した生い立ちであるが、辿ってきた道が対照的だった。
「愛しているの、いまも。でもその色はもう濃くはないの。今日の海みたいに、ただただ広く遠く穏やかに淡く、それだけ……」
杏里は悟る。これはまた、わたしたちの岐路だ。
女三十代、少し過ごして若い時に信じていたものが少しずつ形を変えていく感覚。似たようなものを杏里も感じることがある。特に最近――。
側に置いているものが別でも、女ふたり、同じようなものを感じている日々。そこに男の樹はいない。
その日、美紗と初めて連絡先を交換した。
夫には知らせない約束、愛する彼には知らせない約束をした。
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