7.1on2


 1on2という言葉があるらしい。

 バスケットの用語だったか、ゲーム対戦の用語だったか。

 この言葉を知った時、杏里の脳裏に浮かんだのは、美紗と初めて会った札幌市の料亭でのことだ。

 個室に三人、長年の付き合いがある恋人同士の男と女、向かい側に杏里がひとり。1対2だった。気持ちが通じ合う恋人同士のふたりは、心意気も揃えて杏里に『跡取りを産んでほしい』、『彼のために妻になってほしい』と――。


 なのに形成が変わる。樹と杏里が結婚すると、今度は『愛人on夫と妻』という体勢に変化する。

 日常では、正妻on夫と愛人。見えぬところで彼らが変わらぬ愛を交えている日々の一方で、杏里はひとりできままに仕事と子育てに追われすごしている。

 社会社交面では、夫妻on愛人で美紗が影に隠れる。


 でも。もうひとつ。1on2になる体勢が残っていた。

 男on女ふたり、だ。



 美紗はセンスがいい。入った途端に、小樽の海辺の雰囲気を取り込んだ地中海風の空気に包まれる店に仕上げている。

 焦げ茶いろの木製カウンターの端に、杏里は席を取る。

 エプロンをしている美紗は長い髪をひとつに束ねたスタイルでカウンター内の厨房に立ち、そこからマリネのひと皿を先に出してくれる。


「おいしそう」


 ワインビネガーの香りがして、酸っぱいものを一口頬張っただけで午前業務の疲れが癒やされそうだった。

 美紗の隣には、背が高いラガーマンのようなシェフがいる。彼がコンロに火をつけて調理を始めた。ニンニクとオリーブオイルの香りが立ちこめる。

 彼はいつも美紗のそばにいて、この店を盛り立てていた。


 ふたりがどのような関係かは、杏里は聞かないようにしている。美紗から言い出すまで。でも見たところ、ただのビジネスパートナーかなと杏里は思っていた。言ってみれば、杏里と遠藤親方のような距離感なのだろう。

 実際にふたりは仕事以外の言葉を交わさず、いや客の前だから当然か、それとも杏里がいるからかはわからないが、物静かな雰囲気を保っている。そこがまたなんとも、この店の心地よい空気を作っていたりする。知らない客から見れば、寡黙なシェフと落ち着いた美しい女性のふたりは夫婦に見えることだろう。


 実際、杏里も遠藤親方と向き合っている時間は、心がほっと和んでいる時がある。

 仕事の関係だからこそ、気が抜ける――というのはおかしいだろうか。

 夫がそばに来て、杏里の目を見つめて、ちょっと触れるときに感じる緊張感のようなものがないのだ。

 普通は、夫と妻だからこそ心がほっとするはずなのに……。自分たちが異常な関係を結んでいるから、こんなふうに感じてしまうこともわかっている。


 料理ができあがるまで、杏里は携帯電話を片手に仕事関係のメールチェックをしておく。


【 義姉さん。今日も保育園のお迎えに行くけれど、帰りに築港ちっこうのショッピングモールに寄っていくよ。ふたりと約束しちゃったんだよ。アイス食べたいって。甘やかしてごめーん 】


 義弟、優吾ゆうごからのメールが先頭だった。

 杏里はおもわず、ふっと笑みをこぼしてしまった。

 息子たちが『ゆごちゃん、かえりにあいす、あいす』と大合唱をして、優しい叔父ちゃんは負けちゃったんだなという光景が目に浮かぶ。


【 そのかわり、今日のご飯はお魚だよと交換条件にしたんだけど、やっぱブーブー言ってる。でもここは譲らない。今日はホッケのフライにするなー 】

【 たのしみ。いつも、ありがとう。子供たちお願いいたします 】


 そう返信する。その様子を見ていた美紗も、ふと口元を緩めて笑っている。


「なに。また優吾がちびっ子に負けて甘やかしているの。ダメね、あいつ」

「正解。でも、よく面倒を見てくれるから」

「優吾もいまがいちばん幸せかもね。あいつも、樹と一緒に苦難の子供時代をくぐり抜けてきているから」


 杏里は結婚後、夫とともに、義弟とも同居していた。

 入籍後、海辺のマンションでしばし過ごしたが、高台の住宅地に義母が息子夫妻用にと一軒家を新築してくれた。そこに、夫と住んでいたが、いつのまにか義弟が転がり込んできたのだ。


 杏里が妊娠をしてなかなか自由がきかなくなった時に、夫が『こいつ、なんでもできるから』と、これまた夫より長身で美麗な長髪男子を連れてきたのだ。


 それだけではない。『なんでもいいつけて。自由気ままに過ごしていて仕事もフリーランスだから時間の縛りもない。余っている部屋に待機させるな』

 え、え。弟さんが妊婦のサポート? 家事をしてくれる? しかもこの家に住まわせる? 夫以外の男性なのに??


 親族顔合わせの席と、結婚式の時に紹介をされていたが、その時以外は接触もなかった。無口なので喋ったこともない。義母の後ろに控えて、全て義母に喋らせてじっとしているだけの弟。だが年齢は杏里とおない歳だった。なんだか近寄りがたいオーラを出していたので、【契約で結婚できる女】みたいに嫌われいてるのかと思っていたのだ。


 なのに。夫が連れてきた。しかも住まわす?


 すると優吾が静かに杏里に告げた。

『あ、俺。女性には興味がないんです。所謂、ゲイってやつで。なので義姉さんの身に危険はないので、あり得ないので』

 え、え、え!? 悪阻の気持ち悪さが吹っ飛んだ瞬間だった。


 樹も『隠していたわけじゃないんだけれど、弟自身のことだから、こいつから機会があればと自分から言わせたいと思って』とばつが悪そうにしていた。


 樹も美紗も、優吾も、おなじ地区で育った幼馴染み。樹と美紗が三歳年上だが、優吾のことは美紗もよく知っていて自然と受け入れてきたらしい。ただし、大澤兄弟の父親は、古い時代の男故に、カミングアウトした次男のことを猛烈に非難をして『勘当』を言い渡した。


 義母の江津子はどうだったのかというと、『ひとまず外に避難しなさい。あの人が力を失うまでの我慢よ』と、そこは母親か、別の住まいを密かに準備してかくまったそうだ。

 新しく嫁入りした杏里に気持ち悪がられたらいけないからと、余計な発言は控えていたとのこと。


『元警官なんだ。優秀な刑事だったんだけどさ。男に囲まれた生活の中で、人知れず恋い焦がれた相手が既婚者(♂)だったらしくて、辛くて退職したんだ。いまはその時の経験と伝手を使って探偵をしている。護衛としても抜群だからいいだろ』

『俺、赤ちゃん産まれるの、すっごく楽しみにしているんです。手伝いますから。義姉さん、なんでも甘えてください!』


 きょとんと呆然としている杏里は、わけがわからないまま『はい……』と返答していた。


 実際に、優吾との同居は杏里にとって良いことばかりだった。


 仕事で忙しい樹と義母に代わって、優吾は家事を完璧にしてくれるし、坂が多い小樽の街だからと、検診の送り迎えも、買い出しもてきぱきとこなしてくれた。実家の母親? 父親の顔色ばかり窺って自ら行動を起こせない母親なんか頼りにならない。

 杏里は『こちらの家がなんでもしてくれるから大丈夫』と実家を遠ざけている。


 父親はやや不満はあるようだが、お腹の子が女の子だったらまた『大澤家のような家で跡取りにならない女児を産むとはなにごとだ』と怒り出しそうなので、これまた避けている。

 武藤の実家は、なにか言いたげにしているが、義母も樹も優吾も言い負かす力を持っているので、なんだかんだと丸め込んで杏里から守ってくれていた。


 それに、父は文句が言えないのだ。大澤家から結構な援助を毎月もらっている。樹がわざとそうした。それで文句も言えないようになるだろうと。こちらの家の機嫌を損ねると援助を切られる。娘からも完全に切られる。そっとしておくのが無難。だから、母も義母の『お任せください~。当家の跡取り孫ですから~』に負けて母親としての行動ができなくなっている。


 これまで、杏里を頭から押さえつけ価値観を押し付け、ひとつも助けてくれなかった両親にいまさら望むものなどなにもない。


 男であって、女性にとっては男ではない同い年の優吾とはすぐに打ち解けられた。

 樹がいない日も、優吾が話し相手になってくれたし、家にいるときも寂しくもなかった。杏里の男友達のような義弟となった。


 そんな優吾が道警のエリート警官であることが、大澤の義父の自慢でもあったそうだ。なのに、出世をしないまま退官をしてしまった次男。期待を裏切られ優吾に恫喝する父親に嫌気がさして、ついに優吾はそこでカミングアウトをしたとのことだった。


 彼も兄の樹とおなじで、子供のころから暴君だった父親にひとつも愛されず、無碍にされてきたらしい。母親が育てさえすれば、自分はなにもしなくてよいし、可愛がる必要もないという態度。愛人を何人も持っていて好き放題。家庭には無関心。だが、義母はそれを逆手に取った。無関心なうちに、やり手の義母が密かに実権を握っていく。病気で寝たきりを余儀なくされた時点で、大澤母子は、夫を父を施設に押し込んで切り捨てたのだ。離婚などしない。大澤家のすべてを父親から剥奪して自分たちの権利として手に入れた。この出来事を、大澤倉庫の社員達は『あの時の鮮やかなクーデター』と密かに語り継いでいた。


 杏里は病室へご挨拶にだけ出向いたことがあるが、もう痴呆が入っているのか、なんの反応も返してくれなかった。

 だからもう、この家に義母と樹と優吾を虐げた男はいない。杏里にとってもいないに等しい義父になっている。


 だから。『跡取りを産んで欲しい。あなたしかいない』と樹に頭を下げられた意味も、後々にわかったのだ。弟は生まれつき子供を望まない生き方をしているから……。


 その優吾。杏里が出産後も、はりきって息子の世話をしてくれた。


 もうかわいくてかわいくて仕方がないようで、お父さんはお外でしっかりお仕事をする人だけれど、優吾はおうちにいる優しいパパみたいに子供たちは思っている。

 杏里も仕事にスムーズに復帰でき、助かっている。

 しかも優吾は探偵業もしているので、なにか困ったことがあると裏方で動いてくれるのも大澤の仕事を助けてくれている。樹も杏里も、とても頼りにしている弟だ。


 その優吾がいまいちばん幸せというのは、兄と義姉と、小さな甥っ子たちに囲まれて、家族と一緒に過ごせるようになったからだと美紗は言いたいようだった。


 あれから七年経って、いま女ふたりは坂の上のカフェでよく向き合っている。


 ここで美紗と他愛もない会話をしていても、杏里はよく思い出している。


 杏里は男児二児の母親になっていた。

 子供はひとりでいいと思っていたのに、間を置かずに樹に誘われたのだ。『兄弟が必要だろ』と。樹に勧めたのもまたもや美紗で『私はもう恋に振り回されるような若い娘ではない。自分が決めたことだから遠慮はいらない』と説得された。

 また夫と愛人がおかしなことを言いだした。跡取りはもう産んだ。杏里はしばらく強固に拒んだが、夫の決意も固く、流されてしまった経緯がある。また、あっという間に妊娠をした。

 次子も男児。二歳差の兄弟をもうけることが出来た。


 そのころからどうも、おかしいな――と、杏里は気がつき始めた。

 なんとなく、二人の熱愛がクールダウンして素っ気なくなっているような……。だが、杏里はふたりの関係はノータッチであったし、垣間見ようという願望も、知りたいという願望もなかった。


 なによりも、息子ふたりの子育てと事業主としての両立に必死だった。

 忙しい樹も息子たちには良きパパで、息子もパパ大好きだった。子育ても率先してくれる。子供たちが乳児だったころも、上等なスーツを着ているのに、小さな子に離乳食をわたわたとあげている姿など、彼が冷徹な社長だと思っている人々には想像もつかないだろう。


 もちろん、義母の江津子も、息子の樹に似て産まれた孫ふたりにはデレデレだった。あまあまの叔父ちゃんもデレデレ。大澤家は毎日和やかだった。

 夫と義母、義弟が甲斐甲斐しく息子の世話を手伝ってくれる一方で、美紗が取り残されているのではと、杏里が密かに案じていたのもこのころ。


 長男の『一颯いっさ』の手を引いて、産んでしばらくの次男『一清いっせい』をベビーカーに乗せて、ちかくの海が見える公園までとでかける。よく通っている公園だった。


 そのうちにそこで再会したのだ。美紗に。

 日傘を差して、彼女こそ上流社会の奥様ではないかと思うほどの上品さを纏った姿で彼女は海を背景にして立っていた。


 彼女と会うのはこのときが三回目。

 結婚して出産して、初めて夫の愛人と対面する。

 1on2、女二人が向き合う最初の日でもあった。

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