6.蜃気楼の坂の上
ガラス工房を起業するにあたって、杏里は元職場の伝手を大いに使った。生活雑貨のバイヤーたちにガラス工房を紹介してもらい、そこから独立を考えている中堅の職人を探した。
小樽の高台にある古い工房にその人物がいた。
独立を視野に入れているが、まだなんの目処もたっておらず、これから検討するところだという三十代半ばの男性職人が。
師匠のところで腕を上げたら独立を試みるのが職人が目指すところでもある。その意志を持ったのなら、大抵の職人はパトロンを上手く見つけるか、なんとか借金をして生計を細々と立てていくかになる。資金力があるパトロンと出会うことほど幸運なことはない。樹にそうアドバイスをされ、若輩経営者のひよっこである杏里は、夫になる彼に背中を押され交渉に挑んだ。
師匠にあたる工房主に話を通してから、職人本人にアクセスするのが筋。その礼儀も通した。師匠も弟子が独立する意志を数年前から聞かされていたため、独立のアドバイスをしていたところだったとか。そのため、すんなりと話が通った。このあたりも『ここまでの話がまとまっている職人がいる』と百貨店バイヤーの鼻がよく効いていて、非常に助けてもらったことになる。
その御礼に、杏里はこれから『大澤社長夫人』としての品格を保つための衣服にアクセサリー・バッグに靴を一式揃えるため、勤めていた百貨店外商部の元上司から多数購入をした。その身支度のための支払いも、樹が躊躇いなく援助してくれた。
こんな時、百貨店に勤めていてたキャリアと伝手が役に立った。また、お世話になった外商部にも恩を返せる。これからも、この百貨店との伝手は大いに使えそうだと杏里は気がつく。
百貨店バイヤーと外商部と、さらに杏里という顧客が出来たことでの『持ちつ持たれつのルート確保』が出来たことは、樹も感心してくれ、また義母の江津子も満足げだった。いや……。義母については、もしかすると、『杏里という女性と結婚すればどうなるか』既に目星をつけていて、杏里がそのルートを手引きできるかどうか高みの見物をしていたのかもしれない。
高台のガラス工房から引き抜いた職人は、遠藤
生真面目で、ガラス職人一筋、結婚願望もないようだった。物静かで穏やかな表情を常に保っている人柄も安心ができる。
でも、彼が作った切子のグラスを手に取った時、杏里にも響くものがあった。技に没頭した者だけが得る輝きがそこにあった。
ここでも百貨店のバイヤーが間に入ってくれ、これから杏里が結婚する大澤家がどれだけ資金を持っていて、やり手の義母と結婚予定の若社長がバックアップしてくれているかも説いてくれた。
遠藤氏もよく理解してくれ『是非にお願いいたします』と了承してくれ、杏里はホッとする。
職人集めについても、遠藤氏が乗り出してくれる。技術を一緒に取得した大手ガラス工房にいる元同僚に後輩、学生時代の同期などにも声をかけてスカウトする役目をかってでてくれた。
杏里の最初の仕事が上手く流れてきて、ひとまず安堵を得る。
毎日が新しい仕事で充実している。
交渉が成功すると、樹が褒めてくれた。報告へと、港湾地区にある本社に赴く。その時に社長室で語るビジネス談義の時間が、彼と杏里の信頼を積み重ねる時間ともなった。
彼は生き生き仕事の話をしてくれ、杏里も興味深く耳を傾ける日々。夕暮れに仕事が終われば、茜に染まる小樽運河の飲食店で食事を共にすることも多かった。
だが、彼と杏里は食事を終えると、運河の橋の上で別れる。
婚約をしている男と女なのに背を向け、それぞれが目指す家路は異なる。
彼は美紗のところへ。杏里は海が見えるマンションへ。
それがとても自然で、違和感はなく、なんの疑念もわかない関係。
そのドライな契約が心地よいのはどうしてなのか。
その日、初めて杏里は婚約者である彼へと、別れた道を振り返った。
あの人は、ほんとうに私の夫になる人なのか。私は妻になれるのか。愛人に甘んじた彼女はいまはどう思っているのか。
樹は男性としてはとても魅力的な人だ。
品格があって、向上心もあって、女性優位で物腰もやわらかく。それでいて男らしい雄々しさも携えて、若社長としても堂々としている。
杏里は忘れていない。あの一夜を、小樽湾の朝焼けを一緒に見た甘やかな朝を。杏里を女性として最上に愛してくれたあの一夜があるから、杏里はまだ女としての心を捨てずにすんでいる。
彼にときめきを覚える日も多い。でも、そんな彼のそばにいるだけで充分だった。
だって。恋をしたら孤独になるから。
妻でいい。彼の子供たちの母でいい。家業のパートナーでありたい。
女としての渇望は捨てる。それでいい。
あまりにも整いすぎて、波風もなく、綺麗に丸く収まっている。
心地が良すぎて、でも不自然なことには、いつか歪みが生まれないのか。そんな不安を心の奥に忍ばせて。
遠藤氏を親方に据えた『大澤ガラス工房』の創業は、この一年後となった。
夫のそばで秘書としての修行を終え、杏里は『大澤ガラス』のオーナーとなる。夫の指導を受けながら、小樽運河の観光地にガラスのセレクトショップを開店。遠藤親方が管理するガラス工房も、小樽から始まった最初の鉄道跡がある手宮付近に始動しはじめた。そこから仕上がる職人技のガラス製品を土産物として販売することから、杏里の事業はスタートしたのだ。
同時期に、樹と杏里は盛大な結婚式を執り行い、正式に夫妻になった。
そのあとすぐに妊娠が判明する。いわゆる、ハネムーンベビー。すぐに妊娠が出来たことに杏里は胸をなで下ろしたほど。
すぐに樹を美紗に返すことができた。
彼女とは、入籍前にもう一度『意思確認』のために、樹と義母を挟んで面会をした。
彼女も今後は『愛人としての立場で異存はない』と改めてその意志をはっきりと示した。
毅然とした美しい彼女を見て、杏里はふと思った。
彼女はもっと違う決意をしていたのではないのかと、少しだけ。おなじ女として、少しだけ。
---✿
数年が経つ。いま、杏里が登る坂道を振りかえると、小樽の湾港が見える。そこ蜃気楼があらわれていることに気がついた。向こう側、石狩とオロロンラインがある遠いそこに、ゆらゆらと揺らめく工業地の姿。
小樽に蜃気楼が現れると春だとかんじる。
杏里はもう若い女性ではない。最近、耳にするようになった言葉を使うならば『アラフォー』だ。
坂を上りながら、杏里は先ほど会った遠藤親方との話し合いを思い出す。
若い職人は入ってきては辞め、入ってきては辞める。職人という仕事を全うできるものは一握り。たとえ、安定した給与を条件に出しても、辛い修行に耐えられなくなったり、自分の技術に打ちひしがれ絶望して辞めていく若者もいる。
今日もひとりの若者が、出身大学に出していた募集を知って面接希望の履歴書を送ってきた。
珍しくも女性だった。遠い山口からわざわざ履歴書を送ってきたという。まず書類審査という形になる。その時に、いままで自分が作ってきた作品の画像や写真、出来れば現物の作品を郵送してもらうようにしている。
そこで遠藤親方と意見が割れたのだ。
彼女は写真も現物も送ってきた。
履歴書を見ると、広島の芸術大学卒。親方曰く、芸大からガラスを学んできた者は『学生時代から仕込まれているので一定した技術はあると思う』とのこと。
問題は彼女の作品だった。送られてきた写真で見られるこれまで彼女が制作したガラス作品は、杏里から見れば『幼稚で奇抜』だった。それとは別に、現物で送られてきたガラス製品には琴線に触れるものをかんじさせた。しかし、技術が拙い。これは……と躊躇った。
親方は『幼稚で奇抜』なほうの写真を見て、おかしそうに笑ったのだ。それを見てずっとくすくすと笑っている。
「どうかしましたか、親方」
「いえ。こういうの、芸大にいる時に必ず通る道なんですよね。私だってそうでしたよ」
「ええ、遠藤親方でもですか。伝統的なものを忘れず正統派でノーブル、でも現代的なモダンさも上手くだせる職人さんなのに。このような奇抜な吹きガラスをしていたということですか」
「はい。芸術をしてやろう!ってね。芸術=奇抜になる。それって職人として『黒歴史』だったり、職人の『中二病』とでもいいましょうか。ふつうは隠したくなるんですけれどねえ。送ってくるだなんて度胸があるなこの子」
黒髪で涼やかな顔立ちの彼女、履歴書に貼られている写真を見て遠藤親方はずっと笑っている。笑っているだけで、それ以上はなんとも言及はしてこない。
だから杏里から所感を述べてみた。
「現物の製品もすごく拙いと、私は思いますけれど。うちの工房で製品を作っていけるレベルかどうか」
どちらかというと『使えるレベルギリギリ』が杏里の判断だった。
だが遠藤親方は、そのガラス製品を愛おしそうに手に包んで、穏やかな笑みを滲ませ呟いた。
「そうですね。拙い。でも教え込んだらやれるレベルかと。それに、この製品。技術が追いついたら化ける気がします。彼女のやる気次第ですね」
職人としての判断だった。杏里は釈然としないが、親方の判断に委ねることにした。
同様に、拙い技術ではあるものの、現物で送ってきたガラス製品に惹かれるものがあったのも確かなことだった。
「遠いな。山口の山陰ですか。親御さんはどう思われていることか……」
親方が不安そうに口元を曲げた。杏里にも親方が案ずることがなにかすぐにわかった。将来が見えない職人を目指す道を不安視して、反対をする親御さんが多い。ましてや、若い女の子。
杏里がアラフォーと呼ばれる時代になっても、女性たちは三十歳までに結婚をしたいという目安が根強く残っていた。
結婚したら勝ち組、子供を持ったら勝ち組、専業主婦でもかまわない甲斐性を持つ男性と結婚できたら勝ち組。女性の生き方に以前よりも多様化が進んでいても、結婚に関してまだそんなことが囁かれる。
いちばんの正解は、女性がどのように生きても誇らしくある社会ではないのか。
そんな中、若い彼女が職人を目指して、遠い山陰から単身でやってくることになった。
倉重花南。不思議な雰囲気を持ったその子が来たことで、杏里は思い知ることになるのだ。夫の生き方に――。
坂道を上がりきったそこに、白いカフェが現れる。
そこのドアを開けると、カウンターで出迎えてくれたのは美紗だった。
「お疲れ様。いまからランチ?」
「うん、ランチ。まだある?」
「あるわよ。ま、杏里ちゃんが来ると思って、だいたいワンセット残しているけどね」
「よかった。もうお昼もだいぶ過ぎたから」
蜃気楼が揺れて見える坂の上。そこにミコノスを思わす白と青を基調にしたイタリアンカフェ。美紗はいまここのオーナーになっていた。
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