5.大澤式・花嫁修業
婚約と結納を無事に済ませた。
小樽の資産家子息と婚約が成立し、もう父はご満悦で、最近は機嫌が良くて平和だと母からも弟からも聞かされている。弟は転勤が多い仕事を選んだため、なんとか実家から逃れて自分らしい生活をしている。杏里もこれを期に『花嫁修業』と称して、大澤家が用意してくれた小樽のマンションに引っ越すことになった。
小樽の海辺近くのマンションを、樹が杏里のためだけに借りてくれた。
『ここで結婚まで自由に過ごしたらいいよ』と言ってくれた。それと同時に『実家からの脱出、おめでとう』と笑ってくれた。これから君は自由だ――とも。杏里もその気持ちだった。
毎朝ひとりで目覚めて、淡い青色にやさしく輝く小樽の海を見ながらの朝はとても気分が良かった。
樹は仕事で多忙で、夜はおそらく美紗が住まう別のマンションでくつろいでいるのだろう。彼の実家はいまは母親が主、自立心もありビジネスにも長けている姑になる江津子は同居など一切望んでいない。嫁に頼るなんて気持ちはみじんも持っていない。それどころか『やっと一人で自由になれたの。そっとしておいて』と言うぐらいだった。
だが。この姑がひとつだけ、杏里に嫁として望んだことがある。
婚約がすんなりと決まり、百貨店外商部の上司は驚いていた。
上顧客である大澤倉庫の息子が気に入り、その母親にも気に入られ、本人も結婚を了承したからだった。
ダメ元、あちらの母親を納得させるため『ひとまずお見合いを形だけすればいい』という心積もりで部下の杏里に行かせただけだったのに。現実になってしまったからだ。
しかも杏里はそれに伴い、寿退社を決断。あっという間に退職をした。あまりのスピード婚に、百貨店の上司たち同僚たちも唖然としていた。
既に退職を済ませていた杏里は、この日は樹とともに母親に呼ばれていた。
樹が仕切っている湾港地区にある本社へ杏里は向かう。
彼の社長室を訪ねると、応接テーブルに既に樹と母親の江津子が向き合っていた。
「いらっしゃい、杏里さん。さあ、どうぞ。樹、お紅茶いれてあげなさい」
「ええ~。俺、いちおうここの長なんだけど」
「ゴッドマザーからの指令よ。それとも私に淹れさせる気? それともわざわざ足を運んできてくれた杏里さんに? 彼女はまだあなたの妻でもない」
「ああ、はいはい。母上、させていただきます」
あの樹が軽くいなされ、本当に子供のように拗ねて顔をしかめていた。
杏里もついおかいしくなって笑いが込み上げたが、必死にかみ殺して堪えた。
彼の母親は『女だからやれ』という『女だから』という言葉を非常に嫌っていた。樹が『女性優位』に育てられたのは、この母親の賜。それでも、母と息子でいるときはざっくばらんと気兼ねない空気で接している。
今日も樹は紺のスリーピーススーツを凜々しく着込んでいるのに、いそいそと紅茶を入れる姿が……可愛く見えてきて不思議な気持ちになった杏里だった。
なんて。いつのまにか気持ちがほぐれているので、このお母様にいつもしてやられているのは杏里も一緒だった。
社長室の窓からは、港の風景と小樽湾に浮かぶ船舶が晴れた海を航行している姿が見える。
テーブルにて向き合う。夫と妻になる樹と杏里が並んで座り、正面には江津子が座る。
「さて。かねてより約束しておりましたね。樹、杏里さん、結婚後は杏里さんにも業務に携わってもらいます。樹、うちの仕事について教えてあげて。そのため、一年は樹のそばについて秘書の仕事をしてもらいます」
これが姑になる江津子が杏里を選んだ本来の目的だった。
外商部員として大澤家に訪問するたびに、または百貨店のVIPルームで接客するたびに、大澤の母は『この子は仕事に励んでくれそうな女の子だ』と見初めてくれていたのだ。大澤家の嫁になったからとて、専業主婦で悠々自適の奥様ライフを過ごさせるつもりなど、この姑は望んでいないということだった。大澤家の資産を見越して着飾ることを夢見る嫁など以ての外、また世間知らずの箱入り娘も以ての外。仕事をしている女性にたびたび目を光らせて観察をして、気に入ったのが杏里というわけだった。
もとより結婚などするものか、仕事で生きていくと決めて働いていた杏里だ。姑が望む姿だったのだろう。
その条件も含めて息子に『お母さんは彼女がいい』と勧める。彼がいうところの第一条件をクリアしていたというわけだ。
その後、自分も見合いをして気に入った。最後、長年の恋人である美紗が許してくれるか、杏里が飲み込んでくれるかだった。
このあたり、姑はどう思っているのかと樹に尋ねたことがある。
『母も十代のころから美紗を知っている。彼女は嫁という立場になると苦しむようになる。美紗は愛と情で生きている女だから、嫁には向かないと言っている』。つまり姑自ら『別れられないのなら、嫁のための妻を娶れ』と言い聞かせていたようだった。
姑自身が愛のない政略結婚をしたせいか、愛しあう女性と結婚すべきという甘い気持ちなど持ち合わせていないとのことだった。
息子の妻となる条件は、愛する女性ではなく、『息子を夫として社長として助け合っていける女性』。
そんな心持ちの姑が、嫁として好待遇で迎え入れてくれたことは、杏里としても安堵している。それに仕事をさせてくれることにも感謝をしたい。杏里もそのつもりだったからだ。
「杏里さんもひとつ起業をしてみなさい。なにかあった時、あなたの糧になるようにね。起業経験は樹もしているから、教えてもらうといいわ」
「わかりました。お義母様。よろしくお願いいたします」
すんなり受け入れる杏里に、義母は満足そうだった。
この日はそれだけ念を押したかったようで、息子が淹れた紅茶を『合格ね』と茶々を入れて飲み干すと、さっさと退室してしまったのだ。
社長室に樹と二人だけになる。
「……ということになったけれど。杏里はなにかやってみたいことがあるかな」
義母の江津子から『あなたは結婚後、妻となっても大澤のために事業を手伝う妻になるのよ』と告げられてから、いろいろ考えていた。
夢を見て語っても良いのならば。杏里はこの小樽を見てやってみたいことがあった。
「小樽にちなんで。ガラス工房と、工房と連結したガラスのセレクトショップをしてみたいです」
ここでは既にあるものばかりだった。
だが杏里は外商部にいる時から、ガラス製品に興味があった。
あともうひとつ。義母の江津子が、そんなガラスに興味を示していた杏里に秘蔵のコレクションを見せてくれたのだ。
それはベネチアンガラスのビーズだった。
『私も好きなの。これ独身の時から少しずつ集めたのよ』
ビロードの保管ケースには、正方形に仕切られたそこに、いくつものベネチアンビーズが収められていた。様々な柄と色合いに異国の空気を醸し出す模様たち。
『素敵ですね!』
『でしょう。小樽でもたまに素敵なトンボ玉が見つかるの。これが私の慰め。結婚して嫌なことがたくさんあったけれど、これがひとつ増える度に頑張れたのよ。あなたにもそんなものがあればいいわね』
その中から『嫁に来るあなたに』と、大事なコレクションのひとつを杏里に譲ってくれたのだ。これからの杏里のお守りだ。
もう実家の両親を頼ろうとも思っていない。でも婚家にばかり守られているわけにもいかない。この義母が言うとおりに、杏里も自立していかねばならない。その心意気を、姑から授かった。
それもあったのだと思う。
ベネチアンガラスに負けない、そんな小樽ガラスでありたい。
そんな夢を描き始めていた。
だが、それには社長である樹の許可がいる。
彼は、どう思うのか……。
「うん。いいんじゃないかな。俺がやっている観光業務ともマッチする。だったらまずは工房から立ち上げなくてはならないな。立ち上げまで手伝う。オーナーは大澤杏里とするから、やってみたらいいよ」
「ほんとうですか。頑張ります。ありがとうございます」
結婚前から、杏里は大澤倉庫・観光グループの業務に携わることになった。
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