4.つまらない女


「お久しぶりです。お元気のようでなによりです」


 ひとまず杏里は、面識がある方達という体で挨拶をした。

 元見合い相手など、お相手のお嬢様とお父様の耳にはいれないほうがいいだろう、ただの知り合いの顔をしておこうとした。


「そちらはどう。まだ独身?」


 だから。わざわざお見合い相手の前で、お見合いした相手のその後を探るものなのか、と杏里は久々にこの男が放つ嫌な空気を感じとってしまう。


 どう答えよう。独身と言えばこの男の自尊心が保たれるだろう。でも婚約中といえばどうなるのか。そもそもお見合い相手の前で別の女性がどうなったかなど聞くだなんて非常識だと言いたい。


「お待たせ、杏里さん。……どうか、しましたか」


 そこにホテルの顔見知りと挨拶をかわしていた樹が現れた。

 仕事で知り合いのようだったので、杏里は『婚約者です』ときちんと紹介をしてもらった後、『あちらで待っています』と気を利かせて、仕事関係の男性ふたりとは距離を置いていたのだ。そこで、この忌まわしい男と再会してしまった。


 樹も目の前に揃っている一行を訝しげに見つめている。なにせ若い女性は一等の晴れ着を着込んでいるのだから、正式ななにかの後だとも察したようだった。


「杏里さんのお知り合いかな」

「はい。父の知人です。お久しぶりに会いましたのでご挨拶を」


『父の知人』というワードだけで、樹の表情が僅かに固まった。

 杏里の父がすることは、すべて杏里にならないことだったことを既に熟知してくれているからだ。


「そうでしたか。では、行こうか。予約の時間があるから」

「はい」


 今日の樹は、ベージュのスリーピーススーツをセンス良く着こなしていた。そこに現れただけでキラキラとした金の粉がまとったかのような登場だった。それだけ彼が纏う空気が特別なものだと、杏里は改めて思い知らされる。

 そんな樹も『失礼いたします』と初見の彼らに挨拶をしてくれた。

 杏里も、そのままの知人で去ろうとしたのに。


「ふうん。つまらない女にも相手ができたのか」


 杏里はさっと血の気が引く思いだった。自分のトラウマが刺激されたことも当然だが、人の心がわからない男のバカさ加減にもだ。どうして私がつまらない女と言えるのか。言えるということは少なくとも杏里のことを女として知っているから。過去に関わりがあったのだと、見合い相手の目の前で平然として言えるその配慮のなさにも!


 ほんとうに性根が悪い男だと打ち震えた隣で、樹の目つきが鋭くなったのを杏里はみてしまう。その目にゾッとし慄然とする。

 杏里にはいつも物腰柔らかくどこまでもスマートで悠然としている彼が、獣を思わす獰猛な目を光らせたからだ。

 その攻撃的な視線は、例の男へと定められた。


 樹が男の真っ正面、至近距離に向き合った。

 ほぼほぼおなじ背丈の男二人、でも威嚇している樹のほうがやや上から睨みつけてみえるのがどうしてなのか。それだけ、相手の男がややのけぞり尻込みしたのがわかった。


「つまらない女とは? 私の婚約者のことを言っているのでしょうか」


 婚約者――と言い放ったその言葉に、元見合い相手の男が目を瞠り吃驚の様相を見せた。彼の隣にいる母親もだった。彼女も杏里のことを見合い当時から見下げていた。杏里の父親から持ち込んできた見合い話だったから、下に見ていたのだ。『しかたがないから見合いをしてやる。地方公務員程度の家庭の娘』という見下しようだった。うちの息子には相応しくないと最初から思っていたのだろう。だから杏里にいま婚約者がいると知って、母親もおののいている。


 そして彼も気がついたのだ。『ああ、おまえか。下手くそなクズ男とは』。杏里を虐げた男が目の前にいる、それだけで彼が戦闘態勢を取ったことも伝わってきた。まだ彼のことを、深くは知らない杏里は呆然とするしかない。


 しかも樹も容赦しなかった。


「人が連れている婚約者をつまらないとは?」

「い、いや。こっちはそういう情報を持っていてだね。そちらもお見合いかな。だったら、もっと彼女のことをよーく知ってから決めたら良かったんじゃないかなと忠告しておくよ」


 その女を抱いたから知っている。つまらないセックスだったよ。と、この男はほのめかしたのだ。

 樹の眉間の皺が深く刻まれる。大澤家の若社長の婚約者を侮辱され、黙っている男ではないといったところか。

 鬼気迫る空気を放つ樹が、元見合い相手の男の鼻先に迫るほどに顔を近づけ、男を睨み倒す。


 だがそのあと、樹は男を見て、ふっと表情を緩めたかと思うと鼻で笑ったのだ。


「忠告、ねえ」


 樹は笑みを浮かべたまま、ちらりと晴れ着姿のお嬢様と父親を横目で見た。


「忠告かあ……」


 念を押すように呟き、また相手の男を今度は下から覗き込むようにニヤニヤと見上げた。


 男はだからなんだと言いたそうだったが、樹の尊大な態度に気を取られている男はなにも気がついていない。一歩引いて眺めている杏里には見えている。晴れ着のお嬢様が青ざめ、父親はもう憮然とした面持ちになっていた。気がついたのだ。この男が、過去の女を捕まえて『俺はいいお見合いをして成功しそうだよ。君はまだ独身? やっぱり君みたいなつまらない女を選ばなくてよかったよ』と、余計なマウンティングをして『愚かな姿』を露呈させたことを。


「教えてくださいよ。僕の婚約者が、どのように『つまらなかった』のか。僕も彼女になにかあるなら考えなくてはならない」

「そんなのは、そちらで判断すればいいだろう。こっちは終わった話……」


 男がそこまで呟いたところで、やっと母親も気がついたのか慌てた様子で、息子の背中を叩いた。また樹が勝ち誇った笑みをこのうえなく浮かべる。


「御礼を言わねばならないですね。そちらが断って、いや、手ひどく弄んで捨ててくれたおかげで、良いお相手がうちに巡ってきました。当家の嫁として母も認めていますので、彼女は歓迎されて嫁入りしますからご安心を。ところで、僕の婚約者に絡む余裕がおありのようだが、数年経たれてもお相手を探しているようで。そちらもそろそろご成婚ですか」


 樹がそこまで一気に明るく捲し立てる。そのうえ、お見合い相手のお嬢様を通り超し、厳つい顔つきで固まっている父親へとにこやかに視線を向けた。


「角田さん、本日はこちらで失礼いたします。のちほど、こちらからご連絡いたします」


 父親の様子に、男の母親は青ざめ、男もやっと自分がなにをしたのか気がついた。

 男が冷や汗を滲ませたのが杏里にも伝わってくる。


 お相手の父親が品の良い身のこなしで、樹に近づいてきた。


「お気を悪くしたようで、申し訳ありませんでした。私、こういう者です。こちら同行していた私どもの不始末です、ご無礼をお許しください」


 同行していた者として詫びてくれ、樹に丁寧に名刺を差し出してくれる。それに同調するように、樹も胸ポケットから名刺入れを取り出し、すっと差し出した。

 その名刺を見た父親が驚きの表情に変貌した。


「本日はここで失礼いたします。改めてお詫びを」

「いいえ。こちらも大人げなく……。まだまだ若輩者とお許しください」

「奥様になられる方を貶されたのではあれば、当然のお怒りです」


 樹とお嬢様の父親が大人の対応で挨拶をしている様子を、男と母親は唖然として眺めている。やがて父親が男を睨んだ。


「角田さん、残念です。今回のお話はなかったことにしてください。さきほどの人を馬鹿にして、女性を悪し様にする態度に失望いたしました。娘をお任せする気が失せました」

「柳川様、お待ちください。これは息子と彼女が合わなかっただけのことで、もう随分昔の。説明させてください」

「結構です。失礼いたします」


 父親の視線にお嬢様が頷き、後をついていく。その背を男が焦って追いかける。


「英子さん。待ってください」


 晴れ着のお嬢様が肩越しに上品に会釈をしたが、その目線は冷め切っていた。


 そこに呆然失意のまま立ち尽くす母子がいる。

 だがすぐにこちらに怒りの視線がぶつけられる。


「どうしてくれるんだ!! いままでで最上の相手で、和やかな雰囲気で手応え上々だったんだぞ!!」

「どうしてくれるのよ! やっとやっと巡り会った相応しいお相手だったのに!!」


 息子も母親も半狂乱だった。

 だが樹はなんのその、呆れたため息をひとつ落とすと、また男と母親を見てにやりと意地悪く笑った。


「だよな。北熊ドラッグホールディングのお嬢様だったら、逆玉の輿と言ったところかな」


 北熊ドラッグ。道内を網羅する地元大手ドラッグ会社。そう聞いただけで外商部員だった杏里も『セレブランク』のお父様とお嬢様だったことがわかった。

 いい相手が巡ってくるまで、どれだけ見合いをしたことか。そのたびにその気にさせて、女を味見して捨ててきたのか、この男――。そんなことが透けて見えてきた。


「そんなに上珠の見合いをしていたなら、どうして『うちの杏里』に声なんかかけた。終わった話を蒸し返したのはそちらだろ。こちらは侮辱されたから後には引けなかった。杏里を無視して通り過ぎれば、あちらもそちらの『本性』に気がつかなかっただろう。そう思わないのか」


 そうすれば化けの皮を被ったまま、あのお嬢様を騙せたかもしれない。

 いや。この男なら婚約してしばらくすれば馬脚を現しそうだから心配ないかとさえ思えるほどに、大馬鹿なことをこの男はやってのけたのだ。元々の本性が引き寄せたのだ。


「こっちにもおまえの名刺をよこせ! 訴えてやるからな」


 唾を飛ばすような勢いで、男が樹に詰め寄る。

 だが樹も胸を張って堂々と、男にも名刺を差し出した。


「どうぞ。その際はこちらにご連絡を」


 名刺を受け取った男が絶句したのがわかる。小樽の資産家四代目と気がついたのか。息子の手元を覗いた母親もだった。


「こちらにも顧問弁護士いますので、お話しがあればいつでも」


 名刺をもつ男の手が震え、母親は樹を息子の敵認定したのか睨んでいた。


「行こう。杏里」


 彼が杏里の腰をさらうように抱き寄せ、歩き出す。

 ホテルのロビーから外に出ると、小樽の港から爽やかな夏風が坂をあがってふたりをつつんだ。緑と潮の匂いがする風――。


「あの、ありがとうございました」


 いまになって。緊張がとけた杏里の目に涙が滲んだ。あの時つけられた痣が消えてゆくような不思議な感覚があるのに、涙が溢れてくる。

 彼がよりいっそう抱き寄せてくれる。


「約束したでしょう。あなたが安心できる場所を約束すると……。家族になるのだから、当然だ」


 その言葉にまた胸が熱くなる、止められないほどに。

 泣きじゃくるほどに涙が溢れて溢れて。

 なにより『うちの杏里』と言って、あんなに威風堂々と立ち向かってくれる人がいるだなんて……。親も守ってくれなかったのに。


 

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