3.契りの日
結婚に幸せなんて見出そうとは思っていない。
男と女が愛しあって結婚したところで、愛は冷めて夫と妻という関係が残るだけだ。
そもそもセックスにも絶望している。あんなものいい気持ちと言える関係もきっと一時だ。
それさえ気にしなければ、跡取り息子の妻という立場も仕事だと思えばいい。
私は居場所がほしい。実家など、なんでも自分の思い通りに体裁を整えたいうるさい父と、その父に逆らえずおろおろしている母との間に挟まれた娘が翻弄される人生しか残っていない。
最初の見合いもそうだった。気にそぐわない男と結婚するために、その男に合わせ気を遣い、父に叱られないようにとおどおどして、女性としての初めての体験もその男に捧げた。その時の痛みも気持ち悪さも、男の醜さも忘れていない。
どこが美しいのだろう。甘美なのだろう。
その醜くなった男が杏里の実家に告げたのは『結婚はしない』という返答だった。
そこまでのことをしておいて。でも父は彼の実家とは立場が弱く、なんの抵抗も対抗もしなかった。
父が怒ったのは娘の杏里。『おまえ、なんの粗相をしたんだ!! この役立たず!』、娘があれだけ気を遣って身体まで明け渡したのに……。嫌な思いをしたのに。この言われようだった。
いや、今に始まったことではない。幼少の頃から、杏里も弟もこのような理不尽な父親本意の仕打ちを受けてきた。
昭和育ちの男特有の亭主関白、杏里の実家はまさにそれで、後の世でいうところの『毒親』だった。
そして、樹の父親も、美紗の母親もだった。
樹の父親は暴君で、美紗の母親は男にだらしがないシングルマザーでネグレクト気味だったとか。
もしかすると私たちは、その生い立ちでどこか通じあったのかもしれない。
美紗が『愛する男の正妻に是非』と許してくれた訳を、杏里は後にそう思うようになった。
---❄
大澤樹が跡を継いだ『大澤倉庫・観光グループ』は、北海道開拓明治時代、小樽に港が開港された時に倉庫業から発展。北海道の鉄道は、この小樽から発展している。小樽港から物資が出入りする、または石炭などが送り出される玄関口だったためだ。
そのため、当時の日本でも大手だった銀行が鎮座し金融の要もここにあった。札幌よりも賑やかな繁華街だった時代から脈々と継いできたのが『大澤倉庫』だった。
若社長となった樹は湾港物流業を主軸のまま残しつつ、現代的な部分では、小樽観光向けの飲食業に枝葉も伸ばし成功していた。
樹自身が手がけたのは、明治時代からある実家事業の煉瓦倉庫を居酒屋として開業した後、小樽の雰囲気にマッチした古民家風のカフェ、土産物屋、煉瓦造りのバーなどの観光飲食業だった。
暴君だった父親もそれなりの手腕があったと聞くが、この四代目若社長の樹をここまでの事業主に英才教育をしたのは、母親の
杏里を『息子と会ってみない』と見初めてくれた母・江津子は、もとは函館地方の旅館などを営むグループのお嬢様だったとのこと。樹の父親、三代目社長とは、つまりは『政略結婚』となり、愛などないということだった。
そのぶん、両親兄弟から観光業のノウハウを培ってきた母・江津子が、妻と母の使命を持って育てたのが長男の樹だ。
彼女の教育はいまここにきて、功を奏しているということだった。
また病に倒れ闘病の日々を余儀なくされている三代目には、ほぼ権力はなく、母の江津子の機転ですべて息子である樹の手に渡ったとされている。
樹には弟もいるはずなのだが……。杏里はまだ紹介されていない。
❄
結婚を了承してからしばらく。正式に婚約と公に出来る取り交わしをする前に、彼と一夜を過ごすことになった。
その日も彼が、小樽の湾港夜景が見渡せるホテルレストランに連れて行ってくれる。素敵なフレンチが食べられるホテルなので、杏里もつい楽しみにつてきてしまった。だが、そこで『今夜は泊まっていきませんか』告げられる。
「美紗が、あなたが了承したらそうしろと……。結婚してからでは遅いからと」
つまり身体の相性を試しておけということらしい。
ポワソンのヒラメを小さくして頬張りながら、杏里は間を置かずに答える。
「そんなもの意味がありません。私と樹さんはただ身体を重ねて子供さえ出来ればいいのですから。結婚後でも充分です」
セックスに期待など微塵もない杏里だったので、断った。痛くても素っ気なくても別段かまわないし、子供が出来るまでに義務的にベッドに寝そべっていればいいと思っていたからだ。それに美紗と樹の涙を思い出し、なるべく彼等の関係の邪魔にならないようにと杏里も気遣っているつもりだった。
だが樹は彼特有の四代目経営者という落ち着いた様子を見せ、悠然と微笑みながら言う。
「子供を儲けるのが目的なのに、万が一、身体が合わないとなったら、あなたと離婚をしなくてはならない。そういうことはなるべく避けたいんですよね。世間体が第一であることはおわかりでしょう」
「痛くてもいいんですけど。契約ですから、そこは耐えます」
彼が瞬きをしながら、一瞬、話すのをやめた。
「もしかして杏里さん。以前にお見合いされた時の男性が『下手くそ』だったのでは? 愛人を持つ自分がいうのもなんですが、俺はああいう男は軽蔑しています。父と一緒ですからね。母の苦痛と苦悩を弟と見てきました。女性には優しくありたいと思っています」
眉唾なセリフだった。この男が言わねば、この男アホかなと杏里が鼻白むほどの……。
なのに、清潔感ある短く揃えた黒髪に、端麗な面差し、そして育ちの良さを醸し出す仕草に、質のよいスーツに時計に靴、なにもかもが整えられ、美しい男だった。普通の男が敵わぬ育ちを持つ彼だからこその気品があった。そしてその苦労は、彼と食事を重ねるたびに、互いに生い立ちを語り合った時に聞かされていたことで裏打ちされる説得力があった。
「あなたが男に失望しているからこそ、俺と契約的な結婚を決意してくれたこともわかっています。ですが、だからとてあなたの身体をぞんざいにするつもりもありません。子供を儲ける間柄なのですから、生まれてくる子供のためにも、その時だけでも男と女として、父と母としての美しい思い出にしたいと考えていますが、いかがですか」
子供のために、父と母の美しい思い出? 頬が引きつっていたのだろう。樹がそんな杏里を見てくすりとこぼす。
「杏里さんらしいですね。そんな綺麗事をいうのはかえって失礼でした」
樹の物腰がよかったのもここまでだった。
その日、食事を終えると強引に一室へと連れて行かれた。
でも。彼の顔は怖くもなく、これまで杏里が見てきた余裕の笑みで常に息だけの柔らかい声で杏里に囁き、ゆっくり優しく、杏里の思考も身体も諭していった。
危うくも杏里はときめきを覚えそうになって、必死に堪えた。
恋をしたら寂しくなる、自信がなくなる、不安になる、辛くなることが多くなる。決して、この夫になる美しい男に恋をしたら駄目……。
「杏里、杏里、……杏里さん」
うっすらと目が覚めると、素肌のままブランケットに包まれていた。
「朝だ」
樹の声がすぐそばで聞こえた。素肌のままで目覚めた杏里のすぐ隣にいる彼も裸だった。
杏里の乱れた黒髪をそっと指先ですいて撫でながら、彼が黒髪にキスをした。
「一緒に風呂でもどうですか。湯も張ってあるんですよ」
物腰のよい彼に戻っていた。その彼がまだ杏里の黒髪を撫でている。
……美紗はどのような気持ちで夜を過ごしたことか。
「うっ」と、涙が溢れてきた。本当にこれでいいのか。これで彼と彼女と生きていけるのか。取り返しのつかないことをしている複雑な痛みが襲ってくる。
「杏里さん、強引だったのは謝る。でも……、」
でも、決して悪い一夜ではなかった。彼がそう言いたくても、相手の女が泣いているので戸惑っている。
彼が言うとおりだ。むしろ人々がいう『甘美』を知ってしまった。
だったら。あの男はなんだったの。そう樹のいうとおり下手くそ。私の身体に何年も嫌な記憶を刻ませた下手くそ。本当に下手くそだったんだ。
こんな美しい彼と寝たい女は沢山いたことだろう。もしそうなって彼と朝を迎えたのなら、女は満足げに目覚めるのだろう。
なのに彼が妻にと選んだ女は今になって年若い少女のように泣いている。自分がそんなひどいことをしたのかと困惑した顔色で、杏里の黒髪に触れるのも控えて。
「本当に、あの男が下手くそだったとわかって、悔しくて泣いているんです。なのに私が原因みたいに、私のせいにして……」
彼が裸のままふっと噴きだし笑い出した。
「だろうと思っていた。絶対にそうだと思った。最低の男だな。結婚したら最低の夫だった。よかったよ、そんな男と結婚させられなくて」
本当にそうだった。そして不思議な気持ちが湧いてきた。
憎しみがかえって、駄目な男だったと『下』になったことで溜飲が下がってしまうほどだった。これまであんなに傷ついて生きてきたのはなんだったのか。自分が頑なに生きてきたことにも杏里は気付く。
あの時、結婚を断られ父親に随分なじられたことで傷ついただけで、あの男と結婚できなかったことに傷ついていたわけではない。なのに男なんてと拒否して仕事に打ち込む二十代を過ごしてきてしまった。
あの男の家族はなにかと尊大な様子で、それも嫁ぐ身としては不安だった。年若い娘を試すように疵を刻んでおいて捨てるなんて、本当に勝手な人たちだったし、そんなところに無理に嫁いでもきっと毎日が辛くて不満で溢れていたに違いない。
男なんて大嫌い。父もあの男も全部。なのにこの歳になってまだ結婚しないのかとここ数年口うるさい。結婚なんてしたくない。そう思っていたのは、全てあの見合いのせい。三十をすぎても結婚できない女は『負け犬』なんて言葉が流行っているせいで、杏里は負け犬だとまた父に罵られる。
女は結婚して子供を産んで育てて一人前。まだそんなことが当たり前に囁かれる。幾分か女性の生き方が多様化してきた平成の代になっても。
ずっと独身でいられるよう、気を強くして、仕事で生きていこうと百貨店勤めに邁進してきた。
そんな時に樹が現れた、彼の母親の目に留まった。愛人もできた女だった。
樹のような男に出会えるかといえばそうではない。
ここで言う『樹のような男』とは家柄も良く美しい彼のことではない。『女性優位で接してくれる男』という意味だ。
この男しかいないだろう。もう杏里はそう思えていた。
朝焼けの小樽湾が見える個室の風呂に、彼と一緒に入る。
「綺麗ですね」
「うん、綺麗だ」
彼は悠然としている。その彼と目が合う。杏里も微笑んでいた。
初めて感じる男性との穏やかな時。そして甘美なもの。
その後に執り行われるであろう盛大で華やかな結婚式よりも、杏里はこの朝のことを『契りの日』として心に刻むだろう。
彼と結婚したのはこの朝だったのだと……。
彼の母親のように、跡継ぎを産み、育てる母になろう。
❄ ❄
それから婚約の準備が始まったのだが、偶然にも『あの男』と遭遇してしまった。
樹と結婚式の相談へと出向いていたホテルのラウンジで再会したのだ。
あちらは、見合いを終えたあとのようで、愛らしい着物姿の若い女性がそばにいた。見覚えのある彼の母親も、品の良いお嬢様の父親も一緒だった。
杏里に結婚を匂わせ身体だけ奪った男が、見下げた目つきで意地悪い笑みを浮かべていた。
「ひさしぶり。その後はいかがかな。俺はね、やっと理想の女性と結婚することになりそうなんだ」
だから、なに。もう二十ちょっとの娘じゃない。
杏里も気強く睨み返していた。
それに。あれから五年。まだ見合いをしているのかと気がつく。
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