2.愛人と会う


 その老舗割烹の和室で、杏里と彼と彼女が向きあう形で食事の席に着いた。一対二の体勢にさせられる。


 最初はもちろん、彼女が杏里を一瞥いちべつする目線は鋭かった。いわゆる女の艶やかさをまとった長い黒髪の美人であって、女の香りに溢れていた。


 彼にべったりと寄り添って甲斐甲斐しく世話をして、私たちがどれだけ長く愛しあってきたかということを杏里に見せつけてきた。

 その様子を杏里は目を丸くしながら眺めつつも『跡取り息子って大変。好きな人と一緒になれないなんて――』時代錯誤だなというのが杏里の本音だった。


 彼女が奥さんになればいいのに。お母様が気に入らなかったから? なにその条件……。情けない、彼がきちんと彼女を守って説得すればいいじゃない。なに愛人って……。バカバカしい。家の事情や環境、彼の母親の気持ちなど重々承知ではあったが、やはりおかしい。そこは彼と彼女がそこまで愛しあっているなら勝ち取るべき物なのではないのか! 杏里は急に目が覚める。


 そうだ。これって断るキッカケにならない? 杏里は意を決して密着して楽しそうに食事をしている彼と彼女に声を張る。


「樹さんがきちんと彼女と結婚できるように、ご両親を説得すべきなのでは。その後も彼女を守るぐらいのお力はお持ちだと思います。愛人だなんてやめてあげてください。きちんと妻として愛してあげてください」


 そう言った途端だった。熱い情愛を見せつけていた彼女が正座を直し、杏里へと楚々と向きあう姿勢を見せた。

 しかも丁寧に手をついて頭を下げ始めたので、また杏里は仰天する。


「私、子供が産めません。十代の時、彼との子供を流して以降産めない身体になりました。この家の妻にはなれません。私がこの人の家にはいると、お父様が激怒されるのです。つまりお父様に特に気に入られていません。この人には家を守る事業を守る役割が一生ついて回ります。逃れられないのです。私は自分の立場も生い立ちも運命も承知済みです。大変失礼いたしました。私も……、愛している彼のためになる女性ではないと許せません……、そして……」


 その時、彼女の目に涙が光ったのを杏里は見てしまった。

 そして杏里にも同じ女としてわかってしまった。

『私が許せる女じゃないと妻にしないで』。女として当然の気持ちであって、間違っている。


 いまどき跡取りなんて、と庶民なだけの杏里は言いたい。

 でも一般家庭でも未だにあるのだ。平成の世になり十数年経っても未だに古風な日本社会はこびりついてはりついていて、やれ男の子が生まれなかった、跡取りを頼む、長男が家を継ぐ墓を継ぐなんて本当に未だに残っているのだ。

 特に彼の実家のように、北国を開拓して事業を発展させ二代三代四代目ともなれば、世襲問題はこの時代でも大きな家族問題であろう。


 そこに息子として娘としての言い分も、男と女の気持ちにも、その家のためにと相容れないものが沢山生じていたことだろう……。


 頭を下げている愛人美紗が涙ながらに吐露しはじめる。


「私のことを、そのように言ってくださった女性は初めてです。大抵の女性は愛人を拒み、受け入れても、先ほどのような私の態度には怒りを持ち、彼へ私を捨てるように詰め寄るか、結婚を断る。お許しください。愛する彼の身体を妻に預ける、この気持ち、お察しください」


 きちんとしている女性だという杏里の直感だった。


「杏里さん、試すようなことを致しました。お許しください。彼女を大事にしてくれる妻でなければいけません」


 彼まで土下座に近い形で、手をついて頭を下げてきた。


 美紗も彼もおなじ気持ちを持ち合わせていた。彼を大事にして、彼女を大事にして欲しい。

 ここで嫌な気持ちになって、老舗企業四代目という資産家の男との最高の縁談を断る女性も幾人もいたはず。


『嫌な男と愛人だ』と嫌われたならそこまで。でもこうして涙を流して頭を下げてくれているのは、きっと杏里が初めてだ。

 傲慢な跡取り息子に愛人がいて嫌な対応をする当主にはよくついて回る噂よりも、涙を流して二人で頭を下げたなんて噂のほうが当主としては不都合なことだろうに……。


「いつも、このようなことを、お見合い相手にされてきたのですか」


 二人が『はい』と答えた。杏里の胸の中にますます怒りのようなものが湧き上がった。


「いままで、樹さんに選ばれたと期待させた女性を、散々不愉快にさせたり傷つけてきたと思いますよ」


『重々承知だ』と杏里の目の前で正座をし、夫婦のように頭を下げている二人が一緒に答えた。結婚して嫌な思いをさせるぐらいなら、ここで傷ついて引き返してくれたほうが、その女性の今後のためと思ってのことなのか。


 言ってみれば自分たちが汚名をかぶり悪役をかって出ているわけだった。そこに妙な優しさを杏里は垣間見てしまう。


 ああそうか。彼等はもう夫妻なんだ。つまり……、妻とは言われながら杏里はこれから『妻という名がある、子供を産むための愛人』になるんだと悟った。それが見えたら、いままで樹に対し構えていた力が抜けた。


 その日は、愛と恋を拗らせてしまった樹と彼女と別れた。




『先日は大変失礼いたしました。お詫びにもう一度お会いできますか。これが最後でもかまいません』

 そんな彼からの呼び出しに応じた。

 この日も『あなたしかいない』と頭を下げる美麗な男性を目の前にして杏里は答える。


「わかりました。よろしくお願いいたします」


 結婚を受け入れた杏里に、彼が非常に驚いていた。


「今日までに樹さんとはいろいろお話ししてきました。いままでの私のことも……、あなたのことも、美紗さんのことも。私は愛よりも安定した心が安まる『居場所』がほしい」


 そこには口うるさい父と縁を切りたいぐらいの気持ちが含まれていた。実家から遠ざかれる安泰の居場所が杏里の願いだ。そしてその居場所は父が口出ししにくい近寄りがたいところがいい。特に世間体を気にする父のことだから、地元の老舗企業の家へ嫁ぐことは体裁的には納得してくれるだろう、この結婚は。そんな打算が杏里にはあった。


 そんな『打算』があってこそ杏里が承知したことは、樹にも通じると思っている。だから彼もすぐに安堵したかんばせにほぐれていく。


「もちろんです。美紗もそれは心得ています。妻として母親としての生活は保障し、決して邪魔はしないと心に決めています」

「美紗さんに伝えてください。私は子供を産む役割を請け負った愛人だと。あなたとの男と女の関係も子供が出来るまでと致します。以後は妻として母として努めます。あとはお二人でいままで通りにお付き合いください」


 今度は彼が頭を垂れたまま、まつげを震わせていた。彼女を手放さなくて良い――、杏里にはそう見えた。


 そんな男の愛の涙を見せまいと、彼が目元を手で覆ってしまった。もう隠しようもないのに、杏里に対する心苦しさをみせてくれていると受け取った。


「あなたのことも大事にします」

「契約結婚だと思いましょう。お家を守るためのパートナー。もちろん美紗さんも……。そうお伝えください」


 大澤樹と結婚することになった。

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