1.ありえないプロポーズ


 恋をすると孤独になる。

 それはきっと、そばにその人を置いてしまうからだ。

 その人がいなくなると孤独になる。それまで感じることがなかった『無い』を覚えてしまうのだ。


 だから恋は苦しくなる。

 孤独は嫌だ。それなら恋なんてしない。決して――。


 杏里がそう決めたのは、大学を卒業する頃。父が決めた見合い相手と上手く行かず破談した時だった。

 



 それから数年、杏里は仕事一筋で生きてきた。

 なのに――。



「あなたしかいない。お願いします。自分と結婚をしてください。跡取りを産んで欲しいのです」


 鼻筋が通った美麗な顔つきの男が、そっと杏里に頭を下げている。

 平成も半ば、2000年ミレニアムを迎えて数年。年齢も三十路に差し掛かった頃、再び杏里に『結婚』という話がやってきた。

 プロポーズは『俺の子を産んでくれ。あなたしかいない』だった。


 ここまでに至る経緯があったにはあったが、その申し出に杏里は流石に目を瞠る。

 だが呆気にとられたのも一時で、すぐに彼の言葉に理解を示すことが出来る。

 彼は小樽の倉庫業を長く営む古い家の跡取り息子だった。

 長男の彼が事業を引き継いだように、彼も跡取りを必要とする当主になったからだ。


 しかし、それだけではなかった。


「長く付き合ってきた女性も愛人にと思っています。いかがでしょうか」


 愛人付き? さらに杏里は仰天する。いや、彼ほどの跡取り息子なら、昔ながらに当主にはこの平成の世にも必要なこと?


 庶民育ちの杏里にはわからない世界にいる人がさもあたりまえのようにいうのは、そんな古い習わしがまだ生きているってこと? そんなの飲み込んで『はい、結婚しましょう』なんて言える女性はいかほどか。


「ですが……、そちらの女性が許されないのでは」

「承知済みです。自分がいつか妻を持つこと、その女性と家庭を持ち子供を持つことは、彼女も随分前から覚悟をしていましたから」


 だが所詮、女同士。正妻になろうとしている女のことなど、快く思うはずもない。しかし彼女が愛人に甘んじるには理由があった。


「彼女は十代の時に子供を産めない身体になったため、こちらの家に適う嫁にはなれないのです」


 だから産める女を妻として娶らねばならない。頭を下げ続け、杏里と目も合わせられない彼の眉間には深い皺が刻まれている。

 杏里に申し訳ないからなのか。それとも自分にとって不本意な結婚にしかならないからなのか。或いは、女に頭を下げていることへに対しての苦痛なのか……。まだ妻ではない杏里には判らない。


「母が気に入り、彼女が許してくれる女性は、あなたしかいないのです」


 それも確かなことで、そもそもこの跡取り息子のためにと最初に「息子と会って欲しい」と杏里に申し出たのは彼の母親だった。





 彼、大澤 樹おおさわ・いつきの母親が、百貨店で外商員をしている杏里のことを気に入ってくれ、そのまま『息子に会ってみない』と食事をセッティングされ……というのが経緯だった。外商員見習いとして上司について、小樽にある彼の実家邸宅によく訪問していたので面識があるにはあった。


 そんな札幌小樽という北海道の都市部で、手広い事業を展開させている会社跡取り息子の妻にという話が来るだなんて青天の霹靂。お客様と販売員の関係だったのに、そんないきなり『嫁姑になりましょう』とにこやかに言われても杏里も困惑するだけだった。


 だがそこは会社員かな。上顧客であったため上司にまで手が回り、『食事だけでもいいだろ。行ってこい。お母様としては息子が気に入らない可能性のほうが高いから、武藤が断ってもまったくかまわないと寛大に申してくれていることだし、仕事にも影響はさせないと俺と約束してくれた』というので渋々、仕方なく、仕事の一環だと思って会いに行ったら、気に入られてしまったのだ。


 そのうちに彼と休日に会うようになると、彼からもはっきりと言われた。


「まず母が気に入っていないといけないんですよ。それ第一条件。そして僕が気に入らないといけないんですよ。これ第二条件――」


 そんな家だから、嫁姑問題でごたごたするような要素は取り除きたく、まずは母親の顔色を窺っているという。


 父親は暴君で好き勝手をする三代目だから、本当の意味で世の中や人をよく見て人員整理に長けているのは母親だ、その母が貴女を選んだから間違いない、と彼が言う。


 世間一般ではこれこそ『マザコン』と蔑むだろう。母親の意見など気にせずに己の選択ができるのが自立した大人の男というもの。それでも杏里が受け入れてしまうのは、彼の母親のことは顧客として接してきた外商員だったからこそだった。彼に会う回数よりも遙かに超える数だけ会ったお母様の人柄を知っているからだ。


 けっして自己本位で物事を選ぶ人物でもなく、息子を溺愛しているわけでもない、『家』を案ずる気苦労を背負って責任を担ってきた聡明な人だ。なにより、暴君三代目の夫が病に伏せるようになってから後、跡取り息子の若い彼が見事に事業を展開させている手腕も知れ渡っている。


 一目置かれる若手経営者であることは、事業界隈では有名な話だった。そんな男がマザコンなんて汚点に甘んじるとか、聡明なお母様がマザコンとして育てるだなんて誤った選択をするはずもない。いや、杏里自身が、この奇妙な展開に巻き込まれ、そんな人たちじゃないしっかりした上流社会の人間だ――と信じたい要素を探して並べてなんとか自分は正常だと言い聞かせたかったのかもしれない。


 そしてさらなる条件もまだ残っている。


「それから愛人が許してくれること、これも第三条件。彼女は……、美紗にはあなたのことをきちんと話しています」


 その愛人にも杏里は会うことになった。円山にある老舗割烹の和室で三人向きあって食事をすることになり、なんの憚りもなく彼は『愛人も紹介しますね』と持ちかけてきたのだ。それには杏里も唖然とした。


 彼の愛人に会うことになってしまった。



※花はひとりでいきてゆく関連作になります。未読の方はネタバレにご注意ください※

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